【第12話】市場の喧騒と、分厚い法律書をめくる夜
ある休日、わたしはユアンの食材の買い出しに付き合って、古都の大きな市場へと足を運んだ。
石畳の広場には所狭しと露店が並び、活気ある声が飛び交っている。
しかし、あちこちの店を巡るユアンの表情は、次第に曇っていった。
「だめ。やっぱり、チュニアの市場みたいにはいかない……」
探しているのは、彼女の故郷の料理に欠かせない特定の香辛料と野菜らしい。
しかし、気候も土壌も違うこの西の国では、同じものを手に入れるのは至難の業だった。
肩を落とし、すっかり諦めモードのユアンを見て、わたしは提案した。
「ねえユアン、その探している食材って、どんな効能があるの?」
「ええと、強い辛味で胃腸を刺激して、同時に体の熱を外に逃がす力……。それと、独特の甘みで味をまとめるの」
「それなら、形が違っても同じ力を持つものを探せばいいじゃない」
わたしは市場の真ん中で立ち止まり、そっと目を閉じた。
――聴くのだ。
――この雑踏の中に埋もれた、小さな薬効の声を。
人々の喧騒が遠のき、代わりに植物や乾物たちが発する微かな『脈動』が、網の目のように浮かび上がってくる。
わたしはその中から、ユアンの求めている効能の組み合わせにピタリと合致する波長を探り当てた。
「こっちよ、ユアン!」
わたしが彼女の手を引いてたどり着いたのは、市場の端にある薄暗い薬草屋だった。
店先に並べられた木箱の中から、わたしは迷いなく、ひどくねじ曲がった乾燥根と、しわくちゃの木の実を掴み上げた。
「これとこれ。ユアン、これをすり潰して合わせれば、きっと探している食材と同じ働きをするわ」
ユアンが不思議そうに匂いを嗅いでいると、奥から出てきた気難しそうな店主が目を丸くした。
「おいおい嬢ちゃんたち、そいつらを料理に使う気かい!?」
「ええ。ダメですか?」
「ダメってこたぁないが……そいつは酷い腹痛の時にかじる薬草と、高熱の時に汗をかかせて熱を下げるための実だぞ。混ぜて食うなんて、どんな罰ゲームだ!」
店主の言葉に、わたしとユアンは顔を見合わせた。
激しい腹痛の薬と、高熱の薬。
それがチュニアの「美味しい料理」の代用品なのだ。
わたしたちは数秒の沈黙のあと、たまらず吹き出してしまった。
呆気にとられる店主をよそに、市場の片隅で、わたしたちはお腹を抱えて大笑いした。
◆◆◆
――それから、一年が経った。
わたしたちの部屋は、すっかりチュニアの香辛料と漬物壺の匂いが染み付いている。
「アルセア、今日のスープはちょっとマイルドにしたよ。お腹の調子、どう?」
「ありがとう、ユアン。でももう少し辛くても平気よ。マシッソヨ」
「もう、アルセアったらすっかりチュニア人みたい!」
笑い合うわたしたちの間に、あのたどたどしいトヨノ語の響きはもうない。
この一年、同じ部屋で寝起きし、漬物壺の並ぶ奇妙な空間で同じ鍋をつつくうちに、ユアンのトヨノ語はほとんど完璧になっていた。
そしてわたし自身も、ユアンの言葉を浴び続けることでチュニア語の語彙をどんどん吸収し、今では六割ほどの会話をチュニア語で理解し、話せるようになっていた。
気がつけば、わたしはもうユアンの声の裏側を『聴く』魔法を使っていなかった。
言葉の壁を飛び越えるために使っていた魔法は、いつの間にか不要になっていたのだ。
神の雷によって引き裂かれたはずの言葉は、毎日の温かいスープと、お腹を抱えて笑い合った時間の中で、ごく自然に溶け合い、結びついていた。
世界は広くて、言葉はバラバラで、時々ひどく難しい。
けれど、美味しいものを一緒に食べて「美味しいね」と笑い合える相手がいれば、きっとどこへだって行けるし、誰とだって繋がれる。
漬物壺に囲まれた古都の小さな部屋で、わたしはそんな確かな絆を手に入れていた。
◆◆◆
魔女は本来、自由な存在だ。
けれど、お師匠さまが口酸っぱく言っていたように、協会のカリキュラムには膨大な法律の座学が組み込まれていた。
魔法を使うということは、大多数の魔法を使えない人間にとっては超常の力を振るうということであり、当然ながら彼らの畏敬を集めることになる。
しかし、畏敬の念はほんの少しバランスを崩せば、容易に畏怖へと反転してしまう。
その恐れが過ぎれば、人間は魔女を異端として排除しようとする。
それはとても古い時代の出来事ではあるが、事実として歴史に刻まれた痛ましい迫害の記憶だ。
そうした悲劇を二度と繰り返さないための自己防衛として。
そして、理に干渉する魔法の結果が、意図せず人間の法を犯す罪とならないように。
わたしたちは人々の良き隣人として立つために、世界のあらゆるルールを学ばなければならないのだ。
――という理念は立派なのだけれど、現実の勉強は想像を絶する過酷さだった。
「ユアン、西の大陸第三条約における、医療魔女の免責特権が適用されない三つの例外を言って」
「ええと……一つ、故意による毒物の混入。二つ、患者の同意なき霊薬の投与。三つ……三つ目はなんだっけ……あ! 各都市の領主が定める指定伝染病の無許可治療!」
「正解。じゃあ次、東の遊牧民の居住区で、火を熾す魔法が窃盗罪に問われるケースとその理由は?」
「うう……もう頭がパンクしそう……」
夜の寄宿舎の談話室。
机の上には、辞書よりも分厚い法律書や判例集が山のように積まれている。
終わりの見えない長い講義を終えた後も、わたしたち魔女の卵はこうして夜遅くまでお互いに問題を出し合い、過去の事例を丸暗記する日々を送っていた。
ユアンのような留学生を交え、国や地域、種族や職業による禁忌の違いを語り合うのは、刺激的でもあるけれど、同時に目眩がするほど複雑だった。
「ねえアルセア。もし干ばつの村で豊穣の祈りを使ったら、そこの領主の天候税の脱税に問われるって本当?」
「判例ではそうなってるわね。だから祈る前に、代官所に臨時魔法行使許可書を出さないといけないのよ。勝手に雨を降らせると、隣の村の水利権とぶつかって訴訟になるケースもあるし」
「祈るより先に書類仕事だなんて、魔女も世知辛いよね……」
ため息をつきながら、わたしたちはまた分厚い法律書のページをめくる。
自由な魔女になるために、誰よりも世界の縛りに精通しなければならない。
矛盾しているようだけれど、この果てしない座学の山を乗り越えた先にしか、本物の魔女への道はないのだ。




