第30話 最初に炭が届く部屋
棺のある広間へ戻る前に、蒼汰は広間脇の長卓を見た。
父の知らない顔が、また少しずつ並び続けている。
兵站局の黒箱。
商隊旗。
大勲章。
削られた勲札。
宮旗。
裂かれた婚約書類。
銀の燈。
祭壇布。
学監棒。
教育日誌の複写。
夜紋。
盟約写し。
羅針儀。
消えた線の地図。
銀の主席笛。
規定集。
巨大な解除鍵。
河渠院旗。
帰還優先灯の運用標。
統制塔旗。
鐘槌。
礼楽院旗。
真鍮札。
図書院旗。
銀筆。
紋章院旗。
打診槌。
医学院旗。
赤い指揮灯。
消防局旗。
焼けた識別札。
捕虜交換局旗。
もう、どれがどこの世界のものか分からない。
でも全部が、父へ繋がっている。
蒼汰は小さく息を吐いた。
次、冬営庫の配炭基準だったよな
冬城が頷く。
はい
王都冬営庫の配炭基準を一つ壊された蔵政卿の方です
壊された、って言い方がもうだいぶ嫌なんだけど
そうでしょうね
守が頭の奥でぼそりと言う。
壊したというより、順番を戻した
その言い方、もう信用しないことにしてるから
好きにしろ
リュシエラが横で静かに言う。
冬の順番は、夜の側でも荒れます
強い者から温めるか、切れそうな者から残すかで割れますので
それ、父さんと同じ話してるんだよな
だから守殿は、どこへ行っても揉めたのでしょう
蒼汰は小さく呻いて、応接室へ向かった。
扉が開く。
今度の部屋の空気は、乾いていた。
火の匂いではない。冷えた倉庫に積まれた炭、麻袋、木箱、古い帳簿、硬い冬布の匂い。
王都のどこかに、本当にこういう部屋がありそうだった。
中央に立っていたのは、男だった。
年齢は六十代前半ほど。
背は高くない。だが体は厚い。痩せた役人の体ではない。倉庫と帳簿と搬出現場を行き来してきた人間の体だった。
黒の礼装の上に、濃い灰茶の外套。袖口には王都蔵政院の紋章らしい、倉鍵と秤と火皿の刺繍が見える。髪は白く短い。鼻筋は太く、口元は厳しい。だがその厳しさは人を威圧するためではなく、在庫と冬を相手に崩せなくなった顔のようだった。
後ろには若い蔵政官が二人。
ひとりが細長い木箱を、もうひとりが分厚い帳簿と、暗褐色の旗包みを抱えている。
冬城が告げる。
王都蔵政院筆頭蔵政卿、ベルンハルト・シュタイン様です
守様に、王都冬営庫の配炭基準を一つ壊されたご当人でもあります
男――ベルンハルトは、蒼汰を見て深く一礼した。
奏多蒼汰殿
声は低く、硬かった。
怒鳴れば倉庫の奥まで通るが、普段は余計な言葉を削る声だ。
私はベルンハルト・シュタイン
王都蔵政院筆頭蔵政卿
そして、守殿に配炭基準の第一列を壊された者です
蒼汰は一拍置いてから言った。
……また第一列かよ
ベルンハルトの口元が、ほんの少しだけ動いた。
ええ
あの方は、一番上の列を疑う癖がありましたので
守が頭の奥でぼそりと言う。
一番上が間違ってる時は、だいたい下が先に死ぬ
だからその理屈なんだよなあ……
冬城に促され、蒼汰は椅子へ座る。
ベルンハルトも向かいへ腰を下ろした。
座り方まで無駄がない。帳簿へ赤を入れる前の人間の座り方だった。
ベルンハルトは分厚い帳簿を机の上へ置いて開く。
そこには、びっしりと区画名、世帯数、必要量、搬送時間、在庫残日数が並んでいた。
