066. 切れないもの(隼人)
※隼人視点。
カランカランカラン……
「ふう……」
店を出て、一歩踏み出した。午前中の爽やかな風が、首筋をなでた。
(不思議な感じがしますねえ)
いつも髪を結んでいる。風が首筋をなでていくのはいつものことだ。でも今は、その風に髪がなびいている。視界の横のほうで髪の毛が揺れている。
「隼人、お願いがあります」
「なんですか?」
午後の家庭教師の時間が終わり、お茶をいれるために立ち上がろうとしたときだった。黒羽がノートに視線を落としたまま、小さい声で言った。お嬢様が対角にある椅子に横になって眠っていた。起こさないように配慮したのかと思った。
私のほうを向いた黒羽は、眉間にシワを寄せていた。何かを我慢しているかのような顔だった。
「迷惑じゃなければ、夜に三十分……、二十分でもいいから、勉強を教えてほしいです。二日……、ううん、三日に一回でいいから。先に進めるでも、復習でも。家庭教師代が必要なら……、出世払いで。働くようになったら、ちゃんと払うから」
「そんな……、お金だなんて。旦那様からいただいてる分で十分ですよ。ええ、かまいませんよ。お風呂に入る前とあと、どちらがいいですか?」
黒羽は、ホッとしたような表情をしたあと、少しだけ笑顔になった。
「それは、相談で……」
「今日はどうしますか?」
「…………眠る前に」笑顔がスッと消えた。テーブルに視線を落としてしまった。
「黒羽……、どうした――」
「うっ、うわっ!」
ガタッ、ドタ
「い、痛い~~」
「お、お嬢様! 大丈夫ですか!?」
「また落ちちゃったんですか?」
椅子から転げ落ちたお嬢様に、黒羽とともに駆け寄った。
お嬢様は立ち上がると、頬を膨らませて、服を払うように整えた。落ちて痛かった腹立たしさを、そこにぶつけているようだった。髪には寝癖がつき、おもしろい方向にはねていた。
「痛かったけど、大丈夫」お嬢様は少しだけ口を尖らせた。
「かわいい」黒羽はいつものごとくお嬢様に抱きついた。
「ほどほど~」
「そうですよ。ほどほど」お嬢様の頭に手を伸ばし、頭をなでつつ髪の毛を直そうとした。
「うーん。これくらいでは、直らないですねえ。寝癖」
「え!? 寝癖ついてる?」
「なんで驚いてるんですか? いつもつけてますよね」黒羽はお嬢様の頭に頬ずりをした。
「ふふ。そうですね。居眠りするとだいたい、はねてますね」
「それは、そうだけど。わかってても、そうなの? って思うでしょ」
「かわいい~」
「さて、お茶をいれましょうね。黒羽、ほどほど。お嬢様の寝癖、直してあげたらどうですか? 三つ編みにでもして」
「そうですね! そうします。お嬢様、部屋で髪の毛を結ってあげます。行きましょう」
「ええ~。いいよ、このままで」
「そんなこと言わずに!」
黒羽は筆記用具を小脇に抱えると、お嬢様を引きずりながら食堂を出ていった。
戻ってきたお嬢様は、左右二つに束ねた三つ編みのおさげになっていた。黒羽は満面の笑みで、お嬢様は少し疲れているようだった。だいたい何があったのか想像できた。席についた黒羽に、ほどほど、と軽くチョップをお見舞いした。黒羽は、見てないのになんで? と頬を膨らませた。
お風呂から出て脱衣室で着替えていると、黒羽がやってきた。黒羽は、お風呂から出たら私の部屋に来ると言い、浴室に消えていった。
自室に戻り、髪を乾かし、夜の勉強の時間をどう使おうか考えていた。コンコン、とドアがノックされた。どうぞ、と声をかけると黒羽が入ってきた。ドアの前に下を向いたまま立ち、ドアを静かに閉めた。手には何も持っていなかった。
「あれ? ノートとかはどうしたんですか?」
「今日は初日だから。話をしようと思って」
「ああ、この時間をどう使うかですね。私もちょうど今、考えてたんですよね」
黒羽は首を横に振った。ドアの前からベッドに前に移動し、ベッドに腰かけた。ゆっくりと顔を上げ、問いかけてきた。
「学習学校の先生になるんですか?」
ハッとした。旦那様は、次の仕事のことは話さなかった。お嬢様には聞かれたから答えた。黒羽にはまだ伝えていなかった。出ていくことを報告してから、もう一週間も経っていた。
「すみません。伝えるのが遅くなってしまって……」
「それはいいんです。僕も聞くのを忘れてましたし。なんで、学習学校の先生なんですか?」黒羽はうつむいた。
「黒羽とお嬢様に教えて――」
「そうじゃなくて。それは聞きました。お嬢様から。僕たちと一緒にいるうちになりたくなったって」
私の言葉をさえぎった黒羽は、両手で布団をギュッと握りしめていた。
「……黒羽?」
「なんで、学習学校なんですか? 家庭教師のままじゃ、ダメだったんですか? どちらも先生ですよね?」
黒羽が顔を上げ、私に向けた。今にも泣きそうな顔をしていた。
