第29話 燃えた優先名簿
棺のある広間へ戻る前に、蒼汰はまた一度だけ足を止めた。
広間脇の長卓には、父の知らない顔が並び続けている。
兵站局の黒箱。
商隊旗。
大勲章。
削られた勲札。
宮旗。
裂かれた婚約書類。
銀の燈。
祭壇布。
学監棒。
教育日誌の複写。
夜紋。
盟約写し。
羅針儀。
消えた線の地図。
銀の主席笛。
規定集。
巨大な解除鍵。
河渠院旗。
帰還優先灯の運用標。
統制塔旗。
鐘槌。
礼楽院旗。
真鍮札。
図書院旗。
銀筆。
紋章院旗。
打診槌。
医学院旗。
赤い指揮灯。
消防局旗。
もうどれがどこの国のものか、ぱっと見では分からない。
それでも全部、父に繋がっている。
どれも、勲章より先に、今夜や朝や帰還や空白の話をしている。
蒼汰は小さく息を吐いた。
次、捕虜交換の名簿だっけ
冬城が頷く。
はい
敵国捕虜交換の優先名簿を一枚、守様に燃やされた軍務卿の方です
……また物理的にか
はい
今回はかなり物理的です
守が頭の奥でぼそりと言う。
燃やした方が早かった
その理屈、便利すぎるだろ
あの時は本当にそうだった
リュシエラが横で静かに言う。
捕虜交換は、夜の側でも揉めます
価値で並べると、だいたいあとで腐りますので
それ、もう父さんの理屈と同じなんだよな
だから守殿は、我が家でも面倒だったのでしょう
蒼汰は小さく呻いた。
応接室の扉が開く。
今度の部屋の空気は、革と鉄と古い煙の匂いがした。
戦場そのものではない。
だが戦場のあと、記録と帳簿と交渉のために集められた部屋の匂いだった。
中央に立っていたのは、男だった。
年齢は五十代半ばほど。
背は高くないが、体幹が太い。痩せてもいない。長く甲冑ではなく執務服で戦を回してきた人間の体だった。
黒の礼装の上に濃紺の長外套。肩章は外されているが、立ち姿だけで軍の上層だと分かる。髪は短い白髪混じり。目元に深い皺。右耳の一部が欠けているのは古い戦傷だろう。
後ろには随員が二人。
ひとりが平たい金属箱を、もうひとりが焼け跡のある革綴じと、暗い青の旗包みを抱えている。
冬城が告げる。
旧東部連衡軍、軍務院筆頭軍務卿、ルドルフ・ハーゲン様です
守様に、敵国捕虜交換の優先名簿を一枚、燃やされたご当人でもあります
男――ルドルフは、蒼汰を見て深く一礼した。
奏多蒼汰殿
声は低く、よく通る。
命令を飛ばす声ではなく、報告と責任を引き受ける声だった。
私はルドルフ・ハーゲン
東部連衡軍軍務卿
そして、守殿に捕虜交換の優先名簿を焼かれた男です
蒼汰は一拍置いてから言った。
その人、本当にいろんなとこで燃やしてるんですね
ルドルフの口元が、ほんの少しだけ動いた。
そうですね
私も最初は、ただの無礼者だと思いました
守が頭の奥でぼそりと言う。
最初だけじゃないだろう
半分くらいは、今もそう思われてる気がするけど
否定はしない
冬城に促され、蒼汰は椅子へ座る。
ルドルフも向かいへ腰を下ろした。
軍人の座り方ではない。地図と損耗表と交渉記録を前にする座り方だった。
ルドルフは焼け跡のある革綴じを机の上へ置き、そっと開いた。
捕虜交換は、綺麗事では回りません
地位、情報価値、交換比率、移送距離、傷病率
全てを勘定に入れます
そうしなければ、次の交換が成立しない
蒼汰は黙って聞く。
その時点で、父が嫌いそうな匂いがした。
問題になったのは、第三次北境停戦の後です
双方で捕虜が積み上がり
交渉は成立した
あとは優先交換名簿を確定させるだけだった
ルドルフは一枚の紙を見せる。
焦げている。
だが上部の見出しだけは読めた。
第一優先交換名簿。
そこへ、途中から黒く焼けた穴が広がっていた。
蒼汰は少しだけ眉を寄せる。
何が問題だったんですか
名簿は正しかったのです
ルドルフは静かに答える。
将校、技師、伝令長、術者、地図係
戻せば戦力になる者から先に返す
それが軍務の常識です
限られた交換枠では、そうするしかない
でも父さんは嫌がった
はい
ルドルフは一切迷わず頷いた。
守殿は名簿を見て、最初にこう言いました
これ、帰れる順じゃないな、と
蒼汰は少しだけ目を伏せた。
まただ。
本当にどこでも同じところを見る。
私は答えました
帰還価値順です、と
すると守殿は、価値の話はしていない
歩いて帰れる順でもない
死ぬ前に返せる順でもない
と言った
部屋が静かになる。
蒼汰は喉の奥が少し重くなった。
たぶん父は、名簿の向こうに人の顔を見ていた。
守が頭の奥で言う。
歩けるやつより、先に戻さないと切れるやつがいた
切れる?
