057. 僕にしてほしい(黒羽)
※黒羽視点。
大地が夏期休暇中に、一泊二日で遊びに来てくれた。今日は二日目だ。
大地はお嬢様を連れて、黒国丸で円境湖近くの草原に出かけていった。今日は草原でゆっくりせずに、眺めてそのまま帰ってくると言っていた。
しばらくすると、二人が帰ってきたのが見えた。お嬢様を迎えに、裏庭へ向かった。
大地が先に黒国丸から降りた。次に、お嬢様を抱き上げて降ろそうとした。でも、すぐには降ろさずに抱っこをした。
お嬢様の髪に顔を寄せて、抱きしめた。お嬢様は、髪の毛を左右二つにわけて、耳の上辺りで結んでいた。僕が結んだ。その片方に鼻先を埋めるように寄せていた。
「このくすぐったい髪、久しぶりだな」
「くすぐったい髪って何?」
「うーん。この髪の毛のこと」大地がお嬢様の顔を覗き込みながら、結んである髪の毛をすくうようになでた。
「説明になってない! どうせ、癖っ毛です~。はねてます~」お嬢様は口を尖らせた。
「悪いなんて言ってないだろ。ほら、黒羽と先に行ってろ。俺はやることがあるから」
大地はそう言いながら、お嬢様を地面に降ろした。
「はあい」
お嬢様は、黒国丸に「ありがとう。またね」と挨拶をした。黒国丸と大地が馬小屋に入ると、僕のほうを向いた。近づいてきたお嬢様は、驚いた表情で僕の顔を覗き込んできた。
「どうしたの?」
「何がですか?」
「何がって……」
お嬢様は僕の顔に手を伸ばし、頬をなでた。
「目にゴミでも入ったの? それとも、何かあったの? 大丈夫?」
自分の頬を触ると濡れていた。
僕は泣いていた。
馬小屋に入る大地を見ていたお嬢様は、抱きしめられたからか、少し照れた顔をしていた。大地がなでた髪の毛を、くしゃっと握りしめていた。フリルのようになっているTシャツの袖が、ふわりと浮いた。
ふと、昨日のことを思い出した。突然、お嬢様は髪の毛をふわりと浮かせた。隼人が変なことを言ったせいではないかと、大地は言っていた。でも、結局、原因はわからずじまいだった。あのとき話していたのは大地のことだった。お嬢様は大地の話に反応したのではないかと思った。
胸が苦しくなった。
「黒羽、大丈夫?」
僕の頬をお嬢様の手が何回も拭った。
「お嬢様……」
お嬢様のことを抱きしめた。先ほど、大地が触っていたところに、グリグリと頬をすりつけた。
「どうしたの?」
お嬢様は、ほどほど、とは言わず抱きしめてくれた。そっと背中をさすってくれている。
お嬢様が苦しいと言って逃げないくらいの力で、できるだけこうしていられるように抱きしめていた。
「おい、ほどほどにしとけよ」
いつの間にか大地が近くに来ていた。お嬢様と引き離された。大地の手が、僕の肩に置かれていた。
「触るなっ!」
ハッとした。
大地の手を、思いきり払い除けていた。
こんなことをするつもりではなかった。大地とお嬢様が、驚いた顔で僕を見ていた。
「あ……、えっと……」
二人の顔が見れず、目を泳がせた。どうしたらよいかわからず、その場から逃げ出した。お嬢様に名前を呼ばれたが、振り返らず自室に逃げ込んだ。ベッドにうつ伏せになり、枕に顔を埋めた。
コンコン
ドアがノックされた。無視した。
「黒羽、入るぞ」
大地が入ってきた。枕から顔を上げなかった。
「どうした? 何かあったのか?」
「おい」大地の手が背中に触れた。枕をギュッと握りしめ、無視をした。
「俺は今日帰る。時間がない。だから、引かないぞ。言いたいことがあるなら言え。なんだ? お嬢様と湖に行ったのが気に入らなかったのか?」
「違う! そんなんじゃない!」枕から顔を上げ、大地を睨んだ。
大地とお嬢様が黒国丸で出かけることが気に入らないのは、最初からだ。今さらそんなことで、こんな気持ちになったりはしない。
「黒羽……」
大地の手が伸びてきて、頬を拭った。睨んだままの僕の目の下を、大地の親指がなでた。大地の心配そうな顔を見て、睨めなくなってしまった。
