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父、奏多守はほら吹きではなかった  作者: てへろっぱ


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33/35

第33話 凍る前に港を離せ

棺のある広間へ戻る前に、蒼汰はまた一度だけ長卓を見た。


父の知らない顔が、もはや一つの展示みたいに並んでいる。


兵站局の黒箱。

商隊旗。

大勲章。

削られた勲札。

宮旗。

裂かれた婚約書類。

銀の燈。

祭壇布。

学監棒。

教育日誌の複写。

夜紋。

盟約写し。

羅針儀。

消えた線の地図。

銀の主席笛。

規定集。

巨大な解除鍵。

河渠院旗。

帰還優先灯の運用標。

統制塔旗。

鐘槌。

礼楽院旗。

真鍮札。

図書院旗。

銀筆。

紋章院旗。

打診槌。

医学院旗。

赤い指揮灯。

消防局旗。

焼けた識別札。

捕虜交換局旗。

黒い配炭札。

蔵政院旗。

木の便札。

児童保護院旗。

白い墓標札。

墓政司旗。


どれも父の武勇そのものではない。

それでも全部、父のしたことをやけに正確に表している。


蒼汰は深く息を吐いた。


次、港務長だったよな


冬城が頷く。


はい

王都越冬船団の出港延期基準を一度、守様に無効化されたご当人です


……また出るか帰るかの話か


そうなります


守が頭の奥でぼそりと言う。


あれは帰れるうちに出した方がよかった


その理屈、もう聞き慣れてきたのが嫌なんだよな


だが合ってただろう


リュシエラが横で静かに言う。


冬の船は、待つ方が危ないこともあります

港にいる方が安全とは限りませんので


慰めが一個もないな


慰めではありませんから


蒼汰は小さく呻いて、応接室へ向かった。


扉が開く。


今度の部屋の空気は、塩と油と冷えた木の匂いがした。

海そのものではない。

だが冬の港で、夜明け前に荷役が始まる前の管理棟へ入ったらこういう匂いがしそうだった。


中央に立っていたのは、女だった。


年齢は五十代前半ほど。

背は高い。細いが弱くは見えない。長く港湾管理と航行判断に立ち会ってきた人間の、張りつめた芯があった。

黒の礼装の上に、深藍の長外套。肩から胸にかけて銀糸で細い波線が走っている。軍服でも宮廷服でもない。港務の高官だと一目で分かる。

髪は鋼色で短く切り揃えられ、左目の下に古い裂傷の痕。声を荒げなくても人が従う顔だった。


後ろには若い港務官が二人。

ひとりが細長い箱を、もうひとりが分厚い運航記録簿と、濃い青の旗包みを抱えている。


冬城が告げる。


王都外港総港務長、イルゼ・ノルトハイム様です

守様に、王都越冬船団の出港延期基準を一度、無効化されたご当人です


女――イルゼは、蒼汰を見て深く一礼した。


奏多蒼汰殿


声は低く、鋭かった。

風と波音の中でも通る声だった。


私はイルゼ・ノルトハイム

王都外港総港務長

そして、守殿に越冬船団の出港延期基準を無効化された者です


蒼汰は一拍置いてから言った。


……本当に、毎回すごいとこ壊してますね


イルゼの口元が、ほんの少しだけ動いた。


ええ