「僕はここを……。ここから一番最初に出ていくのは、僕だと思ってました。もちろん、戻ってきますけど」
こちらに顔を向けたまま、手の甲で目元を隠し、黒羽は言葉を続けた。
「大地は騎士だから……、ここにいたらなれないから、仕方がないと思った。でも、隼人は先生になりたいんですよね? 今も先生じゃないですか。僕はあと一年と少しで学園に行きますけど、お嬢様がいるじゃないですか。僕がいない間、お嬢様と一緒にいてくれないんですか? 僕だって、一年あるのに」
黒羽は一気に話すと、大きく深呼吸をした。
「僕が言うことを聞かないから、嫌になりましたか?」小さい声で呟くように口にして、鼻をすすった。
「そんなわけないでしょう」
目元を隠している黒羽の手に、コツンとティッシュの箱をあてた。黒羽は反対側の手で箱を受けとると、下を向き、ティッシュで目元と鼻を拭いた。
私に顔を向けた黒羽は、目を見開いた。
「隼人……」
「私はダメですね。大地さんのように強くいられない。大地さんは、よく最後まで耐えられましたね」
私も大地さんのように、最後まで泣かずにいたかった。できなかった。黒羽の持っている箱から、ティッシュを数枚抜きとり、涙を拭いた。
「学園の先生でもなく、家庭教師でもなく、学習学校の先生を選んだのは、私が学習学校に通っていたからというのが大きいです。学園にも通いましたが、学園の先生は基本一科目ですから。それに、学生とそんなに深くは関わりません。私のやりたいことと少し違うんですよ」
黒羽は下唇を噛みながら、話を聞いている。
「家庭教師と学習学校の先生、どちらになるかと考えたとき、パッと出てきたのは学習学校だったんです」
私が通っていた学習学校の話をした。年齢ごとにわかれ、授業を行うようなところではなかった。年齢関係なく、好きな教室の好きな席について、好きなように自習をするところだった。各教室に一人は先生がいたので、わからないところは質問できた。自ら勉強する子は伸びた。遊んでばかりいた子は勉強ができないままだった。
「――そういう子たちが、少しでも勉強に興味が持てたらな、持てるようにしてあげられたらなって思ったんです。ただ教えるだけじゃなくて、もう少し深く関わりたいと思ったんですよ」
「家庭教師だって……」
「ええ。そうですね。黒羽やお嬢様とこんな風に関われた。だから、先生になりたいと思えるようになった。でも、すごく珍しいことだと思うんですよ。家庭教師を雇うのは、ほぼ華族ですから。私は華族ではありませんので、そこでまず少し距離をおかれますから」
「それは……」
「それを乗りこえてっていう考え方もあると思います。旦那様のように分け隔てない人もいます。でも、どちらになりたいか天秤にかけてみると、ストンと学習学校の先生に傾くんです」
黒羽は眉間にシワを寄せながら、私のことを見つめている。
「情けない話なんですけど……」
「情けない?」
「ええ。家庭教師は、黒羽とお嬢様でお腹いっぱいです。たぶん……、もう無理です」
「お腹いっぱい?」
「もう入りません。きっと、黒羽とお嬢様と比べてしまうと思います。その子を見ていても、黒羽とお嬢様を思い出してしまう。同じ家庭教師で、それはちょっと。学習学校の先生なら、家庭教師のときのことを糧にって変換できるので。ちょっとだけ、逃げもあるんですよ」
「それなら、このままでも……」
「せめて、黒羽が学園に行くまで。できれば、お嬢様が行くまで。そう思ってました」
「だったら、なんで?」
「旦那様の優しさですよ」
「優しさ?」
「年齢です。次の誕生日で二十四歳ですから。お嬢様が学園に入学するときは、三十歳になります。それでも良かったんですけど。早ければ早い方がいいと」
「でも、あと一年……」
「見つかっちゃったんですよ。条件の良いところが。私の実家は、ここから王都を通りすぎた先にあるんです。帰ってないんですよね。学園を卒業してから一度も」
「一度も?」
「そう、一度も。私には妹がいるじゃないで――」
「妹がいるんですか!?」
「ええ。知りませんでしたっけ? あ~、大地さんも知らないかもしれませんね。妹のことが嫌いなわけではないんですが。距離をおいてましたから。話題には出したことがない……ですね」
「妹が……」
「ふふ。いるんですよ。二つ下の妹が。その妹が結婚したいから帰ってこいってうるさくて。せめて、実家のそばにいろ、と」
「妹……」
私に妹がいたことが、そんなに意外だったのだろうか。黒羽が妹の話に食いついた。
「見つかっちゃった、なんて失礼な言い方をしましたけど。実家にそこそこ近くて。私が通っていた学習学校の環境に似ていて。未経験な私にも待遇の良いところを、旦那様が見つけてきてくださったんですよ」
「そう……だったんですね。……ごめんなさい」
ベッドに座っている黒羽の頭を、立ったまま胸に抱きよせた。
