第32話 未確認のまま埋めるな
棺のある広間へ戻る前に、蒼汰は広間脇の長卓をまた一度だけ見た。
父の知らない顔が、もう完全に列を成している。
兵站局の黒箱。
商隊旗。
大勲章。
削られた勲札。
宮旗。
裂かれた婚約書類。
銀の燈。
祭壇布。
学監棒。
教育日誌の複写。
夜紋。
盟約写し。
羅針儀。
消えた線の地図。
銀の主席笛。
規定集。
巨大な解除鍵。
河渠院旗。
帰還優先灯の運用標。
統制塔旗。
鐘槌。
礼楽院旗。
真鍮札。
図書院旗。
銀筆。
紋章院旗。
打診槌。
医学院旗。
赤い指揮灯。
消防局旗。
焼けた識別札。
捕虜交換局旗。
黒い配炭札。
蔵政院旗。
木の便札。
児童保護院旗。
どれもこれも、父がどこかで誰かの順番や線や名前を、勝手に動かした痕だった。
蒼汰は深く息を吐く。
次、埋葬台帳だっけ
冬城が頷く。
はい
王都埋葬台帳の未確認欄を一行、守様に消された墓政司の方です
……また空白かよ
そうなります
守が頭の奥でぼそりと言う。
未確認のまま埋めるなって話だ
本当に最後まで同じだな
だいたい同じだからな
リュシエラが横で静かに言う。
埋葬台帳の未確認欄は、夜の側でも嫌われます
死者はもう名乗れませんので
その言い方、だいぶ重いな
重いものですから
蒼汰は小さく息を吐いた。
父はまた、声を上げられない側を見ていたのだろう。
たぶんそうなのだと、もう先に分かってしまう。
応接室の扉が開く。
今度の部屋の空気は、石と蝋と乾いた土の匂いがした。
図書院の紙の匂いとも、礼楽院の蝋の匂いとも違う。
静かで、冷たすぎず、でも少しだけ地下に近い匂い。
墓所の管理室か、埋葬記録庫に入ったらこういう空気なのかもしれない、と蒼汰は思った。
中央に立っていたのは、女だった。
年齢は六十代半ばほど。
背は高くない。痩せている。だが弱くは見えない。長く死者の名前を書き、遺族の声を聞き、埋葬順と墓標と確認記録を揃えてきた人間の、崩れない芯があった。
黒の礼装の上に、灰白の長衣を重ねている。聖職者ではない。医師でもない。だが一目で、死者を扱う側の人間だと分かる静けさがある。
髪は白く、きっちり後ろへ束ねられ、胸元には小さな鉄の名板が下がっていた。目は薄い青灰色で、ひどく落ち着いていた。
後ろには若い職員が二人。
ひとりが平たい木箱を、もうひとりが分厚い埋葬台帳と、灰銀の旗包みを抱えている。
冬城が告げる。
王都墓政司筆頭墓政官、サビーネ・ローデ様です
守様に、王都埋葬台帳の未確認欄を一行、消されたご当人でもあります
女――サビーネは、蒼汰を見て深く一礼した。
奏多蒼汰様
声は低く、穏やかだった。
静かな墓地でも届くように整えられた声だ。
私はサビーネ・ローデ
王都墓政司筆頭墓政官
そして、守様に未確認欄の一行を消された者です
蒼汰は一拍置いてから言った。
……その人、本当にあちこちで消してますね
サビーネの目元が、ほんの少しだけ和らぐ。
ええ
腹立たしいほどに
でも礼を言いに来た
はい
やはりそう返ってくる。
今夜ずっと続いている形だった。
冬城に促され、蒼汰は椅子へ座る。
サビーネも向かいへ腰を下ろした。
動作に無駄がない。だが軍人のような硬さではなく、帳簿の一行と遺族の一声を同じ重さで扱う人の座り方だった。
サビーネは分厚い埋葬台帳を机の上へ置いて開いた。
古い革表紙。重い紙。細かな字。
そして一か所だけ、欄の文字が削り取られ、上から別の名前が書き直されている。
未確認 女 一名
その文字が、きれいに消されていた。
蒼汰は目を細めた。
父さんの字だ
守が頭の奥でぼそりと言う。
ああ
自分で言うなよ
見れば分かるだろう
サビーネが静かに続ける。
その年、南河岸の仮設市場で、崩落と火災が重なりました
倒壊、圧死、焼損、逃げ遅れ
遺体が多かった
しかも一部は身元確認が難しかった