呼吸も、傷も、心もだ
ルドルフが続ける。
交換対象の中に、重傷兵、衰弱した従軍看護兵、拘束中に病を得た少年伝令たちがいました
軍務上の価値は低い
だが交換日を一巡遅らせれば、かなりの数が落ちる見込みだった
蒼汰は小さく息を呑む。
それでも名簿には入ってなかった
後ろでした
第一枠ではなく、第三以降です
ルドルフの声は低く、乾いている。
軍務としては正しい
私はそう判断しました
すると守殿は、机の上のランプを掴み
その第一優先交換名簿に落としたのです
蒼汰は思わず目を閉じた。
……本当に燃やした
はい
目の前で
ルドルフの目元に、いまだ消えきらない呆れがある。
私は激怒しました
あれは停戦交渉の積み上げです
燃やせば済むものではない
すると守殿は、燃えたならもう一度並べろ
今度は死ぬ順を先に置け、と言った
蒼汰は、またしても父らしいと思ってしまった。
ひどい。雑だ。だが本質だけはまっすぐ刺してくる。
どうしたんですか
蒼汰が問うと、ルドルフは少しだけ息を吐いた。
最初は拒みました
軍は慈善ではない
そう申し上げた
すると守殿は、そうだな、と一度だけ頷き
そのあとでこう続けた
ルドルフの目が、少しだけ遠くを見る。
慈善ではない
だからこそ、次の交換まで持たないやつを後ろへ回すな
死体は戻せても、交換は増えない
蒼汰は少しだけ、目を伏せた。
父はいつも、綺麗事ではなくて、現実の損得ごとひっくり返してくる。
ルドルフは机上へ別の紙を置いた。
今度は再作成された名簿らしい。焼け跡はないが、行がごっそり入れ替わっている。
守殿は、交換価値順を否定しませんでした
ただしその前に、戻せるうちに戻さねば切れる者を置け、と言った
重傷兵、看護兵、少年伝令、飢餓が進んだ下士官
そこを第一へ
その後ろに将校と技師を繋ぐ
結果として、交換は成立し、しかも次の第二交換まで相手側の感情が切れなかった
切れなかった?