そのうち一頁だけ、上段の数行が乱暴に塗り潰され、その横へ別の区画名が父の字で書き込まれている。
蒼汰は目を細めた。
父さんの字だ
守が頭の奥で言う。
見れば分かるだろう
自分で言うな
ベルンハルトが静かに続ける。
その冬、王都は記録的な寒波に襲われました
雪ではなく、乾いた冷気です
壁が冷え、炉が追いつかず、夜のうちに寝台から起きなくなる者が出るタイプの寒さでした
蒼汰は黙って聞く。
さらに悪いことに、南道の炭列車が二本止まり
河川輸送も凍結した
つまり炭が足りなかったのです
王都蔵政院の冬営庫には、厳密な配炭基準があります
第一は王宮医療区画と公衆施療院
第二は上水塔と導水施設
第三は市中共同暖房所
第四が兵営と工房群
その後に各区画の割当が続く
平時なら、極めて合理的です
平時なら
はい
ベルンハルトの声が少しだけ低くなる。
ですが、その寒波は平時ではなかった
北斜面共同住宅群の石造長屋が、一斉に冷え切ったのです
壁が厚く、日が入らず、しかも幼児と老人が多い
本来なら第三群の後ろに回る区画でした
守が頭の奥でぼそりと言う。
あそこは駄目だった
火を焚いても壁に食われる
蒼汰は心の中で返す。
それで口出したのか
ああ
ベルンハルトは続ける。
守殿が来たのは、配炭再編会議の夜でした
本来は冬営庫の補給監査だけで終わる立場です
ですがあの方は、割当表を見た瞬間に、これ、暖まる順じゃないな、と言いました
蒼汰は思わず目を閉じた。
また父だ。
本当にどこでも同じ言い方をする。
私は反論しました
暖まる順ではなく、維持効果順です
限られた炭を、最も多くの機能を残すところへ入れる
それが蔵政の理屈だ、と
すると守殿は、理屈は分かる
だが今夜、壁に熱を食われる寝台の上で切れる側がいる、と返した
部屋が静かになる。
蒼汰は喉の奥が少し重くなる。
父はまた、帳簿の向こうに寝台の上の誰かを見ていたのだ。
ベルンハルトは頁を一枚めくった。
この区画です
そこには北斜面共同住宅第三区画とある。
横に、幼児四十八、老人六十三、単独療養者十一、寝台固定九。
数字が並ぶ。
本来の基準では、まだ待てる側でした
炉の保有率が低いからです
つまり、配っても効率が悪い
蔵政の数字では、そうなっていた
守殿だけが違いました
炉の数ではなく、毛布の中で一晩切れる数を先に見た
蒼汰は少しだけ息を呑む。
どうやって
現場を見たのです
ベルンハルトの声に、ごくわずかな実感が混じる。
守殿は会議の途中で立ち
北斜面共同住宅まで自分で歩いた
窓の隙間、壁の冷え、床板の浮き、寝台の高さ
全部見て
戻ってくるなり、配炭基準の第一列を塗り潰しました
勝手すぎるだろ……
はい
勝手です
ベルンハルトは即答した。
私は激怒しました
第一列を動かせば、他が崩れる
王都蔵政の順序が死ぬ
守殿は一度だけ頷いて、それからこう言いました
秩序は朝に立て直せる
だが凍えた部屋の体温は、朝には戻らん
蒼汰は言葉を失った。
父が言いそうで、言われたら止めにくい言葉だった。
それで、変えたんですか
はい
現場限りで
ベルンハルトは静かに答える。
北斜面第三を暫定第一群へ繰り上げ
王宮外郭の予備炭庫から三割を切り出し
共同暖房所向けの一部を回し
代わりに王宮側の夜間暖房を一刻落とした
蒼汰は少しだけ目を瞬いた。
王宮側を?