墓政司には規則があります
身元確認が不十分な遺体は、一定時刻を過ぎれば未確認欄へ記し
仮埋葬へ回す
感染や混乱を避けるためです
分かる気がする。
遺体をずっと置いておくわけにはいかない。
確認を待つこと自体が、また別の混乱を生むのだろう。
問題になったのは、その夜最後の一行でした
サビーネの指が、削られた欄へ止まる。
女性一名
推定三十代
河岸東端より収容
所持品、裁縫具、青い糸巻き一本、小銅貨三枚
照会なし
親族名乗り出なし
仮埋葬予定、未確認
蒼汰は黙って聞く。
守殿が来たのは、埋葬札の打刻直前です
本来は崩落区画の残置物確認に来ていたらしい
ですが台帳を見て、そこで止まりました
また、そこか
蒼汰がぼそりと言うと、サビーネはほんの少しだけ頷いた。
ええ
守様は、たいていそこで止まります
私は申しました
時刻です、と
未確認のままでも、埋葬は進めなければならない
守様は一度だけ頷いて、それからこう言いました
サビーネの声が少しだけ低くなる。
埋めるのは急げ
だが無名にするのを急ぐな、と
部屋が静かになる。
蒼汰はその言葉を胸の中で繰り返した。
父らしい。
ひどく父らしい。
終わらせるな、ではなく、無名にするな。
そこが父だった。
私は反論しました
時刻を越えれば仮埋葬の記録が遅れ
他の遺族確認もずれ込む
死者全体の管理が崩れる
守様は、それも分かると仰った
そのうえで、ならこの一行だけはまだ違う、と続けた
どうして
蒼汰が問うと、サビーネは台帳の横へ、もう一枚の紙を置いた。
避難所照会簿らしい。そこに、幼児一名、身元不詳、言語応答弱、青糸巻き所持という行がある。
同じ夜
避難所側で、幼い女児が一人保護されていました
声がほとんど出ない
泣きもしない
名前を聞いても答えない
だから照会は後回しになっていた
守が頭の奥で言う。
泣かない子だった
蒼汰は何も返さなかった。
また、それだ。
父は本当に、静かな方を後ろへ置かない。
守様は、遺体の所持品にあった青い糸巻きを見て
避難所照会簿の備考と一致していると言い出しました
私は言いました
それだけでは証にならない、と
すると守様は、証になる前に埋めるな、と返した
蒼汰は、深く息を吐いた。
それで、どうしたんですか
避難所まで走りました
サビーネは即答した。
私と
守様と
若い墓政吏を一人連れて
そこで初めて、サビーネの声に少しだけ昔の息が混じった。
たぶんその夜を、体で覚えているのだ。
女児は隅に座っていました
毛布を掛けられ
糸巻きを握ったまま
声を出さずに
ただ、裁縫具の包みにだけ反応した
サビーネは一拍置く。
守様は、その子の前で膝をついて
これ、お前の母さんのか、と聞きました
女児は答えませんでした
でも、頷いた
蒼汰は喉の奥が少し詰まるのを感じた。
それで、名前が分かったんですか
すぐには
ですが守様は、そこから先も止まりませんでした
サビーネは別紙を一枚めくる。
河岸貸席台帳、仕立屋の外注記録、施療院の洗濯札控え。
細かな記録がいくつも並んでいる。
守様は、裁縫具の癖を見て、河岸東端の仕立屋筋へ当たれと言いました
糸の巻き方、針包みの折り方、布袋の縫い目
そういう細部で、使っていた店と仕事筋が絞れると
私は半信半疑でした
ですが、一つだけ合った
未確認の女性は、エルザ・マイン
河岸東端の外注縫い子
保護された女児の母親でした
部屋が静まり返る。
蒼汰は、台帳の消された一行を見つめた。
未確認ではなくなった。
たった一行のはずなのに、その差が妙に重い。
守様は、その場で私の筆を取りました
サビーネの目元が、少しだけ疲れたように和らぐ。
未確認の欄を消し
エルザ・マイン、と書いた
それから、仮埋葬札の未確認打刻も止め
名入りの仮埋標へ変えろと言いました
守が頭の奥でぼそりと言う。
あのまま埋めると、戻せても遠いからな
戻せても?
