救出
「ハァ、ハァ、ハァ……っ……!」
神木の床に倒れ込んだ少女の呼吸は、浅く、絶望的なほどに不規則だった。
白銀の法衣はあちこちが鋭利な刃物で引き裂かれたように破れ、そこから覗く白い肌には、おびただしい数の裂傷が走っている。だが、奇妙なのはその傷口だった。血が流れているはずなのに、その赤色が時折、テレビの砂嵐のようなモノクロの砂ノイズに変調し、文字通り「存在のデータ」が削れ落ちていくようにパチパチと音を立てているのだ。
【 ??? 】
・状態:世界から存在を強制削除中(残り時間:09分42秒)
脳内に浮かぶ赤い警告ウィンドウが、無情にも秒単位でカウントダウンを刻んでいく。
世界システムによる【因果消滅】。
それは、バグを起こしたデータや、世界の理にとって不都合な存在を、最初からこの世にいなかったことにする「世界の掃除」機能だ。
普通の人類なら、この状態になれば成す術もなく消えていくのを待つしかない。
だが、少女はまだ諦めていなかった。
薄れゆく意識の境界線で、彼女の澄んだ碧い瞳が、まっすぐに俺を捉える。
「お……ねがい……これを……」
震える声とともに、彼女が血塗れの泥にまみれた右手を、俺に向かって差し出してきた。
その小さな掌のなかに握られていたのは、鈍い白銀の輝きを放つ、手のひらサイズの石の破片。
見た瞬間に理解した。それは、第1話で俺が触れてバグらせ、へし折ったあの『至高の石碑』の、最も中核にあたる破片──『マスターキー(原初のコア)』だ。
「……なるほどな」
俺の脳内に、移行度6%に達した世界システムからのアナウンスが、冷徹に鳴り響く。
『警告。対象は旧世界システムが【特異バグ】と認定した個体です。マスター権限が6%に達したため、世界線の収束により、マスターの座標へ引き寄せられました』
『選択してください。このままシステムによる排除を静観しますか? それとも、マスター権限を使用してシステムを上書きし、保護しますか?』
静観すれば、あと9分ほどでこの少女は綺麗さっぱりこの世から消える。俺の隠れ家の床が血で汚れることもないし、余計なトラブルに巻き込まれる心配も皆無だ。
だが──俺は、少女の手にある石碑の破片に視線を落とした。
王都の連中は、俺が石碑を「無能すぎて拒絶反応で壊した」と言い放ち、ゴミのように追い出した。
しかし、現実はどうだ?
王都の最高機密であるはずの石碑のコアを盗み出し、世界から消去されかけている少女が、巡り巡って俺の前に転がり込んできた。
旧システムが消したがっている存在。それはつまり、今の俺にとっては「最高に面白い手札」になるということだ。
「お前を消そうとしてる世界のシステムと、お前を無能と笑った王都の連中……どっちも気に入らないな」
俺はベッドから立ち上がり、床に倒れ伏す少女の前へと歩みを進めた。
しゃがみ込み、彼女の身体にそっと右手をかざす。
「エディット開始。対象──『因果消滅プログラム』のコード書き換え」
脳内に、少女の全身を構築する膨大な文字列が展開される。その表面を、旧システムの赤いデリート命令がガリガリと削り取ろうとしていた。
俺は指先を動かし、移行度6%分のリソースをすべて、そのデリート命令の「拒否」へと注ぎ込む。
『警告。マスター権限の出力が不足しています。現在の同調率(6%)では、旧システムのデリート命令を完全に消去することはできません。相殺率は最大で95%です』
「95%で十分だ。消去の進行を止めろ。残りの5%は……俺のステータスで蓋をする」
俺のステータスは『ALL 0』。
数値が存在しない、完全な「空白(空っぽの器)」だ。旧システムがどれだけ彼女のデータを消そうと追尾してこようが、俺のALL 0の領域に彼女の存在を隠してしまえば、システム側は「対象を見失う」ことになる。
『了解しました。マスター権限:【概念偽装】を実行します』
パキン、と耳元で小さなガラスの割れるような音が響いた。
次の瞬間、少女の身体を蝕んでいた禍々しいデジタルノイズが、嘘のように一斉に霧散していく。傷口からの砂嵐が止まり、正常な、しかし酷く痛々しい本物の赤い血へと書き換わった。
【 状態:因果消滅の凍結(マスター権限により隠蔽中) 】
カウントダウンがピタリと停止する。
少女は、自分がまだ存在していることに気づいたのか、驚いたように自分の手を見つめ、それから安堵したように小さく息を漏らした。
「……消え、ない……? システムの、消去プログラムが……止まった……?」
「応急処置だ。お前を消そうとする世界の目を、俺の力で少し誤魔化してやっただけさ。……おい、動けるか?」
「あ、う……」
少女は身を起こそうとしたが、あまりの激痛に顔を歪め、再び床へと倒れ込んでしまった。存在の消去は止めたが、負った物理的な傷までは治っていない。
俺はため息を一つ突き、部屋の壁に立てかけてあった、あの『折れない木の枝』を手に取った。
そして、その先端を少女の傷口にそっと触れさせる。
