第34話 最後に手を握る順番
棺のある広間へ戻る前に、蒼汰は広間脇の長卓をまた一度だけ見た。
父の知らない顔が、もう完全にひとつの列になっている。
兵站局の黒箱。
商隊旗。
大勲章。
削られた勲札。
宮旗。
裂かれた婚約書類。
銀の燈。
祭壇布。
学監棒。
教育日誌の複写。
夜紋。
盟約写し。
羅針儀。
消えた線の地図。
銀の主席笛。
規定集。
巨大な解除鍵。
河渠院旗。
帰還優先灯の運用標。
統制塔旗。
鐘槌。
礼楽院旗。
真鍮札。
図書院旗。
銀筆。
紋章院旗。
打診槌。
医学院旗。
赤い指揮灯。
消防局旗。
焼けた識別札。
捕虜交換局旗。
黒い配炭札。
蔵政院旗。
木の便札。
児童保護院旗。
白い墓標札。
墓政司旗。
青銅の出港札。
港務局旗。
ひとつひとつが違う世界の品なのに、全部が同じことを言っている気がした。
間に合う側を見ろ。
切れる前に寄せろ。
消すな。
後ろへ回すな。
その夜の正解を見失うな、と。
蒼汰は深く息を吐いた。
次、看取り当番表だったよな
冬城が頷く。
はい
王立施療院の看取り当番表を一晩分、守様に書き換えられた主任看護官の方です
……今度は当番表かよ
そうなります
守が頭の奥でぼそりと言う。
あれは、誰が最後に手を握るかの順番だった
蒼汰は小さく目を閉じた。
本当に最後まで同じだな
あんた
だいたい同じだろう
リュシエラが横で静かに言う。
看取りの当番は、夜の側でも重いです
誰を一人にしないかの順番が出ますので
慰めが一個もないな
慰めではありませんから
蒼汰は小さく呻きつつ、応接室へ向かった。
扉が開く。
今度の部屋の空気は、温かかった。
薬品の匂いはある。
だが強くはない。清潔な布、温めた湯、乾いた木、少しだけ花の匂い。
施療院の夜勤室か、家族待機室に近い空気だった。
誰かが眠れずに座り、誰かが静かに泣き、誰かが最後の水を口へ含ませるような場所の匂いだ。
中央に立っていたのは、女だった。
年齢は五十代後半ほど。
背は高くない。だが小さく見えない。長く夜勤に立ち、臨終の部屋へ出入りし、家族の背を押し、最後に手を握る役を自分でも何度も引き受けてきた人間の、崩れない静けさがあった。
黒の礼装の上に、白ではなく淡い灰青の肩掛けをかけている。看護衣ではない。だが一目で、病む者のそばに立つ側の人間だと分かる顔だった。
髪は灰色で短く整えられ、手元には薄い革手袋。目は柔らかい。だが、その柔らかさの奥に、夜勤を終えたあとの疲れが沈んでいた。
後ろには若い看護官が二人。
ひとりが細長い木箱を、もうひとりが分厚い勤務簿と、薄青の旗包みを抱えている。
冬城が告げる。
王立施療院主任看護官、クララ・ミュラー様です
守様に、看取り当番表を一晩分、書き換えられたご当人です
女――クララは、蒼汰を見て深く一礼した。
奏多蒼汰殿
声は穏やかだった。
だが弱くはない。眠れない家族へ、もうすぐですと告げる時も、この声なのだろうと思わせる声だった。
私はクララ・ミュラー
王立施療院主任看護官
そして、守殿に看取り当番表を一晩分、勝手に書き換えられた者です
蒼汰は一拍置いてから言った。
……当番表までやるんですね、あの人
クララの目元が、ほんの少しだけ和らぐ。
ええ
しかも一番、人手の足りない夜に
守が頭の奥でぼそりと言う。
足りない夜じゃないと意味がないからな
本当に毎回それだな
違うか
蒼汰は冬城に促され、椅子へ座る。
クララも向かいへ腰を下ろした。
動作に無駄がない。だが軍や行政のような硬さではなく、人のそばへ寄る時の距離を体で知っている人の座り方だった。
クララは勤務簿を机の上へ置いて開いた。
夜勤表、病室番号、担当看護官、巡回間隔、看取り付き添い、家族連絡予定時刻。
そのうち一頁だけ、後半の数行が線で消され、横へ父の字で新しい割当が書き込まれている。
蒼汰は目を細めた。
父さんの字だ
守が頭の奥で言う。
ああ
また勝手に、だろ
そうだな
クララが静かに続ける。