守が頭の奥で言う。
王宮は毛布も壁も厚いからな
一刻くらい落としても死なん
本当に容赦ないな
死ぬ側へ先に入れるだけだ
ベルンハルトは続ける。
結果として、北斜面第三ではその夜の凍死者は出ませんでした
もちろん、王宮側からは苦情が来た
共同暖房所でも怒鳴る者はいた
だが朝まで残った人数は、基準通りに配った場合より明らかに多かった
蒼汰は、また少しだけ目を伏せた。
父はやっぱり、どこでも同じことをしていた。
王宮の暖かさより、壁に熱を食われる部屋を先に見ていた。
ベルンハルトは細長い木箱を開ける。
中に入っていたのは、黒い木札だった。
厚みのある配炭札らしい。炭車に結ぶ札なのだろう。表には、第一群先配炭と刻まれ、裏には北斜面第三と父の字で乱暴に書き足されていた。
角の一部が削れている。実際に使われた札だとすぐ分かる。
これは、その夜最初の炭車に結ばれた配炭札です
本来の宛先は王宮外郭北医官舎でした
守殿が裏書きを入れ、現場で差し替えた
そんなことまで
はい
かなり腹立たしかったです
ベルンハルトの声は乾いていた。
だが怒りそのものではない。
怒り終えた後に残る、認めざるを得ない何かだ。
守殿は勲章より、こうした順番札の方が近い
あの方は倉の量ではなく、凍える部屋の順番にうるさかった
ですから、これがふさわしい
さらに、暗褐色の旗包みが開く。
現れたのは旗だった。
王旗でも市旗でもない。蔵政院旗だ。
濃い褐色地に銀糸で倉鍵、火皿、秤が刺繍されている。
冬を越す順番を司る側の旗だった。
本式の日
王都蔵政院は、この旗を半旗とします
また中央冬営庫では、夜明け前の最初の炭車だけを空で走らせます
あの夜、守殿が差し替えた最初の一台を忘れていないと示すためです
蒼汰は、その光景を思い浮かべた。
炭を載せない最初の一台。
半旗の蔵政院旗。
父への礼として、それはたしかに妙に似合っていた。
ベルンハルトは最後に、一枚の紙片を差し出した。
守の字だった。
在庫は倉にある
体温は部屋にしかない
足りない夜は、先に冷える壁の方を見ろ
蒼汰は、それを読んで小さく笑った。
あまりにも父らしい。
倉の話をしているのに、最後に見るのは部屋なのだ。
ベルンハルトの目が、ほんの少しだけ和らぐ。
守殿は、蔵政を軽んじたのではありません
むしろ数字も在庫も、かなり正確に見ていた
ただ、その先にある体温を無視する順番が嫌いだった
ゆえに、私は怒りながらも礼を言いに参りました
蒼汰は木札と旗と紙片を見て、ゆっくり言った。
……預かります
ありがとうございます
ベルンハルトは立ち上がり、深く一礼する。
去り際に一度だけ棺の方角を見て、それから蒼汰へ向き直る。
守殿は、たぶんご家庭でも
灯油や毛布を、きれいにしまうことより
誰の寝る部屋が一番冷えるかの方を先に気にする人だったのでしょうね
蒼汰は少しだけ目を瞬いた。
それから苦く笑う。
……当たってます
毛布が足りないと、まず俺のじゃなくて
母さんの部屋と、客用の予備の方を見てた
でしょうね
ベルンハルトの口元が、ほんのわずかに緩む。
あの方は、在庫より
今夜冷える場所の方を先に見る人でした
それだけ言って去っていく。
扉が閉まる。
応接室に戻った静けさの中で、蒼汰は黒い木札をそっと持ち上げた。
軽い。
だがその軽さの中に、凍えずに朝を迎えた部屋の数が詰まっている気がした。
守
何だ
あんた、本当にどこでも同じなんだな
だいたい同じだろう
またそれかよ
違うか
蒼汰は小さく息を吐いた。
違わない。
それが分かってしまうのが悔しかった。
冬城が静かに近づく。
かなりお疲れかと
うん
でも……
父さんが気にしてたの、もうかなり見えてきた
どういう意味でしょう
蒼汰は木札を見下ろした。
多いとか偉いとか正しいとかじゃなくて
先に切れそうな部屋とか
朝まで持たない順番とか
そういうのを先に見てたんだなって
冬城が小さく頷く。
ええ
守様は、かなりそうです
リュシエラが横で静かに言う。
夜の側でも同じです
備蓄の量より、今夜冷える棺の数を先に見る
母上が守殿を嫌いきれなかったのは、そこでしょう
蒼汰は少しだけ笑った。
嫌われながら借りを作る天才かよ
守は少しだけ黙った。
それから低く返す。
そうかもしれん
冬城が机上の品を整える。
少し棺のおそばへ戻られますか
うん
戻りたい
蒼汰は新しく増えた木札と旗を抱え直す。
もう本当に持ちきれない。
それでも、やっぱりどれも置いていけない。
扉へ向かいながら、何となく聞く。
次は?
冬城はほんの少しだけ考えた。
守様に、王都児童保護名簿の移送順位を一頁、破棄された保護院長の方です
蒼汰はその場で止まった。
……今度は子供かよ
守が頭の奥で低く返す。
遅いと切れる側だった
本当にどこまで行っても同じ理屈だな!
蒼汰は深く息を吐いた。
父、奏多守は、死んでからもなお、世界の切れそうな部屋と順番ばかりを勝手に見つけては、書き換え続けていた。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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