「エディット。付与属性:【自動修復(微弱)】の、対象への転写」
神木の拠点を作ったときのリソースの一部を、枯れ枝を触媒にして少女の肉体へと流し込む。
すると、少女の白い肌に刻まれていた無数の裂傷が、まるで時間を巻き戻すかのように、みるみるうちに塞がっていった。ただの枯れ枝から放たれる、緑色の穏やかな光が室内を優しく満たしていく。
「なっ……詠唱も、魔方陣もなしに……高位の治癒魔術を……!? いいえ、これは魔力じゃない……理そのものが……?」
少女は今度こそ呆然とした様子で、完全に完治した自分の身体を見つめ、それから俺の顔と、俺が持っている「ただの枯れ枝」を交互に何度も見つめた。
彼女の知る世界の常識が、この数分間で完全に粉砕されたような、そんな顔をしている。
「さて、傷は治した。お前の存在も、当面は世界の目から隠してやる。……そろそろ、説明してもらおうか。お前は一体誰で、なぜ王都の石碑の破片なんてものを持ってる?」
俺の問いかけに、少女はハッと我に返ったように姿勢を正した。
まだ恐怖に震えながらも、その碧い瞳には、気高い意志の光が宿っている。
「私の名前は、エルフィリア……。王立聖教会の、元・聖女です」
「聖女、ねぇ。そんな偉い人が、なんで世界からデリートされかけてたんだ?」
エルフィリアは自嘲気味に俯き、握りしめていた石碑の破片を強く見つめた。
「気づいてしまったからです……。この世界を管理する『至高の石碑』が、本来の主を失い、暴走を始めていることに。そして……王都の上層部や、エルロッド公爵家が、その暴走の事実を隠蔽し、世界の破滅を早めていることに……!」
「……親父たちが?」
俺の眉がぴくりと動く。
エルフィリアは、悲痛な声を絞り出すように言葉を続けた。
「はい。あの日……貴方が測定を行い、石碑がひび割れた瞬間から、世界のすべてが狂い始めました。王都の結界は弱体化し、大地は枯れ、魔導具は出力を失っている。王都の賢者たちは、それを『ALL 0の無能がシステムに呪いを残して死んだせいだ』と触れ回っていますが、それは真っ赤な嘘です!」
彼女は一歩、俺に詰め寄るようにして叫んだ。
「逆なのです! 石碑が割れたのは、あのシステムが『許容できないほど強大な、何か別のシステム(理)』がこの世界に降臨した衝撃のせい……! 石碑の深層データを読み解いた私は、その真実に気づいてしまいました。だから、口封じのために国を追われ、世界システムの人為的なエラーによって、存在ごと消去されそうになっていたのです……!」
エルフィリアは呼吸を荒くしながら、俺の前に跪いた。
「お願いです、名もなき高潔な魔術師様。この石碑の破片を……『原初のコア』を、どうか然るべき場所へ。これが王都に渡れば、彼らは世界を自分たちの都合の良いように完全に書き換え、逆らう者をすべて消去するディストピアを築くでしょう。そして、世界の異変を引き起こしている本当の元凶──『世界を脅かすALL 0の悪魔』を、総力を挙げて殺そうとするはずです!」
「……悪魔、ね」
俺は思わず、くくっ、と喉の奥で笑い声を漏らしてしまった。
王都の連中や実家は、まだ俺が生きていて、自分たちのすぐ隣の領地にいることすら気づいていない。それどころか、世界の主導権がジワジワと俺に移り始めているせいで起きている「5%の出力低下」を、悪魔の呪いだ何だと大騒ぎしているらしい。
「面白い。最高に滑稽だ」
「え……? あ、あの、何がそんなに可笑しいのでしょうか……?」
不安そうに見上げてくる元聖女の少女に向かって、俺は自分のステータスプレートを実体化させ、彼女の目の前に提示してやった。
「な、何ですか、これは……? 冗談、ですよね……?」
エルフィリアの顔が、驚愕のあまり完全に凝固した。
彼女の目に映っているのは、全人類の常識では「生きていることすら不可能な」、完全な空っぽの数値。
【 カイ・エルロッド 】
・腕力:0
・魔力:0
・俊敏:0
・耐久:0
「お前たちが必死に探している、世界のシステムをバグらせた張本人。そして、王都の連中が血眼になって殺そうとしている『ALL 0の悪魔』ってのは……」
俺は、彼女の手にある石碑のコアをひょいと指先で摘み上げ、ポケットに放り込んだ。
「──たった今、お前を助けた、この俺のことだよ」
静まり返った神木の隠れ家の中で、元聖女の絶叫にも似た息を呑む音が、小さく響き渡った。
その瞬間、俺の脳内で、世界システムの無機質なアナウンスが一段と大きな音で告げられた。
『──聖碑の原初コアの回収を確認。マスター権限の移行プロセスが急速に加速します』
『現在の移行度:15%』
『世界書き換え機能:【中級権限】を開放。これより、王都システムのさらなる出力低下が執行されます──』
遠く離れた王都の方角から、大地を揺るがすような不穏な地鳴りの音が、ここまで微かに響いてきた。
世界が俺へと傾く速度が、一気に跳ね上がった瞬間だった。




