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花菖蒲のほとり  作者: B星
第2章 ③ 別邸 9歳
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 058. 時と場合


 談話室の背もたれのあるソファーに座って、頭を抱えていた。体は、黒羽くろはに抱えられていた。抱きつかれていた。黒羽は隣に座り、私の横腹を抱えるような格好をしていた。


 黒羽からの質問の答えを考えていた。少しでも黒羽の役に立てるようなことを言いたかった。なかなか思い浮かばずに、抱きつかれたままになっていた。



 私は最近、本を眺めるていで読むことをやめた。


 父に辞書を買ってもらい、隼人はやとにひき方を教えてもらった。辞書を近くに置き、知らない漢字は調べながら読んでいることにした。実際、わからない言葉や漢字が出てきたときは調べている。

 これに伴い、黒羽に本を読んでもらうことが少なくなった。今は、並んでそれぞれ本を読んだり、黒羽が私の読んでいる本を横からのぞき込んで一緒に読むことが多い。


 今日も私が本を読もうとしていると、黒羽がやってきて隣に座った。黒羽に寄り添い、二人で読めるように本を開いた。

 数ページめくったところで腕が疲れてきた。


「うーん。疲れちゃった。交代」


「はやいですね」


「はやくない。お願い」


 疲れたら交代することにしている。黒羽に本を渡した。今度は私が、黒羽の持つ本をのぞき込んだ。


「はい。いいよ~」


 黒羽と私だと、黒羽のほうが読むペースが速い。私が本を持つ場合は、私のペースでめくる。黒羽が持つ場合は、私が読み終わったことを口頭で伝えている。


 面倒なことをしているとは思っている。しかし、黒羽がこうしたいというのでしている。

 はっきりと、面倒くさい、と伝えた。寝転がって読みたいときもある。でも黒羽は笑顔で、大丈夫、と繰り返し折れなかった。何が大丈夫なのかはわからなかったが、結局私が折れた。


「これって難しいですね」黒羽が呟いた。


「これって?」


「ひとりになりたいと逃げ出したが、本当は追いかけてきてほしかったって」


「そんなこともあるんじゃない?」


「そうですか?」


「はい、いいよ~。めくって」


 黒羽はページをめくるとしおりを挟み、本を閉じてソファーに置いた。


「どうしたの? トイレ? いってらっしゃ~い」


 黒羽が体を動かしたので、ソファーから立ち上がるのかと思いきや、抱きつかれた。


「ほどほど~。離れて~」


「本心ですか? 本当に嫌だって思ってますか? もしそうだとしたら、それってどうやって見分けたらいいんですか?」


「んん?」首をかしげた。


「離れてと言いつつ、離れてほしくないこともあるんですよね?」


「ああ、そういうこと。あるだろうけど。今は思ってないから、離れて」


「それも嘘かもしれないじゃないですか」


「も~。わざと言ってるでしょ」


「知りたいんです。教えてください」


「え~、どうして?」


「そういうことがあったときに、失敗しないようにですよ」


「う、うーん……」


 時と場合と、その相手によると思うが、そう答えても黒羽は納得しなさそうだ。もう一つ何かないだろうか、何か良い例はないかと思案した。


 しばらく抱きつかれたまま考え込んでみたが、何も思いつかなかった。


(難しい。やっぱり、時と場合によるとしか。あと、相手の性格……)


「それは、時とば――」

「時と場合とか。相手の性格とかはなしで」


 言葉をさえぎられた。しかも、言おうと思っていたことを、そのままかぶせられた。顔を横に向けて、黒羽のことをジトッとにらんだ。


「黒羽~。わざとでしょ! 離れて!」


「僕は真剣です。大問題なので」


「嘘。そんな風に思ってない」


「思ってます。お嬢様には僕の心が読めるんですか?」


「読めないけど。なんとなくだよ」


「それじゃ、ダメです」


 思いきり体を押し返して、ひたいを叩いてやろうかと思った。でも、黒羽の顔を見ていたら、押し返せなくなってしまった。


 いつもは抱きついているときは嬉しそうな顔をしている。ブスッとしていても嬉しそうな顔になる。それなのに、抱きついてきたときは嬉しそうだったのに、辛そうな顔になっていた。さらに、話しているうちに暗い表情に変わっていった。