その夜、施療院では三名が臨終期にありました
一人は老将校
一人は長く病んだ画家
そしてもう一人が、身寄りのない縫製工の女でした
蒼汰は黙って聞く。
看取り当番には基準があります
容体、家族の有無、急変率、巡回人数
限られた夜勤の中で、誰のそばへ誰を置くかを決める
綺麗事では回りません
クララは一拍置いた。
その夜の表も、手順としては正しかったのです
家族が今まさに来る老将校には上位看護官を
画家には弟子が一人付き添っていたので巡回を厚く
身寄りのない縫製工の女は、巡回の合間に看取りへ入る
そういう表でした
蒼汰は、そこで少しだけ目を伏せた。
見えてくる。
父が嫌いそうな順番だ。
守殿が来たのは、夜半の湯沸室でした
本来は外傷病棟の物資確認だけで終わる立場でしたが
看取り棟の湯が足りないと聞いて、勝手に入ってきた
またそこからかよ……
蒼汰がぼそりと漏らすと、クララはほんの少しだけ苦笑した。
ええ
しかも、最初に見たのは当番表です
私は説明しました
人手が足りない
全員へ一対一で付き添えるわけではない
だから順番を決めるしかないと
すると守殿は、一度だけ頷いて
そのあと、こう言いました
クララの声が少しだけ低くなる。
これ、死ぬ順じゃないな、と
部屋が静かになる。
蒼汰は小さく息を呑んだ。
まただ。
父は本当に、最後までそれを見る。
私は反論しました
死ぬ順ではありません
一人にできる順です、と
クララの目元に、ほんのわずかに当時の悔しさが浮かぶ。
私は間違っていませんでした
夜勤は三人
臨終期は三名
他病棟の急変もある
手のかからない方を、一時的に一人にするのは現実です
すると守殿は、そうだな、と言いました
そのうえで
一人で逝ける顔してるやつを、一人にするな、と続けた
蒼汰は言葉を失った。
クララは勤務簿の一か所を指す。
身寄りのない縫製工、エリザ・フォーク
五十七歳
肺病末期
家族連絡先なし
意識清明
看取り巡回、三十分ごと
守殿だけが、その三十分ごとを見て
この人は、次の三十分で切れる顔だと言いました
切れる顔って……
蒼汰が問うと、クララは静かに答えた。
諦め切る方へ、です
生きることではなく
最後に手を握られないまま、自分で終わらせてしまう方へ
蒼汰は、喉の奥が少し熱くなるのを感じた。
守が頭の奥でぼそりと言う。
あの人、誰かを待つ顔をしてた
蒼汰は何も返せなかった。
クララは続ける。
守殿は、当番表を見たあと
老将校の部屋を一度見て
画家の部屋も見て
最後にエリザ・フォークの部屋へ入りました
そこで五分だけ話し
戻ってくるなり、私のペンを取って当番表を書き換えたのです
また勝手に……
はい
ひどく
クララの声は穏やかだった。
だがその穏やかさの下に、当時の本気の疲れがあった。
老将校には家族が三人到着していた
画家には弟子がついていた
一人なのは、あの人だけだ
だったら一番上をそこへ変えろ
守殿はそう言いました
私は激怒しました
看取りは感情で組むものではない
すると守殿は、感情じゃない
最後に人の手が要る順だ、と返した
蒼汰は机の上の父の字を見つめた。
また父だ。
何かを特別扱いしたいのではなく、その夜だけの不足を見ていた。
それで、変えたんですか
はい
現場判断で
クララは即答した。
私は老将校の家族へ、手の握り方と呼吸の見方を教え
画家の弟子には離れないように言い
空いた上位看護官を、エリザ・フォークの部屋へ入れた
守殿ご自身も、その夜だけは廊下に残りました
蒼汰は少しだけ目を瞬いた。
父さんが?
はい
クララは頷く。
深夜二時過ぎ
エリザ・フォークは、最初で最後のわがままを言いました
誰かがいるなら、寝たふりしないでほしい、と
部屋が静まる。
その一言が、妙に生々しく胸に刺さる。
身寄りがない、家族がいない、最後は一人でいい。
そういう諦めの奥に、たった一つだけ残っていた願いだったのかもしれない。
守殿は、その時だけ病室へ入り
起きてる、と答えました
蒼汰は少しだけ息を呑んだ。
それで?
