◆068. 本邸での生活 2/2
玄関を出て空を見上げると、雲ひとつない青空だった。
別邸よりも広く立派な庭を見渡した。別邸の表庭は、花壇はあったが、花などは植えられていなかった。本邸の表庭は、季節によって花などが植えかえられ表情を変える。
本邸の裏庭も、別邸とは違うところがある。洗濯物を干すところや、馬小屋や馬を放せるところがあるのは同じだ。本邸は他に、大きなビニールハウスと道場がある。
ビニールハウスにはまだ入ったことがない。花などが育てられているということは知っている。道場は、十五メートルから二十メートル四方くらいの広さだろうか。大地が父に本邸で稽古をつけてもらうときは、ここを使用していた。
表庭の真ん中辺りに差し掛かると、何も植えられていない花壇があり、なんとなく足を止めた。そこから、家屋を眺めた。こちらも別邸より大きく立派だ。応接室や食堂、父の書斎などもこちらの方が広い。部屋数も多い。
しかし、住んでいる人数はたいして変わらない。別邸には、父と私と黒羽、大地、隼人の五人で住んでいた。本邸には、父と私と黒羽、里山夫婦ともう一人の六人で住んでいる。
パンパン
軽く手を打ち鳴らす音がした。音のした方に顔を向けた。背が高く、手足の長い、ひょろっとした猫背の男性が立っていた。
灰色の長めの髪を、前髪も含めて後頭部の高い位置に結んでいる。前髪の一部や後ろ髪の下のほうは長さが足りず、垂れてきてしまっている。灰色と言っても、白髪交じりという意味ではない。銀髪と言えるような気もするが、銀色というより灰色だと思う。やや薄い灰色の髪色をしている。常にジトッと睨んでいるかのような目をしていて、目の下には大きなクマができている。
秋塚律穂だ。住み込みで、庭師兼御者をしている。ひょろっとしているが力持ちだ。前に律穂が軽々と持ち上げていた袋を、試しに持ち上げようとしてみた。全く持ち上がらなかった。
年齢や結婚歴は不明だ。話に出てきたことがない。ただ、父や徹が、律穂、と呼び捨てしているので、父たちより年下なのかもしれない。
律穂だけ、みんなとは違う服装をしている。今は庭の仕事中なので作業着だ。
「どうじまじだ? まだ、泣ぎまず?」
律穂は声がひどくしゃがれている。それだけではなく、出しにくいそうだ。ひどい風邪を引いて、声が出ないときのような話し方だ。
そのため、話しかける前に、まず手を打ち鳴らして存在を知らせている。
「泣きませんよ。大丈夫」
律穂は良く言えばミステリアス、悪く言えば不気味だ。黒羽は怪しい人だと言っている。確かに風貌は怪しい。でも、優しい人だと思う。庭の手入れや、馬の世話をしているところを見ていて、そう思った。
本邸の使用人五人の中で、一番最初に打ち解けたのが律穂だった。本邸に通いはじめた頃、庭の人の通らなそうな場所を選んでレジャーシートを広げ、座り込んで本を読んだりしていた。何回か繰り返すうちに、律穂から話しかけられるようになった。その頃は、手を叩いて音を出したり、身振り手振りだけで、律穂が声を発することはなかった。声が出せない、話せない人なのかなと思っていた。
ある日、私が庭に出ると、律穂と隼人が一緒にいた。そのときに、律穂の声のことを、隼人が説明してくれた。それから律穂は、声を出して普通に話をするようになった。
「泣いだ」
「だ、だって、思い出しちゃって……」
三月の下旬に隼人の乗った馬車を見送った。
黒羽も私も涙を我慢することができなかった。私たちを見た隼人は、少しだけ辛そうな顔をした。一度深呼吸をすると、にっこりと微笑み馬車に乗り込んだ。
新天地に着いた隼人から、すぐに手紙がきた。父や黒羽に私、使用人のみんなにも届いた。
大地が騎士になってから、たまに隼人も一緒に本邸に来ていた。三月に入ってから三週間ほど、ここに一緒に住んだ。隼人は本邸の使用人全員とすぐに仲良くなった。悠子さんともだ。
みんなと仲良くなった隼人は、私の少しだけ残っていた不安と不服を解消してくれた。
約一年間、何回も本邸に通い、みんな優しくて良い人たちばかりだということはわかっていた。でも私は、本邸に移り住みたくなかった。たまに一緒に過ごすのと、毎日過ごすのではわけが違う。不安だった。別邸での生活が楽しくて、思い出がいっぱいあって離れたくなかった。不服だった。
