077. 心配事 3/4 ― 菖浦の心配事(大地)
「あ~、疲れた。ひどい目に遭った」
稽古を終え、シャワーを浴びた。廊下に置いてあるソファーに腰かけた。今から黒羽の部屋で、例の本を見せてもらう予定だが、黒羽が戻ってきていない。道場の掃除や後片付けをしている。
忠勝さんも俺も、掃除や後片付けをやるつもりでいた。黒羽に一人でやらせてほしいと頼まれた。忠勝さんとの稽古の件を俺に伝えなかったのは、わざとではなく本当に忘れていただけらしい。掃除をしながら反省するそうだ。
(黒羽が忠勝さんに言われたことを忘れるなんて珍しいな。稽古の内容は覚えてたのに。すっぽ抜けるようなことでもあったのか?)
「大地~」
お嬢様がうちわを持って近づいてきた。
「黒羽は終わったのか?」
「うん。少し前にお風呂に行ったよ。会わなかった?」
お嬢様は応援という形で、黒羽の手伝いをしていた。
俺の隣に座ると、背中で俺に寄りかかり、うちわで扇ぎ始めた。お嬢様にあたらなかった風がくる箇所は涼しいが、お嬢様の背中が触れているので暑い。
「お嬢様、暑い」
「だよね。私も暑い」
「だったら、やるなよ」
「黒羽はこうすると喜ぶから、一応やってみたんだけど。やっぱり暑いよね~」
お嬢様は、俺との間を少し空けて座り直した。俺に風があたるように扇ぎ始めた。
「どう?」
「あ~、涼しい」
(黒羽が喜ぶから、か……)
「黒羽はいつから、ああなんだ? 隼人がいなくなってからか?」
「ああって?」
「道場で、ほっぺにされてただろ」
「隼人がいるときからだよ。喧嘩しちゃって、仲直りのキスとか言ってされてから」
「隼人がいるときからなのか……」
「うん。隼人に、こう、こんな感じで腕とか捻られても懲りないんだよね。一日か二日くらいは、おとなしくなるんだけど」
お嬢様は扇ぐことをやめ、隼人のマネなのか、腕をクネクネと動かした。何の技なのかはサッパリだが、とりあえず隼人に技をかけられても、黒羽はめげていないということはわかった。
「すごいな。隼人にやられてもか……」
「隼人に注意してほしかった。アレをだよ、ほっぺにチュウされてるのを、徹さんに見られちゃったんだよ」
お嬢様は再びうちわで扇ぎ始めた。怒っているのか、腕を思い切り振っていて風が強い。
「内緒って言ってたのは、ソレのことか」
「そう、ほっぺのこと。もう、見られちゃったからいいんだけど。大地は見たことなかったかなって思ったから……」
「なんか説明するの恥ずかしいでしょ」と、お嬢様は口を尖らせながら呟いた。
「恥ずかしいで済むのかよ。嫌じゃないのか? 隼人が注意しなくても、お嬢様が全力で嫌がったらしなくなるんじゃないのか」
うちわを動かす手が止まった。
「恥ずかしい以外に何があるの?」
「しつこいとか、気持ち悪いとか、いろいろあるだろ?」
「しつこいとは思うけど。気持ち悪いとかはないでしょ。だって、黒羽だよ?」お嬢様は首を傾げた。
「いや、なんで、俺がおかしなことを言ってるみたいな顔してるんだよ」
「え、だって、大地は……、うーんと、そうだなあ……。あ! ずっと前に、私がおでこにキスしたとき、気持ち悪いって思った? 思ってたの?」
「思わないけど」
「でしょ?」
「でしょ? じゃないだろ……」
お嬢様が俺の額にしたキスは、隼人にも黒羽にもしたキスだ。俺がお嬢様にしたのは、ありがとうのキスだ。黒羽のアレはそうではない。下心アリアリのキスだ。
(わかってないのか? 下心がわからないのか? 下心に気づいてないのか? どっちだ)
「私が全力で嫌がったらやめると思う?」
「さすがにやめるだろ」
「私もね。黒羽は私が本気で嫌がることはしないと思う」
「そうだろ?」
「でも、きっとやめないよ」
「は? どっちだよ」
「私が全力で嫌がるでしょ。そうすると、黒羽は、嫌がらないでくださいってお願いしてくるよね。で、例えばそれを断るとするでしょ。そうすると次は、せめて全力で嫌がるのはやめてくださいってお願いされて、じゃあって言って、全力で嫌がるのはやめて。そうすると、結局嫌がるのもやめることになって、元通り……ね」
お嬢様は真面目な顔をして、話をしながら指折りしていた。自分の話に一人納得し、最後に、うんうん、と頷いた。
「なんなんだよ、それは……」
「大地が私だったとして、私が黒羽だったとして、同じようなことしたら、全力で嫌がれる?」
「う、う~ん……」
「ね、嫌がれないでしょ」
「いや、でも……、なんかおかしいだろ。だいたい、全力で嫌がってることになるのか、それは……」
「今度は大地の番!」