名前が
蒼汰は少しだけ目を閉じた。
父は、本当にそういうところばかり見ている。
サビーネは木箱を開けた。
中に入っていたのは、白い琺瑯の墓標札だった。
手のひらより少し大きい。
一方の面には、未確認 第十四号の打刻跡があり、その上から細く線が引かれている。
もう一方の面には、新しく打ち直された名がある。
エルザ・マイン
蒼汰は目を細めた。
これが……
はい
本来なら未確認札として仮埋墓へ立つはずだったものです
ですがその夜、裏面へ名を打ち直しました
本来、こういう処理は認められていません
ですが今日はこちらを持参しました
そんな大事なものを
はい
大事なものです
サビーネは頷く。
守様は勲章より、こうした名札の方が近い
あの方は埋葬を止めたかったのではない
未確認のまま閉じることを嫌った
ですから、これがふさわしい
さらに、灰銀の旗包みが開く。
現れたのは旗だった。
王旗でも市旗でもない。墓政司旗だ。
灰銀地に黒と白で、門と碑と一本の名線が刺繍されている。
死者を送り、記す側の旗だった。
本式の日
王都墓政司は、この旗を半旗とします
また共同墓苑の無銘灯を一基、夜明けまで消しません
通常、未確認仮埋葬がない夜には落とす灯です
ですが今夜は、守様が消した一行を忘れていないと示すために灯します
蒼汰は、その光景を思い浮かべた。
夜の墓苑。
半旗。
名のないはずの灯が、一夜だけ消えずに残る。
父への礼として、それはやけに似合っていた。
サビーネは最後に、一枚の紙片を差し出した。
守の字だった。
死者は急がん
急いでるのはだいたい生きてる側だ
だから埋める前に、名前だけはもう一度探せ
蒼汰は、それを読んでしばらく黙った。
また同じだ。
父は本当に、早く閉じようとする側を嫌っていた。
サビーネが静かに立ち上がる。
奏多蒼汰様
私は守様に、埋葬台帳の未確認欄を一行消されました
ですがそのおかげで、一人の死者は名のまま埋葬され、一人の娘は母の名を失わずに済んだ
ゆえに礼を申し上げます
蒼汰は墓標札と旗と紙片を見てから、ゆっくり言った。
……預かります
ありがとうございます
去り際、サビーネは一度だけ棺の方角を見た。
それから蒼汰へ向き直る。
守様は、たぶんご家庭でも
忘れ物そのものより、持ち主のいないまま残るものを気にする方だったのでしょうね
蒼汰は少しだけ目を瞬いた。
そして、苦く笑った。
……ああ
たしかに
物を失くした時、どこで失くしたかより
誰のものだったかを先に聞く人でした
でしょうね
サビーネの青灰の目が、ほんの少しだけ和らぐ。
あの方は、死そのものより
名のないまま終わることの方を嫌ったのでしょう
それだけ言って去っていく。
扉が閉まる。
応接室に戻った静けさの中で、蒼汰は白い墓標札をそっと持ち上げた。
軽い。
でもその軽さの中に、未確認から名前へ変わった一行の重さが詰まっている気がした。
守
何だ
あんた、本当に最後までそういうとこ見てたんだな
見えると、放っておけんからな
嫌な才能だよ、それ
便利でもある
蒼汰は小さく息を吐いた。
もう怒る気にもなれない。
少しずつ、父の見ていたものが自分にも見え始めている。
冬城が静かに近づく。
かなりお疲れかと
うん
でも……
父さんが嫌ってたの、やっぱり空白だけじゃないな
どういう意味でしょう
蒼汰は墓標札を見下ろした。
名前を持ってたのに、都合とか急ぎとかで
無いことにされるやつ
そういうのを、たぶん一番嫌ってたんだなって
冬城が小さく頷く。
ええ
守様は、かなりそうです
リュシエラが横で静かに言う。
夜の側でも同じです
名を消された死者は、よく残りますので
その言い方、ちょっと怖いな
怖いものですから
蒼汰は少しだけ笑った。
今夜何度もそうしてきたように、重い話の途中で、少しだけ息が抜ける笑いだった。
守は少しだけ黙った。
それから低く返す。
……残るな、そういうのは
蒼汰は、その返事を少しだけ意外に思った。
父は珍しく、強く否定もしなければ軽口にも逃げなかった。
冬城が机上の品を整える。
少し棺のおそばへ戻られますか
うん
戻りたい
蒼汰は新しく増えた墓標札と旗を抱え直す。
もう本当に持ちきれない。
それでも、やっぱりどれも置いていけない。
扉へ向かいながら、何となく聞く。
次は?
冬城はほんの少しだけ考えた。
守様に、王都越冬船団の出港延期基準を一度、無効化された港務長の方です
蒼汰はその場で止まった。
……また帰る話かよ
守が頭の奥で低く返す。
帰れるうちに出した方がいい夜だった
本当に最後まで同じだな
蒼汰は深く息を吐いた。
父、奏多守は、死んでからもなお、名前の消えそうな側と、帰りそこねそうな側ばかりを、勝手に前へ寄せ続けていた。
最後までお付き合いいただき感謝します。
もし「続きが読みたい」と思われた方は、ページ下部よりブックマークと評価をお願いします。
なろう読者の皆さまの「いいね」こそが一番の執筆燃料です。
↓↓↓ 応援、ここでお待ちしています ↓↓↓