態度に出したつもりはなかったが、どうやら様子が違っていたらしい。隼人が気を使ってくれた。
隼人が本邸に住むのは三週間だけということもあり、その間は使用人ではなく、黒羽と私の家庭教師として過ごすことになった。その他の時間は自由だった。出かけたり、先生の勉強をしたりと、隼人自身のために使ってよい時間だった。
それなのに隼人は、家庭教師の時間が終わると私を連れて、みんなのところを渡り歩いた。一緒に手伝いをしたり、お茶を飲んだりした。そうしているうちに、いつの間にか不安も不服もなくなっていた。
感謝の気持ちを伝えると、私がお嬢様と一緒にいたかっただけですよ、と隼人はタレ気味の目を細めて微笑んだ。みなさんお嬢様のことが好きですよ、大丈夫ですよ、と頭をなでてくれた。
私の不安を拭い去るための言葉だったのだろうが、随分と気持ちが楽になった。
(隼人、元気に先生してるかな。人気あるだろうな。教えるの上手で優しいし。多少荒っぽい子がいても、隼人なら大丈夫だしね)
指で涙を拭って、はあ、と息を吐いた。
「もう大丈夫です。ちょっと、隼人が恋しくなっちゃっただけなので」律穂に向かって、にこっと微笑んだ。
「なら、いいんでずげど」
そう言うと律穂は髪の毛を結び直した。
「……律穂さんの髪は、地毛ですか?」
「ぞうでずげど?」
「小さいときから、その色なんですか?」
「ああ、色でずが。変でずが?」
「い、いえ! 変とかではなくて。みんな、黒や茶色なので珍しいなと思って」
「珍じいでずがね? 確がに黒や茶色が多いでずげど、ぞうじゃない人も結構いまずよ。王族どが」
「そういえば、そうですね。王族の方々は一色ですらないですね。茶色っていっても、私みたいな白を混ぜたような明るい茶色だったり、小夜さんみたいな金髪に見えるような茶色だったり、焦げ茶色だったりと幅広いし。そう考えると律穂さんの色は、白よりの黒ってことになるのかな……」
律穂の顔をジッと見つめた。眉毛やまつ毛も髪と同じで灰色だ。
「……瞳の色も灰色なんですね。キレイですね」
律穂は目を見開いたあと、ニヤッと笑った。ポケットからアメを二個取り出し、差し出してきた。律穂はアメをよくくれる。お近づきのしるしのアメ、涙が止まるアメ、花が咲いた記念のアメなど、いろいろなアメをくれる。
二個とも受け取り包みを開け、一個を律穂の口に、もう一個を自分の口に入れた。
「ありがとうございます」
「褒めでぐれだがら、ご褒美のアメでず」
律穂は口角を上げて、ニヤーッと笑った。律穂のことをよく知らない人からすると、とても怪しい笑顔に見えるかもしれないが、律穂は微笑んでいる。
「ここには何を植えるんですか?」
目の前の何も植えられていない花壇を指さした。
「いろいろでず」
「いろいろ……」
律穂は頷いた。「楽じみにじでいでぐだざい」と言いながら軍手をはめると、仕事に戻っていった。
もう一度、家屋に目を向けた。黒羽がいるはずの部屋を探した。
(あの部屋かな?)
窓の中まではよく見えず、その部屋で当たっているのかどうかはわからなかった。
黒羽は今、家庭教師の先生から勉強を教えてもらっている。
黒羽は引き続き、使用人の手伝いをしながら、家庭教師から学ぶ生活をしている。だが、前と全く同じ状況ではない。入学まであと一年となったので、勉強に比重を置くことになった。仕事は分担されず、忙しい人の手伝いをする程度になった。
隼人や大地のように、使用人の誰かが家庭教師をしているわけではない。家庭教師を雇った。家庭教師の時間中、私は黒羽の近くで本を読んだりできなくなった。でも、黒羽はちゃんとそのことを受け入れ、抜け出したりせず真面目に授業を受けている。
私に家庭教師をつけるのは、来年以降となった。今は特にやることの決まっていない毎日を過ごしている。
庭を散歩したり、本を読んだり、自習をしたり、手芸をしたり、氣力を制御する訓練をしたりと自由に過ごしている。
(楽しい氣力の訓練でもしよ!)
手提げ袋の口を広げて、お目当てのものが入っていることを確認した。何も植えられていない花壇をチラリと見てから、庭のはずれを目指して歩を進めた。