お嬢様の言葉にモヤモヤしていると、うちわを差し出された。受け取り、お嬢様にも風があたるよう扇いだ。
「このあと、何して遊ぶ?」
「悪い。このあとは、黒羽と約束があるから」
「ええ~、私は?」
「男同士の話があるんだよ」
ブスッとした顔をするのかと思ったが、お嬢様はにこにこしていた。
「なんだよ、その顔は」お嬢様の頭を横から軽く小突いた。
「ふふ。仲良しだなって」
「そうだな」
「…………」
にこにこしていたお嬢様が、急に真面目な顔をして正面を向いたまま黙ってしまった。
「おい、どうしたんだよ?」
「え? あ……、うん。えっと……。どうしよっかなって迷っちゃって」
「何を迷ってるんだよ。気になるから、言えよ」
「うん……。私が言うのも変かもしれないけど。そういう話をするのかもしれないけど。黒羽が我慢とかしてないか、聞いてみてほしいなって」
「我慢?」
お嬢様は頷いた。
「大地と隼人がいなくなっちゃって、私、すっごく寂しかった。でも、なんていうか……。比べられるものじゃないんだけど。私より、黒羽のほうが寂しかったんじゃないのかなって。大地と隼人がいたときは、毎日のように騒がしかったから」
俺と隼人がいたときのことを思い浮かべたのか、お嬢様の目に少しだけ涙が溜まった。
「黒羽は、よそ行きの顔がとっても上手だよね。だから、みんなとうまくやってるとは思うんだけど。あ、悠子さん以外と。私とは、今まで通り、いつも通り過ごしてるけど。大地と隼人と仲良くしてた分、溜め込んでたりしてないかな? 悩んだりとかしてないか、聞いてみてほしいな」
「わかったよ。聞いといてやるよ」
「うん。ありがとう」
お嬢様は俺に向かって、にこっと微笑んだ。涙がこぼれそうになったのか、指で目元を押さえた。
お嬢様の頭をグリグリとなでた。黒羽のキス攻撃を気持ち悪いと思っていないこと、前と変わらず黒羽を思って心配していることがなんだか嬉しかった。
(でも恋人じゃないからな。ちゃんと拒否したほうがいいと思うんだけど。……おっと)
遠慮なくなでたせいで、お嬢様のゆるく結ばれた髪がゴムから抜けて、前に垂れてきてしまった。その髪の毛を耳にかけてやった。
「お……。またか? 大丈夫か?」
お嬢様の顔が赤くなっている。前髪などがふわりと浮き出した。
「だ、大丈夫!」
「なんだ、随分漏れやすくなったんだな。一体、何に興奮したんだよ」
「だ、大地が悪いんだよ!」
「はあ? 俺が? なんで?」
「み、み、みみ、み……」
「み、なんだよ?」
「み……、湖とか! 今まで大地にされたひどいこと思い出して、氣力が漏れちゃったの!」
「ひどいことなんてし――」
「なんでまたっ!!」
頭からタオルを掛けている黒羽が、こちらを睨んでいた。
タオルを頭から首に掛け直しながら駆け寄ってくると、お嬢様の隣に座った。座ったと同時に、頬にキスをしようとした。
「おい、ほどほど」
お嬢様の後ろ側から手を回し、頬に添えた。黒羽の顔が、俺の手にあたった。
「邪魔っ」黒羽が手首を掴んで退けようとしている。
「ほどほど。……いてえ!」
「お嬢様~」
「はあ……。ほどほど~」
黒羽の力には負けないと油断していた。噛みつかれた。思わず手を引いてしまった。黒羽はお嬢様の頬にキスをしている。
「お嬢様、もっとちゃんと嫌がれよ!」
「ほどほど~」口で言うだけで、動こうとしない。
「廊下だぞ。いいのか?」
「二人だけだったら、嫌だけど。変な目で見られたら、恥ずかしいし。でも、大地がいるから。別にいっかなって」
「そんなんで、いいのかよ」
「だって、黒羽だし。言っても聞かないし。嫌がって抵抗しても暑いだけだし。さっき頑張ったし。今、誰かに見られたら、これを許してる大地が怒られるんじゃないかな?」
「なんで、俺なんだよ!」
「お嬢様、落ち着きました?」
「あ、そっか。ありがとう、黒羽。すっかり忘れてたよ。氣力が漏れてたの」
お嬢様の髪の毛は落ち着いていた。二人は顔を見合わせて、にこにこしている。
「はあ~。黒羽、部屋行くぞ」
「もっと、お嬢様といたいんですけど」
「行くぞ!」
「ええ~」お嬢様にくっついて離れようとしない。
「俺は言ってもいいんだぞ。今から何をするのかを。例の――」
「い、行きます! お嬢様、またあとで」
黒羽はお嬢様の頬にキスをすると立ち上がった。
「うん。いっぱいお話してきてね」
お嬢様が手を差し出してきたので、うちわを手渡した。パタパタと扇ぎながら、歩き出した。
お嬢様の後ろ姿を見ている黒羽の背中を、ポンッと叩いた。黒羽は、かわいい、と呟いてから歩き出した。




