古代魔法書の修復.3
「これは……」
「まさか、崖とは」
稲妻が地面を切り裂いたかのように、深い谷が口を開けていた。首を伸ばして覗き込むと、何十メートルも下を川が流れている。
ぶるっと怖気が足下から這い上がってきて、それから逃げるように視線を対岸へと向ける。対岸もこちらと同じように木々が茂っていたのだが、その中に気になるものがあった。
「アダルバート様、あの赤い花ですが、カルタミアの花ではないでしょうか」
「そのようだな。とすれば、こちら側にもあるかもしれない」
そう期待して、私たちは崖沿いに暫く歩いてみたのだが、残念ながらカルタミアの花は見つからなかった。ついでにつり橋もなく、向こう側に渡る術がない。
「一度下山して、違うルートで登ってみますか?」
「体重はどれぐらいだ?」
「……えーと?」
質問と返答が噛み合っていない。体重とは? 私の体重を聞いているのだろうか?
頭の中を疑問符が飛び交い、口をぽかんと開けていると、アダルバート様は急に軽く腰を曲げた。
そうして腕を私の背中と膝の裏に当てると、そのままひょいと抱き上げる。
「えっ? ええっ?」
「うん、これぐらいなら問題ない」
「何がですか?」
聞きながら、必死で頭を巡らせる。
もしかして、アダルバート様は空を飛べるのではなかろうか。うん、きっとそうだ。絵本で見た魔術師はお姫様を抱き上げ夜空を飛んでいた。
緊張と期待が身体を駆け巡る。空を飛べるなんて、普通に生きていたら経験できないことだ。怖いけれど、この機会を逃してなるものかという決意のほうが強い。
「うん? なんだか覚悟が決まった人間のような顔をしているが、もしかして察したのか?」
「はい。この状況でこの体勢といえば、それしか考えられません」
「ほう、嫌がるかと思ったが心強い」
アダルバート様が感心したように数回頷く。大丈夫、抱き上げられてちょっと空を飛ぶだけだ。
「だってアダルバート様は、この国一番の魔術師ですから」
「そうだ。だから安心して行ってこい」
「はい! って、行ってこい?」
最後の一言が気になって復唱すると同時に、身体が風に包まれた。そうしてアダルバート様の腕を離れ、ぐんぐん上昇していく。
「あ、アダルバート様! これはいったい?」
「今からリアナを対岸まで飛ばす」
「えっ? 私を飛ばす? アダルバート様は一緒じゃないのですか?」
「俺の風魔法で持ち上げられる重さには、上限がある。俺自身は重すぎて無理だ」
では、さっきのお姫様抱っこは、私の体重を知るため? それなら私はこれからどうなるの?
「どう説得しようと思っていたが、察してくれて助かる」
いえいえ、何も察していませんでした。勘違いでした。降ろしてください!
何から口にすべきか喉の奥で言葉が渋滞する。そうしているうちに、風の動きが止まった。
「それじゃ、行くぞ」
下からアダルバート様が声を張り上げる。その声に反応するように再び風が蠢きだした。
「ちょ、ちょっと待ってくださ……きゃぁぁ!!!」
私の身体の下にある風は渦巻きのように形を変えると、上昇したときの何倍もの速さで対岸へと移動し始めた。
「ええっ。掴まるところがない。落ちる! 速い!!」
涙が風に飛ばされる。飛ばされた涙が風の渦に吸収されて、私の身体の下でぐるんぐるんと回る。
そのさらに下では崖が口を開け、私を飲み込まんとしていた。
「もう無理! 戻してください」
そう叫んだ瞬間、私はふわりと地面に降ろされた。がたがたと震えながら振り返ると、向こう側でアダルバート様が手を降っている。
「それじゃ、カルタミアの採取を頼んだぞ!」
「こ、こ、この! 暴君がぁぁぁ」
私の心の叫びが、断崖に響く。絶妙にビブラートがかけられた声は断崖に跳ね返り、水音と混ざった。
アダルバート様は仁王立ちで腕を組み、まるで私の上司であるかのように監視体制に入っている。
悪魔だ、魔王だ。まさか、私だけが対岸に飛ばされるなんて。
絶望に伏しながらも、まだ震える足を叱咤して立ちあがる。すぐそこに、カルタミアが赤くて可愛い花を咲かせていた。これを持って帰るのが、私の使命だ。
修復師としてのプライドを奮い起こし、鞄から小さな鉈を取り出す。
鉈を振るうと、細い枝はそれほど力を入れなくてもスパッと切れた。断面から白くねばっとした液体が滲み出てくる。これがカルタミアの特徴だ。
次々と切った枝を広げた布の上に積み重ねていく。どれぐらい必要か不明だから、とにかく持てるだけ持って帰るつもりだ。
枝がある程度集まったところで、布でぎゅっと結ぶ。すると対岸から新たに一枚の布が飛んできた。アダルバート様のリュックに入っていたものだ。
ふわりと私の手に布が落ちると同時に、枝をまとめた布が宙に浮き、渦巻きが向こう側へ運んでいく。
手元には、新しい布。こちらの布も、枝でいっぱいにしろと言う意味だろう。ため息と一緒に項垂れ、私はまた鉈を奮う。
バシッバシッツと自棄になって枝が切る音が、耳に虚しく響く。
二枚目の布もいっぱいになったところでふと気がついた。私はどうやって対岸に戻るのだろう。
どう考えても、もう一度身体を風で浮かばされ、飛ばされるしか方法がない。
自分の身体の下で渦巻く風。支えるもののない不安定な体勢で、目も絡むような崖を越える……。そう考えただけで顔から血の気が引いていく。
無理だ。自分の中ではっきりと決断が出た。歩いて下山しよう。下っていけば、服を買ったあの街に着くはずだ。
そう決心した瞬間、ふいに背後から唸り声がした。
反射的に振り返ると、ダラダラと唾液を垂らすグリズリーと目が合う。
「えっ!?」
私の呟きは、グリズリーが地面を蹴る音にかき消され、それと同時に右肩に痛みが走った。