「大地は悪くない。ごめんなさい……」
「お嬢様か?」
「お嬢様も悪くない」
「じゃあ、なんだ? 小さなことでもいい。話してみろよ」
お嬢様の氣力が漏れるようになったのは、僕がきっかけだった。僕だけではなかったかもしれないが、確実に含まれていた。怒ったからだった。
湖で漏れているところを見たこともあった。遠くからだったが、タオルがふわりとしたのを見た。あれは話を聞いて、恥ずかしかったのと、怒ったからだと思った。
昨日のと、さっきのは、なぜ漏れたのだろうか。怒っているようには見えなかった。少しだけ頬を染めた、あんな顔をして、どのような気持ちで氣力が漏れたのだろうか。
「とらないで。お嬢様のこと、とらないで」
「黒羽?」
「とっちゃ、やだ……」涙がこぼれた。
「なんだ、やっぱり、湖に連れてったのが気に入らなかったのか。前からよく行ってただろ? 久しぶりだったから、耐性がなくなったのか?」
「そうじゃない」体を起こし、大地に向き合った。
「そうじゃないって……。まさか、俺がお嬢様をどうこうしようとしてるって言いたいのか?」
大地はとても驚いた顔をした。
「昨日、隼人が、女たらしとか変なこと言ったからか?」
大地は下を向いて、はあ、とため息を吐いたあと、改めて僕のほうを向いた。
「あのなあ、俺とお嬢様、いくつ離れてると思ってんだ? 十六歳差だぞ? 一回り以上離れてるの! とるとか、とらないとか、ないだろ」
「そんなのわからないっ」ジッと見つめた。
「わかるの。少なくとも、俺はないから。俺、二十五歳なんだけど。さすがに、九歳とかないから」
「じゃあ、年が近かったら、いてっ」頭を小突かれた。
「そんなの意味ないだろ。年の差が埋まることなんてないんだから」
「それは、そうだけど……」
「それだけか?」
「それだけって。大事なことだけど……」
「他には?」大地にグリグリと頭をなでられた。
「ない……」
「本当か?」
「うん」
「まあ、俺に言えないことなら、隼人に言えよ」
「わかってる」
「なら、よし」さらにグリグリとなでられた。
顔を洗ってからお嬢様の部屋に行け、と言われた。言われた通りに、お嬢様の部屋に向かった。部屋に入ると、テーブルにクッキーとジュースが準備されていた。
「黒羽、ここに座って」
お嬢様に促され、ソファーに座った。
「はい、あーん」隣に座ったお嬢様がクッキーを食べさせてくれた。心配そうな顔をしている。
「さっきはすみませんでした。もう、大丈夫です」
「本当? 何かしちゃってたら、言ってほしいんだけど」
「お嬢様も、大地も、悪くないです。僕が……、僕の機嫌が悪かっただけです」
「そうなの? なんだか元気がないよ?」
「大丈夫です。気にしないで……く…………」
(そうだ……)
「お嬢様がキスしてくれたら、元気になれます」なんとなく、思いつきでお願いしてみた。
「わかった」
「え?」
お嬢様は立ち上がると、僕と向かい合った。僕の顔を、両手で挟むように掴んで引き寄せると、額にキスをしてくれた。
「元気でた?」
「も、もう一回」
「それじゃあ……」
今度は、左の瞼にしてくれた。
「もう一回、いてっ」
唇ではなく、お嬢様の右手が額にとまっていた。
「ほどほど」
お嬢様はそう言ったが、額から右手を退けると、そこにキスをしてくれた。僕は額に触れながら、「はい」と頷いた。
「辛いときとか、ちゃんと教えてね」お嬢様が隣に座りながら、顔を覗き込んできた。
「お嬢様、大地のこと好きですか?」
「好きだよ」
お嬢様は顔色を変えることなく、平然と答えた。「隼人も黒羽もみんな好きだよ」と言いながら、クッキーを食べた。
クッキーとジュースを平らげてから食堂に向かった。食堂では、大地と隼人が同じようにクッキーを食べていた。お嬢様の部屋から下げてきたコップなどをテーブルに置き、隼人の隣に座った。お嬢様は僕の隣に座った。