「謝るのは私のほうです。良い条件でも、断ることもできたんです。私は、自分の道を優先したんです。でも、でも……」
涙があふれてきて、言葉に詰まった。
「…………黒羽やお嬢様や、旦那様……、この場所を……、離れることが平気なわけではないんです。離れたくは、ないんですよ」
黒羽は私の腕を掴むと、うっ、と声を漏らした。
お嬢様と黒羽には言えないことが、ひとつあった。
大地さんが騎士の、私が学習学校の先生の道を選んだのはそれぞれの意思だった。その道に踏み出そうと決心する、最後のひと押しがあった。
大地さんと私が雇われた理由、それがなくなった。もう大丈夫だろうと判断された。そうでなかったら、私たちはそれぞれの道に進んでいなかったと思う。進むにしても、お嬢様が学園に入学してからになっただろう。
このことは、私の口からは言えない。お嬢様と黒羽には内緒だからだ。二人はずっと知ることはないかもしれないし、いつか旦那様が教えるかもしれない。
腕の中で泣いている黒羽の頭をなでた。黒羽にぶつかってこられて嬉しかった、と夏に大地さんが言っていた。私も今、その気持ちを実感している。黒羽がお嬢様にしているように、黒羽の頭に頬をよせて、少しだけ頬ずりをした。
それから、黒羽と私は、二三日に一回、夜眠る前に三十分ほど一緒に過ごした。勉強というよりも、ほとんど雑談だった。お風呂でもよく話していたが、眠る前に話をするのはまた違っていて、話が弾んだ。
妹のことを聞かれた。妹は私よりも背が高く、格好良い。一緒にいると、私が姉に、妹が弟に間違えられることもある。ひどいときは、妹が兄に、私が妹に間違えられたと教えた。
要するに妹は、私の女性のような見た目というコンプレックスを刺激した。だから、距離をおいていた。妹が悪いわけではない。妹も悩んでいたかもしれない。そんな考えには及ばず、ただ逃げていた。
今はもう、そのコンプレックスはない。妹のことを、こうして話題にできるようにもなり、連絡を取るようにもなった。
「そうなんですか!? かっこいいんですか? だからお嬢様がかわいいんですか?」
「妹が可愛らしくない、というわけではないんですけど。お嬢様は年も離れてますし。なんか、こう、ふわふわしてて」
「わかります。髪の毛がふわふわしてます」
「まあ、髪もなんですけど。なんとなく、発言とかも、ふわふわしているときがないですか? 伝わりますかね?」
「してます。なんか、全部ふわふわしてます」
「伝わってませんねえ」
雑談は、ほとんどお嬢様に関することだった。
本邸に移り住んでも続けた。黒羽はよく涙をこぼすようになった。私もつられて涙をこぼした。
手紙を書く約束をした。お互い返事は待たずに書きたいときに書く、とゆびきりをした。
出発の前日、黒羽にプレゼントを渡した。切手と封筒と便箋、新しい本を三冊、紙袋に入れて渡した。黒羽は中身を確認すると、隼人も好きだね、と言った。強めのチョップを食らわせた。大地さんとは違う。ちゃんとピュアなやつを選んだ。
出発当日。お嬢様に三つ編みを数本編んでもらった。そのあと黒羽に、三つ編みも含めて、後ろに緩く編み込みをしてもらった。途中で交代してもらい、少しだけ自分でも編み込み、結んだ。
泣いているお嬢様と、今年は無理だが来年の夏には遊びに来るとゆびきりをした。
お嬢様を抱きよせて、ごめんなさい、と聞こえないように呟いた。黒羽のことを一緒に見守れなくてごめんなさい、と心の中で謝った。
黒羽とお嬢様の泣き顔を見て、やっぱりここで働かせてください、と言ってしまいそうになった。そんな気持ちを抑え、馬車に乗り込んだ。みんなに見送られて、湖月家をあとにした。
(うーん。なんか変な感じですねえ)
ショーウインドーに映る自分の姿に、思わず首を傾げた。
次の職場である学習学校の近くに越してきて二日目。荷ほどきもそこそこに、朝から街に繰り出した。
目についた良さそうな店に飛び込んだ。本当にいいんですか? と驚かれた。いいんですよ、と笑顔で頷いた。
バッサリと切ってもらった。
腰まであった長い髪を、肩につかないギリギリの長さに切った。前髪は耳くらいの長さにした。
(なんだか、顔回りがくすぐったいですね。頭が軽い、寂しい感じがしますねえ。……そうだ!)
メガネ屋を探した。先生の雰囲気を出すために、伊達メガネをかけることにした。
(メガネを買って、昼食をとったら、帰りますかね。帰ったら、みんなに手紙を書きましょう)
私は今後、大地さんのように湖月家に関わることはできないと思う。大地さんも湖月家を出たが、大地さんと私では環境が違う。
遠く離れてしまい、いつでも途切れてしまう関係かもしれない。それでも、いろいろなことに気づかせてくれた、今の私になることができた、みんなとの繋がりを大切にしていきたいと心から思う。