しかも、だいたい一番忙しい夜に


守が頭の奥でぼそりと言う。


忙しい夜じゃないと意味がないからな


それ、本当に毎回言うな


だいたい毎回同じだからな


冬城に促され、蒼汰は椅子へ座る。

イルゼも向かいへ腰を下ろした。

座り方まで無駄がない。机上の記録簿へ今すぐ指を置き、出せるか出せないかを即断しそうな座り方だった。


イルゼは運航記録簿を机の上へ置いて開く。

そこには、船名、積載量、氷圧予測、乗員数、救命設備、出港可否が並んでいた。

中央の一頁だけ、赤い封線が引かれ、その上から父の字で大きく書き込まれている。


待つな

今夜出せ


蒼汰は目を細めた。


父さんの字だ


守が頭の奥で言う。


見れば分かるだろう


自分で言うなよ


イルゼが静かに続ける。


その冬、北航路は例年より早く閉じる予測が出ていました

流氷ではなく、冷えによる港口凍結です

王都越冬船団は、本来なら第三暦日までに全便を出し切る

ですが、その年は疫病避難民の積み込みと、内陸遅延貨物の再集結で、二隻が港に残った


蒼汰は黙って聞く。


通常なら延期です

氷圧が上がる夜に無理に出せば、港外で止まる

止まれば、船ごと凍えます


それは分かる。

待つ方が安全に聞こえる。


守殿だけが違いました


イルゼの声が少しだけ低くなる。


あの方は、残った二隻の積荷表を見て

最初にこう言いました

これ、春まで待たせる方が切れるな、と


蒼汰は小さく息を吐いた。

まただ。

本当にどこでもその言い方だ。


私は反論しました

出港延期基準は、船と乗員を守るためのものだ

冬の夜に港を出すなど、港務長として許可できない

すると守殿は、一度だけ頷いて

そのうえで、船を守る基準で、岸に残る方が死ぬなら、その基準はもう港の都合だ、と返した


部屋が静まる。


蒼汰は記録簿を見つめる。

父はまた、海の上ではなく、港に残る側を見ていた。


積荷って、何だったんですか


蒼汰が問うと、イルゼは記録簿の別頁を示した。


一隻目は、北沿岸療養村向けの越冬薬資

二隻目は、沿岸孤児院と救護小屋へ回す乾燥食と毛布、それから灯油

春まで待てば、港は安全です

だが北沿岸側は、春まで持たない可能性が高かった


守が頭の奥でぼそりと言う。


港の中は温かい

向こうは違う


蒼汰は心の中で返す。


それで、出せって言ったのか


ああ


イルゼは続ける。


守殿は、出港延期基準そのものを否定したのではありません

ただ、その夜だけは外せと言った

しかも、ただ出せではなく

港口氷結前の薄い潮走りを使え、と


蒼汰は眉を寄せた。


潮走り?


夜明け前の一刻だけ、外港東壁沿いに流れる細い温流です

通常は貨物船の主航路には使いません

狭く、危険で、護衛も付きにくい

だから基準上は除外です


守殿は、それを使えと言いました

港外の大きな安全ではなく

今夜だけ通る細い帰り道を選べ、と


蒼汰は少しだけ目を伏せた。

また父だ。

大路より細道。

平均より今夜。

そればかりだ。


止めなかったんですか


止めました


イルゼは即答した。


副長も

氷測官も

船長二名も

ですが守殿は聞かない

挙げ句、出港延期の赤封線を自分で破った


物理的に?


