◆067. 本邸での生活 1/2
三月の頭に別邸から本邸に移り住んだ。それから四ヶ月が過ぎ、七月になった。
「お~、菖蒲。どうした~? 洗い物か? こっちでまとめてやっとくから、そこ置いといていいぞ」
台所の流しでマグカップを洗おうとすると、椅子に腰かけ新聞を広げていた男性が、こちらを見て声をかけてきた。
バコッ
「いだっ」
「菖蒲じゃなくて、お嬢様、でしょ! 私たちは使用人なんだから。何回言わせるつもりなの!」
女性が筒状に丸めた雑誌で、男性の頭を叩いた。
男性の名前は里山徹。茶色の短い髪にパーマをかけている。女性の名前は里山理恵。肩下十五センチくらいの茶色の髪を後ろで一つに結んでいる。長めの前髪は横わけにして流している。
二人とも黒のズボンを穿いて、揃いの青いエプロンをつけている。本邸の使用人の制服のようなものだ。黒っぽい色のズボンに、決められた青いエプロンを着用する。それ以外は自由だ。二人は水色のポロシャツを着ている。
徹と理恵は夫婦だ。住み込みで働いていて、二人とも台所仕事を担当している。父の仕事の手伝いもしている。一人が台所仕事をし、もう一人は父の仕事を手伝う、といった感じだ。
父の仕事の手伝いがないときは、こうして二人で台所にいたり、他の使用人の手伝いをしたりしている。
「でもよ~、忠勝の娘に、お嬢様ってのも……。こ~んな小さいとき、名前で呼んでたわけだし」徹は両手で赤ちゃんサイズの円を空中に描いた。
「それはそうなんだけど。菖蒲は一応お嬢様なんだから」
「一応って。理恵だって名前で呼んでるくせに」
「徹が名前で呼ぶからでしょ!」
二人は父と母の友人だ。学園で同学年だった。父とは学園に入学する前から友人で、母とは入学してから知り合ったそうだ。
私が生まれる前から働いていて、母が亡くなるまでは別邸に住んでいた。私は覚えていなかったが、黒羽は二人を覚えていた。高熱で数日間入院したとき、病院に駆けつけてくれたらしいが、意識が朦朧としていたのでわからなかった。
「菖蒲は名前で呼ばれたって、気にしないよな?」徹がこちらを向いた。
「ダメよ、菖蒲。徹のこと甘やかしちゃ。誰かが来たときに、切り替えられないんだから。忠勝のことも、仕事中に名前で呼んじゃうし。忠勝様ならいいけど、忠勝って呼ぶのよ。旦那様って呼ばないといけないときに!」理恵もこちらを向いた。
「えっと……」
正直に言うと、私のことは名前で呼んでもらって構わない。お嬢様と呼ばれるより、呼び捨てにしてもらったほうが気が楽だ。でも、理恵の言っていることもわかる。様をつけて呼んだほうが良いときもある。徹が呼びわけができないのであれば、普段からそう呼んでおいたほうがいいのかもしれない。
(答えづらい。何より、夫婦の意見の相違に、首を突っ込みたくない……)
「なんとも言えないかな~、です」
二人は顔を見合わせた。
「ほらみ――いだっ」
鼻で笑いながら口を開いた徹の頭に、食い気味に丸めた雑誌がお見舞いされた。
「何が、ほらみろ、よ。菖蒲は、徹にも同意してない」
このやり取りも定番になってきた。三人で顔を合わせると数回に一回、このやり取りをしている。
お嬢様と呼ばないと、と言っている理恵も、私のことをほとんど名前で呼んでいる。父のこともだ。ただし、来訪者がいるときなどはきちんと呼びわけている。
「あ、あの~、マグカップ、お願いします。ここに置いておきます」
他の洗い物のそばにマグカップを置き、二人に軽く頭を下げて、そそくさと台所から逃げ出した。
「理恵が凶暴だから、菖蒲が逃げちゃっただろ~」
「徹に絡まれるのが、面倒だからでしょ。おじさんの相手は疲れるから!」
「俺がおじさんなら、理恵はおばさんだな~。おばさんじゃなくて、おばあさんかもな。いっつも同じようなことばっか言ってるし。言ったこと忘れちゃうんだろ~? ぶっくくく」
開けっ放しになっている台所のドアから、そんな会話が聞こえてきたあと、バコッと音がしたような気がした。
(二人はいつも賑やかだなあ。さてと、どうしよ。庭にでも行こうかな……。あっ!)