最後まで、誰かの手がありました
朝前に亡くなりましたが
一人ではありませんでした
クララはそこまで言って、少しだけ目を伏せた。
私はあの夜、守殿に看取りの順番を書き換えられました
ですがそのおかげで、一人で逝くつもりだった人は、一人で逝かずに済んだ
蒼汰は何も言えなかった。
父はまた、最後まで静かすぎる方を後ろへ置かなかった。
クララは細長い木箱を開けた。
中に入っていたのは、小さな真鍮の呼鈴だった。
病室の枕元に置くものらしい。古く、よく磨かれている。鈴の音は鳴らしていないのに、見ただけで軽い音が想像できた。
側面には、王立施療院看取り棟の刻印が入っている。
これは、看取り棟の夜勤呼鈴です
その夜、エリザ・フォークの枕元に置かれていたもの
本来なら棟の備品であり、外へは出ません
そんな大事なものを
はい
大事なものです
クララは頷く。
守殿は勲章より、こうした呼び鈴の方が近い
あの方は死を止めたかったのではない
最後に誰の手が届くかを気にした
ですから、これがふさわしい
さらに、薄青の旗包みが開く。
現れたのは旗だった。
王旗でも医学院旗でもない。施療院看護局旗だ。
淡い青地に銀糸で灯、手、波線が刺繍されている。
最後のそばへ立つ側の旗なのだろう。
本式の日
王立施療院看護局は、この旗を半旗とします
また看取り棟の夜勤詰所では、交代表を一枠だけ空欄にします
欠員ではありません
あの夜、守殿が勝手に座っていた椅子の分です
蒼汰は、その情景を思い浮かべた。
夜勤詰所。
半旗。
埋まっているはずの当番表に、一枠だけ残された空白。
父への礼として、それはやけに似合っていた。
クララは最後に、一枚の紙片を差し出した。
見慣れた、守の字だった。
看取りは止められん
だが、最後の三十分を一人にする順番なら変えられる
そういう夜は、だいたいある
蒼汰は、それを読んでしばらく黙った。
また同じだ。
終わりをなくすのではなく、終わりの手前へ誰を置くかを変える。
父は本当に、そういうことばかりしている。
クララが静かに立ち上がる。
奏多蒼汰殿
私は守殿に、看取り当番表を一晩分書き換えられました
ですがそのおかげで、一人で終わるつもりだった人の最後に、手が残った
ゆえに礼を申し上げます
蒼汰は呼鈴と旗と紙片を見てから、ゆっくり言った。
……預かります
ありがとうございます
去り際、クララは一度だけ棺の方角を見た。
それから蒼汰へ向き直る。
守殿は、たぶんご家庭でも
最後に何を言うかより、最後までそばにいるかどうかの方を気にする人だったのでしょうね
蒼汰は少しだけ目を瞬いた。
そして、息を吐いた。
……ああ
言葉は下手でしたけど
最後に帰ってくるかどうかは、妙に気にする人でした
でしょうね
クララの目元が、ほんの少しだけ和らぐ。
あの方は、綺麗な別れ方より
一人にしない終わり方の方を見ていたのでしょう
それだけ言って去っていく。
扉が閉まる。
応接室に戻った静けさの中で、蒼汰は真鍮の呼鈴をそっと持ち上げた。
軽い。
でもその軽さの中に、最後の三十分を一人で過ごさずに済んだ夜の重さが詰まっている気がした。
守
何だ
あんた、本当にそういうとこばっかり見てたんだな
見えると、放っておけんからな
放っておけないって
便利だけど、だいぶ面倒だぞ
そうだろうな
蒼汰は小さく息を吐いた。
父が珍しく、軽口ではなくそのまま返してきた気がした。
冬城が静かに近づく。
かなりお疲れかと
うん
でも……
父さんが見てたの、たぶん最後まで同じなんだな
どういう意味でしょう
蒼汰は呼鈴を見下ろした。
正しい順番とか、正しい当番とか、正しい終了とか
そういうのは分かってても
そのせいで最後に一人になるやつがいるなら、そこを変えるんだなって
冬城が小さく頷く。
ええ
守様は、かなりそうです
リュシエラが横で静かに言う。
夜の側でも同じです
死を止められなくても、一人にしないことはできますので
蒼汰は少しだけ笑った。
父さん、本当に最後までそういうことばっかりしてんな
守は少しだけ黙った。
それから低く返す。
そうかもしれん
冬城が机上の品を整える。
少し棺のおそばへ戻られますか
うん
戻りたい
蒼汰は新しく増えた呼鈴と旗を抱え直す。
もう本当に持ちきれない。
それでも、やっぱりどれも置いていけない。
扉へ向かいながら、何となく聞く。
次は?
冬城はほんの少しだけ考えた。
守様に、王都施療給食の配膳順を一食分、崩された厨房監督の方です
蒼汰はその場で止まった。
……また飯かよ
守が頭の奥で低く返す。
飯は早い方がいい時がある
本当に最後まで、そこへ戻るな!
蒼汰は深く息を吐いた。
父、奏多守は、死んでからもなお、最後に一人になりそうな側と、手が届かないまま終わりそうな側ばかりを、勝手に前へ寄せ続けていた。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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