はい
相手側もまた、戻る見込みの薄い者を先に返された
だから報復より、次の交換へ乗ってきた
守殿は、敵味方両方の遺恨を、名簿の並びで薄くしたのです
蒼汰は黙っていた。
戦争のことは分からない。
でも父がまた、「続けるために必要な順番」を見ていたことだけは分かる。
ルドルフは平たい金属箱を開いた。
中に入っていたのは、黒く焼けた名札だった。
交換所で首から下げる識別札らしい。金属製で、表面の文字は半分煤けている。だが裏面に、交換枠一の刻印が残っていた。
これは、再作成後の第一交換枠の識別札です
本来なら記録庫に入ります
ですが本日はお持ちしました
そんな大事なものを
はい
大事なものです
ルドルフは頷く。
守殿は戦功章より、こうした現場の順番の方へ執着した
ですから、これが近い
さらに、暗い青の旗包みが開く。
現れたのは旗だった。
軍旗ではない。捕虜交換局の旗だろう。暗青地に銀糸で二本の交差しない鎖と、小さな帰還門が刺繍されている。
戦の勝利ではなく、戦の合間を司る側の旗だ。
本式の日
旧東部連衡軍は軍旗を下げません
代わりに、捕虜交換局旗を半旗とします
また北境の旧交換橋では、夜明け前に十九息だけ門を開けたままにする
あの夜、守殿が焼いた名簿の順番を忘れていないと示すために
蒼汰は、その光景を思い浮かべた。
橋。
寒い夜明け。
半旗。
そして一瞬だけ開いたままの門。
父への礼として、それはやけに似合っていた。
ルドルフは最後に、一枚の紙片を差し出した。
見慣れた、守の字だった。
交換は正義じゃない
だが、帰せるうちに帰さない名簿は、だいたい次を腐らせる
蒼汰は、それを読んで少しだけ笑った。
まただ。
父は本当にどこへ行っても、次を腐らせるな、と言っている。
ルドルフの目がほんの少しだけ和らぐ。
守殿は、敵を愛したのではありません
軍務を軽んじたわけでもない
ただ、戻れるうちに戻さぬ順番が嫌いだった
ゆえに、私は怒りながらも礼を言いに参りました
蒼汰は識別札と旗と紙片を見て、ゆっくり言う。
……預かります
ありがとうございます
ルドルフは立ち上がり、深く一礼した。
去り際に一度だけ棺の方角を見て、それから蒼汰へ向き直る。
守殿は、たぶんご家庭でも
正しい謝り方より、関係が切れない順番の方を先に気にする人だったのでしょうね
蒼汰は少しだけ目を瞬いた。
そして苦く笑う。
……ああ
たしかに
謝るのは遅いのに、切れそうになると妙にしつこかったです
でしょうね
ルドルフの口元が、ほんのわずかだけ緩んだ。
あの方は、勝ち負けより
次が残るかどうかの方を見ていたのでしょう
それだけ言って去っていく。
扉が閉まる。
応接室に戻った静けさの中で、蒼汰は焼けた識別札をそっと持ち上げた。
軽い。
なのに、その軽さの中に、帰れた者と帰れなかったかもしれない者の重さが詰まっている気がした。
守
何だ
あんた、本当にそういう順番ばっか見てたんだな
だいたいそこを間違えると、あとで腐るからな
また腐るか
分かりやすいだろう
蒼汰は小さく息を吐いた。
もうその言い方に、少しずつ慣れ始めている自分が嫌だった。
冬城が静かに近づく。
かなりお疲れかと
うん
でも……
父さんが気にしてたの、たぶん順番なんだな
どういう意味でしょう
蒼汰は焼けた札を見下ろした。
誰を先に通すか
誰を先に返すか
誰をまだ終わりにしないか
そういう順番を、ずっと見てたんだなって
冬城が小さく頷く。
ええ
守様は、かなりそうです
リュシエラが横で静かに言う。
夜の側でも同じです
強い者を先に守るのは簡単ですが
切れそうな者を先に戻す方が、後の血を薄くしますので
蒼汰は少しだけ笑った。
父さん、本当にどこでも同じ話してるんだな
守は少しだけ黙った。
それから低く返す。
そうかもしれん
冬城が机上の品を整える。
少し棺のおそばへ戻られますか
うん
戻りたい
蒼汰は新しく増えた識別札と旗を抱え直す。
もう本当に持ちきれない。
それでも、やっぱりどれも置いていけない。
扉へ向かいながら、何となく聞く。
次は?
冬城はほんの少しだけ考えた。
守様に、王都冬営庫の配炭基準を一つ壊された蔵政卿の方です
蒼汰はその場で止まった。
……また暖房かよ
守が頭の奥で低く返す。
凍える前の線だからな
本当にどこでも同じことしてるな!
蒼汰は深く息を吐いた。
父、奏多守は、死んでからもなお、世界の切れそうな順番を勝手に組み直し、それでも礼を言われ続けていた。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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