「う、うわあっ! うぷ」
「うわっ! ととっ」
これからどうするかを考えていたため、廊下の角から現れた布の塊にぶつかってしまった。よく見ていれば避けられた。
ぶつかったせいで、布の塊が崩れ落ちてしまった。
「ご、ごめんなさい!」
「大丈夫、大丈夫。私のほうこそ、ごめんなさい。欲張って抱え過ぎてしまって。前が見えてませんでした」
金髪にも見える茶色の髪色をした、クールなショートヘアの女性がニッと微笑んだ。使用人の山口小夜だ。
小夜は三十歳くらいで、使用人歴は七年ほど。子どもが一人いる。夫は他界していていない。子どもは私と同い年の男の子で、学習学校に通っている。本邸と学校の中間より、やや学校よりに住んでいる。そこから通ってきている。
「なんだか、台所が騒がしいですね。今日は、二人とも台所の日でしたっけ?」小夜は私の後方に目を向けた。
「そうみたいです。徹さんも理恵さんも、台所にいたので」
「お嬢様も台所にいたんですか? もしかして、呼び方のことで、また板挟みにされました?」
「えっと~」なんと答えてよいものか迷い、目が泳いでしまった。
「あはは。それは、お疲れ様でした。お嬢様、申し訳ないんですが、拾ってもらってもいいですか?」私の様子から察した小夜は、少しだけ歯を見せて笑うと、下に目を向けた。
「いいですよ」
落ちてしまったシーツなどを拾い、小夜が抱えているものの上に乗せていった。また顔が隠れてしまった。
「ありがとうございます。助かりました。では」
少し体を横に向けて私に顔を見せ、お礼を言うと洗濯機のある方へ歩いていった。
後ろ姿を見送った。黒のスキニーパンツに白いTシャツ、エプロンのヒモが腰でキュッと結ばれている。
(小夜さんは子どもがいるようには見えないな。あのくびれ)
両手で腰の辺りを触った。まだ子どもだから仕方がないと思った。腰やお腹をなでながら、その場をあとにした。
私の部屋がある廊下に出ると、ドアの前で畳まれたシーツを抱えた使用人が深呼吸をしていた。
茶色の髪を後頭部の真ん中辺りでお団子にしている。足首に向かって細くなるシルエットのズボンを穿き、七分袖の淡いピンク色のTシャツを着ている。エプロンのヒモはゆるく結ばれている。
「悠子さん、どうかしましたか?」
「ははははいぃ。あ、お、お、お嬢様。そちらに、い、いらしたんですね」
加藤悠子は、使用人の中で一番若く、使用人歴が短い。年齢は二十代前半で、独身だ。去年私たちが本邸に通うようになった頃から働きはじめた。近くに住んでいて、通いで働いている。
悠子は私よりも人に接するのが苦手だ。悠子を見ていると、私は苦手の部類に入らないような気がしてくる。いつもおどおどしていて、話すときはどもってしまう。顔の怖い父によく雇われる気になったなと、ちょっとだけ思ってしまう。
「し、シーツを、と、取り換えに……」
「ありがとうございます。どうぞ~」ドアを開けて先に入り、悠子を招き入れた。
敷いてあったシーツはすでになかった。小夜が回収していったからだ。ベッドの上に置いてあった枕などは、ソファーの上に避けてあった。
「手伝いますね」
「すすすすみません」
部屋にいるときは毎回手伝っているのだが、悠子は泣くのではないかと思うくらい申し訳なさそうな顔をした。
これでも私に対しては馴れてきたほうだ。最初はカチコチで言葉を発しなかった。仲良くなってきたので、表情が変わるようになり、話ができるようになった。
(なぜか、黒羽には馴れないんだよね。話もしないし)
「お、お嬢様は、これから、な、何をして過ごす予定なんですか?」
「庭を散歩して、氣力制御の訓練をしようかなと思ってます」
「そ、そうなんですね。が、頑張ってください」
「はい。ありがとうございます」
用が済むと、悠子はペコペコと何回も頭を下げながら部屋を出ていった。
(さてと……)
手提げ袋にレジャーシートなどを詰め込んだ。それを持って、玄関に向かった。