「はい、黒羽」
隼人がクッキーを差し出してきた。口を開けて、それを食べた。隼人は目を細めて、逆の手で、僕の頭をなでた。
「ふふ。久しぶりに会ったから、甘えたくなっちゃったんですかねえ」
(甘えたくって……)
そんなつもりではなかったが、そう解釈されてしまったことに顔が赤くなった。
(とらないで……は、なかったかな)
もっと別の言い方があったのではないかと、さらに恥ずかしくなった。
お茶を飲みほした大地は、「帰る」と立ち上がった。支度をし、黒国丸を表庭に連れてきた。旦那様には、帰りがてら本邸に寄って挨拶していくそうだ。
「グルグルして!」お嬢様が大地に手を伸ばした。
「またかよ」
大地は、一瞬だけ僕を見てから、お嬢様をぶら下げて回った。それから、お嬢様の顔を見て笑ったあと、抱きよせた。「また遊びにくるから」と頭をなでた。お嬢様は、お腹に抱きついていた。大地に頭をポンポンと叩かれると、お嬢様は大地から離れ、手の甲で目の辺りを拭っていた。
「黒羽、ちょっとこい」
大地に腕を掴まれ引き寄せられた。隼人とお嬢様から少し離れ、二人に背を向け肩を組まれた。
「お嬢様のこと好きなのはわかるけど、あんまり思い詰めるなよ。何かあったら、隼人に相談な」
大地の顔を見て、頷いた。
「あと、隼人は……、俺も、か。お嬢様のこと好きだけど、黒羽の好きとは意味が違うからな。俺と隼人の好きは、俺たちが黒羽のことを好きなのと同じだから。勘違いするなよ」
頷くと、頭をグリグリとなでられた。
「隼人はすぐにお嬢様のこと可愛がるけど許してやれよ。本当に可愛がってるだけだからな。それに、あと少しだけだから……」
「あと少し……?」
「まあ、気にするな。とにかく、俺も隼人も、黒羽からお嬢様をとるつもりはないからな。ああ、でも、お嬢様が黒羽のことを嫌がったら、そのときはわかんないけど」
そんなことはあるはずがないと大地を睨んだ。目が合った大地は、ふっ、と笑った。
「俺たちがどうこうする前に、忠勝さんが手を打つか……。ま、気をつけろよ」肩をポンポンと叩かれた。
大地は隼人と少し話をしたあと、黒国丸に乗り、去っていった。隼人がしゃがみ込み、お嬢様の涙を拭いていた。大丈夫だからと逃げようとするお嬢様を、まあまあ、と掴まえてかまっていた。
僕はお嬢様のことを観察した。いつもしているが、大地の話題のときはより注意して観察した。話に反応して、髪の毛をふわりとさせることはなかった。
ただ、時折、少しだけ頬を染めてふわりとさせることがあった。
大地のことが好きか、と不意打ちで何回か聞いてみた。大地ばかりでは変かと思い、隼人や僕にしてみたりもした。誰のときでも、みんな好き、と平然と答えていた。
(恋じゃない? 気づいてないだけ?)
大地に恋をしているのか、わからなかった。でも、聞けなかった。聞いたことで、お嬢様がそのことに気づいてしまい、意識してしまうことが怖かった。
(僕に、恋してほしい。僕に、あの顔を向けてほしい)
今は、どれだけ顔を近づけても、僕にあの顔はしてくれない。照れることはあっても、あの顔とは少し違っていた。それに、そのときだけではなく、僕のことを思い描いてあの顔をしてほしい。
お嬢様が誰のことを好きになっても、絶対にそばにいる。その気持ちは今も変わらない。でも、お嬢様が誰かのことを好きになるということが、こんなにも苦しいことだとは思わなかった。
(かもしれないってだけなのに。胸が……)
できることなら僕のことを好きになって、僕のそばにいてほしい。
(できるなら、いや、絶対に振り向かせてみせる。でも、どうしたら……)
僕に恋をしてもらうには、どうしたらよいのだろうか。僕はもう何度もお嬢様のことを好きになっている。恋をしている。それなのに、どうしたらそういう好きになってもらえるのかは、わからなかった。




