古代魔法書の修復.2
さっき食べたパンが喉まで上がってきたところで、やっと私の足が地面に着く。
「よし、成功だな」
頭上で呑気な声がしたけれど、今、口を開いたら吐く。
必死で口元を押さえ蹲っていると、アダルバート様はやっと私の状態に気づいたらしく、目線を合わせるようにしゃがんだ。
「な、なんなのですか。今のは」
「転移魔法だ。魔力の少ない人間は酔いやすいのを忘れていた」
「転移魔法? それじゃ、今ここは?」
ぱっと顔を上げると、目の前にあるのは知らない街だった。
古い石畳の道。平屋や二階建ての建物がその道の左右に連なり、頬に当たる風は王都より幾分か暖かい。建物の向こうには高い山が見えた。
……ここはどこ?
さっきまで王宮図書館にいたのに、机や椅子なんてどこにも見当たらない。のっそりと立ち上がって身体を三百六十度回転させたところで、私はやっと正気を取り戻した。
「アダルバート様! これはどういうことでしょうか? ここはどこですか?」
「王都の南部だ。図鑑によると、あの山にカルタミアがあるらしい」
アダルバート様はカルタミアについて書かれた植物図鑑を片手に、もう片方の手で山を指差す。そうして視線を植物図鑑に戻し、間違いないと言うように大きく頷いた。
カルタミアの生息場所が分かるやいなや、転移魔法を使うだなんて誰が予測できただろう。百歩譲って転移魔法を使うにしても、事前に一言説明してほしい。
まだ胃の中がぐるぐると回って気持ち悪いから、できるだけ深く深呼吸をする。
「まさか、これからあの山に登るだなんて言わないですよね?」
「当然、登るに決まっているだろう。とはいえ、この格好では無理があるから、近くの店で登山ができる服と馬を調達しよう」
そう言うと、さっさと歩きだした。慌ててその後ろを追うと「ここだったはず」と一軒の店の中に入っていく。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか」
「今から山に登る。登山用の服を俺と彼女の分、揃えて欲しい。それから水筒や保存食、ロープといった必要なものはリュックに詰めて用意してくれ」
「かしこまりました」
突然の頼みにもかかわらず、店員はすぐに商品を選び出した。上顧客の登場に、鼻歌が混じる。
「ついでに、馬を一頭借りたい。伝手はあるか?」
「知り合いに交渉してみましょう。えーと、ご予算はどれほどですか?」
店員の目が、アダルバート様がまとっているローブに向けられる。ベルティア国民なら、そのローブが何を意味するのか子供でも知っている。
アダルバート様はポケットから金貨を数枚取り出すと、カウンターに無動作に置いた。
「これで足りるか?」
「はい! もちろんです」
相場よりずっといい金額なのだろう。店員が分かりやすく破顔する。そうしてあっという間に準備は整い、私はアダルバート様が手綱を握る馬に同乗することになった。
馬は山道に慣れているらしく、どんどん進んでいく。
「アダルバート様は、乗馬ができるんですね」
「乗馬、ダンス、テーブルマナーは全部完璧だ」
「そこに社交性も入っていればよかったのですが」
「? 社交性も問題ないだろう」
何を言っているんだとばかりの口調に、こちらが言葉を失ってしまう。
そうか、自覚がないのであれば仕方ない。人を無意味に傷つけるような言動はされないので、ある意味無害とも考えられ……違う。こんな場所に連れて来られて、しっかり迷惑をかけられている。
「転移魔法ができるのでしたら、初めから山の中に転移されたらよかったのではないですか?」
振り回されっぱなしなのが悔しくて抗議すると、アダルバート様はやれやれと肩を落とした。
「装備ゼロの状態で山中にあるカルタミアを探すなんて、非常識だろう。必要なものを揃えるために、手近な街に転移したんだ。そのあともう一度転移するつもりだったが、リアナの状態を見て無理だと判断した。まったく、もう少し一般常識を身に着けろ」
「……はい」
なぜに、私がアダルバート様に一般常識について言及されなくてはいけないのか。
しかし今回に限っては私の考えが浅はかだったし、転移魔法で気分が悪くなったのは事実だ。
そこで不承不承ではあるが「申し訳ありません」と謝ると、「謝罪するほどのことではない」とぶっきらぼうな声が返ってきた。優しいのか不愛想なのか、理解に苦しむ。
でも、アダルバート様は誰かを自分に従えさせたり、謝罪を強要したりしない。
レオポルド王太子殿下は、私が彼の考えに従うのが当然だと思っていただけでなく、密かに公務を押し付けてきた。そして少しでも間違えると、怒涛の如く怒るのだ。
私が公務を手伝っていたと知る人はいない。今頃どうしているのかと考えていると、馬が歩みを止めた。どうやらここからは徒歩で進むらしい。
買った服はシャツとベスト、それから女性用のトラウザーと膝下まであるブーツ。ブーツ丈が長いのは、伸びた草を掻き分け進むからだ。
「カルタミアはどこにあるのでしょうか?」
「この植物図鑑によると、湿気を好むらしい。沢や水が湧き出る場所を探してみるか」
「もしかして魔法でなんとかなったりしますか?」
「いや、無理だ。この古代魔法書が修復されれば、水の場所が分かる魔法を発動させることができるんだがな」
残念ながら今の状況では、ひたすら歩くしかない。従って、黙々と足を進めていく。
ピーピーと頭上では鳥が鳴き、葉の隙間から木漏れ日が差す。その中に、私のぜいぜいと吐く息の音が、雑音のように混ざった。
これでも伯爵令嬢だ。深窓の令嬢とは言わないけれど、体力は人並み以下だと自覚している。
クリムウェル伯爵家にいたときは、移動は馬車だった。寮に住んでからは徒歩で王宮図書館まで通っているけれど、そもそも寮はお城のすぐ後ろなので、たいした距離ではない。ましてや山道なんて初めてだ。
やっぱり先に山に登ると言ってほしかった。そんな愚痴を口の中で転がす。
すると、急にアダルバート様が振り返った。もしや聞こえてしまったのか、それとも魔法で私の心の内を読めるのだろうかと焦っていると、アダルバート様は無言で手を差しだしてきた。
「この手は?」
「こういうときは、女性に手を貸すべきだと思い出した」
「あ、りがとうございます」
素直に手を握ると、もっと強い力で握り返してくれた。その手を頼りに、森の中を進む。
遠くにあった背中が、近い。木漏れ日が模様を作る背中を見ていると、じわじわと顔が熱くなってきた。
こんなふうに、異性と手を握って歩いたことはない。目線を落とすと、私より一回り大きな手が視界に入った。節くれだった長い指は剣を握ったことがないのだろう、繊細で白くて綺麗だ。でも、しっかりとした大人の男性の手。
まずい、意識してしまって汗に手が滲んできた。一度手を離してもらって拭きたいのだが、どう切り出そう。
頭を捻っていると、葉の擦れ合う音の合間に水の流れる音が聞こえてきた。アダルバート様が足を止め、耳をそばだてる。
「あっちのようだ」
指を差し、その方角に進行を変える。歩を進めるたびにはっきりと聞こえだした水音に、期待も大きくなる、
やがて前方が明るくなってきた。木々の切れ目のようだ。その先にあるのはきっと川のはず。そう確信して陽の下に踊り出たのだが。
「これは……」