はい

私の机の上で


蒼汰は小さく天井を仰いだ。


……また物理か


守が頭の奥で言う。


封線は紙だからな


そこじゃないんだよ


イルゼの目元に、ほんの少しだけ本気の呆れが滲む。


私は激怒しました

港務基準を机の上で破るなど、言語道断です

すると守殿は、怒鳴り返しはしませんでした

珍しく静かに、こう言った


イルゼの声が低くなる。


出せる時に出さない船は、だいたい港で綺麗に止まる

だが、止まってる間に向こうが切れたら、その綺麗さは誰のためだ、と


蒼汰は言葉を失った。


それで、出したんですか


はい

条件付きで


イルゼは記録簿の最後の頁を示す。


守殿の案をそのまま飲んだわけではありません

東壁潮走りを使う代わりに、積み荷をさらに軽くした

非必需貨物をすべて降ろし、乗員も最小限

その上で、小型曳船を二隻つけて押し出した

危険でした

ですが結果として、北沿岸療養村も孤児院群も、あの冬を越えた


蒼汰はしばらく黙っていた。

まただ。

父は規則を全部壊したのではない。

今夜の正解へ、一回だけ基準を横へずらした。


イルゼは細長い箱を開けた。


中に入っていたのは、小さな青銅の出港札だった。

船名札ではない。港務の最終許可札らしい。表に出港許可、裏に東壁潮走り限定の刻印。縁に新しい傷があり、荒れた夜に急いで扱われたのだと分かる。


これは、その夜の最終出港札です

本来なら記録庫へ戻します

ですが今日はこちらをお持ちしました


そんな大事なものを


はい

大事なものです


イルゼは頷く。


守殿は勲章より、こうした現場許可の方が近い

あの方は安全そのものを軽んじたのではない

安全基準のせいで、向こうの冬が切れることを嫌った

ですから、これがふさわしい


さらに、濃い青の旗包みが開く。

現れたのは旗だった。

王旗でも軍旗でもない。港務局旗だ。

深青地に銀糸で灯台、波、環が刺繍されている。

出すか止めるかを決める側の旗だった。


本式の日

王都外港は、この旗を半旗とします

また外港東壁の潮灯を、夜更けに十九呼吸だけ先点します

本来なら出港延期の夜に灯すことのない灯です

ですが今夜は、守殿が一度だけ無効化した基準を忘れていないと示すために


蒼汰は、その光景を思い浮かべた。

冬の港。

半旗。

夜のうちに先につく潮灯。

父への礼として、それはやけに似合っていた。


イルゼは最後に、一枚の紙片を差し出した。

見慣れた、守の字だった。


港は待てる

向こうの冬は待てない

帰れるうちに出せるなら、その夜が基準だ


蒼汰は、それを読んで少しだけ笑った。

また同じだ。

父は本当にどこでも、「待てない側」を先に見る。


イルゼの目元が、ほんの少しだけ和らぐ。


守殿は、海を甘く見たのではありません

むしろ怖さを知っていた

その上で、港の安全と向こうの冬を秤にかけた

ゆえに、私は怒りながらも礼を言いに参りました


蒼汰は青銅の札と旗と紙片を見て、ゆっくり言う。


……預かります


ありがとうございます


イルゼは立ち上がり、深く一礼する。

去り際に一度だけ棺の方角を見て、それから蒼汰へ向き直った。


守殿は、たぶんご家庭でも

出発そのものより、間に合ううちに出せるかの方を気にする人だったのでしょうね


蒼汰は少しだけ目を瞬いた。

それから苦く笑う。


……当たってます

出かける時間には適当なのに

これ以上遅れるとまずいって時だけ、妙にうるさかったです


でしょうね


イルゼの口元が、ほんのわずかに緩む。


あの方は、きれいな時刻表より

切れる前に出られるかの方を見ていたのでしょう


それだけ言って去っていく。

扉が閉まる。


応接室に戻った静けさの中で、蒼汰は青銅の出港札をそっと持ち上げた。

軽い。

でもその軽さの中に、冬を越せた北沿岸の朝が詰まっている気がした。



何だ


あんた、本当にどこでも同じことしてるな


だいたい同じだろう


またそれかよ


違うか


蒼汰は小さく息を吐いた。

違わない。

それが、嫌なくらい見えてきていた。


冬城が静かに近づく。


かなりお疲れかと


うん

でも……

父さんが見てたの、やっぱり「待てない側」なんだな


どういう意味でしょう


蒼汰は札を見下ろした。


規則とか安全とか順番とか

待てる側の理屈はいっぱいあるけど

待ったら切れるやつ、待ったら届かないやつ、待ったら帰れないやつ

そういうのを、ずっと先に見てたんだなって


冬城が小さく頷く。


ええ

守様は、かなりそうです


リュシエラが横で静かに言う。


夜の側でも同じです

持つ側より、持たない側を先に見ないと、あとで全体が崩れますので


蒼汰は少しだけ笑った。


本当に、父さんの理屈はずっと一緒なんだな


守は少しだけ黙った。

それから低く返す。


そうかもしれん


冬城が机上の品を整える。


少し棺のおそばへ戻られますか


うん

戻りたい


蒼汰は新しく増えた出港札と旗を抱え直す。

もう本当に持ちきれない。

それでも、どれもやっぱり置いていけない。


扉へ向かいながら、何となく聞く。


次は?


冬城はほんの少しだけ考えた。


守様に、王立施療院の看取り当番表を一晩分、書き換えられた主任看護官の方です


蒼汰はその場で止まった。


……今度は当番表かよ


守が頭の奥で低く返す。


あれは、誰が最後に手を握るかの順番だったからな


本当に最後まで、そういうとこばっかり見てるな


蒼汰は深く息を吐いた。


父、奏多守は、死んでからもなお、待てない側と、切れそうな側と、遅れたら届かない側ばかりを、勝手に前へ寄せ続けていた。

最後までお付き合いいただき感謝します。

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