 最近の黒羽は少しおかしいと思う。たまに私のことを悲しそうな顔で見ている。ニヤニヤすることが少なくなったような気がする。


「黒羽、言いたいことがあるなら言って」


「え?」


「最近の黒羽は変だよ? どうしたの? そうだよ、私は人の気持ちは読めないよ。だから、教えて」


「別に変じゃありませんよ。普通です」


 黒羽が抱きつくのをやめた。体が離れたので、体ごと黒羽のほうを向いた。


「普通じゃない」


「普通ですよ」


「普通じゃないよ」


「普通です……」


「絶対に普通じゃない。なんで? 私には言えないこと?」


「…………そういうわけではないです」


「なら、言ってよ。私が何かしちゃってたなら、教えてよ。この前、大地だいちが――」

「普通だって、言ってるじゃないですか!」


 大きな声を出した黒羽は、私のことを見てはいなかった。顔を背けて、下を向いていた。急に声を張ったからか、黒羽はケホケホと咳をした。


「……そ……そっか。ごめんね。しつこくしすぎちゃったね」


 辞書を持ち、ソファーから立ち上がった。黒羽がこちらを向いた。


「あ……、お嬢様……」


「本は部屋で読むね」


 黒羽の横に置いてあった本を手に取った。


「僕も……」


 私は首を横に振った。


「ひとりで読みたいの。先に借りるね。読み終わったら回すから」にこっと微笑んだ。


 振り返り、はや歩きで自室へと向かった。部屋に入り、辞書と本をテーブルの上に置いた。その横に置いてあったティッシュの箱から、五枚くらい抜き取った。


(間違っちゃった。聞き方が良くなかった。もっと、黒羽の気持ちを考えて聞かないと)


「ううっ、も~、私のバカっ」


 私が何かしたとしても、私には、私にだけは言いたくないことだってあるかもしれない。すでに隼人に相談済みなのかもしれない。もしかしたら、本当に普通だった可能性もある。黒羽の知りたいという要望を、私がふざけていると言ったから暗い顔をしたのかもしれない。

 黒羽の気持ちがこの中のどれかだったとしても、この中に正解がなかったとしても、黒羽が心配だからといって、私が気になるからといって、なんで教えてくれないんだと詰め寄るのは間違いだった。


(なんて、あさはか……)


 涙を拭いて、鼻をかんだ。ティッシュを丸め、新しいのを取ろうと箱に手を伸ばした。


 ガチャッ


 突然ドアが開いた。驚いてビクッとなった拍子でティッシュを一枚抜き取り、持っていた丸めたティッシュを落としてしまった。


 黒羽がドアのところに立っていた。私のことを見ると顔をしかめた。中に入ってきて、私の前に立った。ドアがバタンッと閉まった。


「な、なに――」


 おおいかぶさるように抱きしめられた。


「ごめんなさい! お嬢様」


「え、えっと」


「お嬢様は悪くないです。確かに普通ではありませんでした。でも、お嬢様には言えなくて。だからって、お嬢様を……こんな、……泣かせるなんて」


「私には言えないの?」


「はい。すみません」


「ううん。謝らなくていいよ。なんでもは言えないよね。みんな、そうだよ。私には言えなくても、辛かったら、隼人とかお父様とか、誰かをちゃんと頼ってね」


「はい」私の頭の横で、黒羽の顔が縦に動いた。


「良かった」


「良かった……ですか?」


「うん。黒羽が普通じゃないって思ったの、勘違いじゃなくて良かった。黒羽のこと、いつも見てるのに間違っちゃったかと思った。ちゃんと感じとれてて良かった~」


 黒羽の背中に手を回して、ギュッと抱きついた。


 普通じゃないと思った黒羽が、普通だったらどうしようと思っていた。毎日一緒にいて顔を合わせている。心の機微きびまでとはいかずとも、表情の変化くらいは感じとりたい。


(……あれ?)


「違うか。この場合は、勘違いのほうが良かったのか。そしたら、黒羽はなんでもなかったってことだもんね。あ~、私、また間違っちゃった。ごめんね、黒羽」


「お嬢様」


「なあに」


「僕、普通に戻れそうです」


「え? そうなの? なんで?」


 背中に回していた手を、黒羽の胸にあてて少し間を空け、顔を見上げた。目が合った。


「はい。六十パーセントくらい回復しました。お嬢様が僕のことを見ていてくれるから。三十パーセントは今から回復します。残りの十パーセントは、誰にもどうしようもできないことなので仕方がないです。そうですね、時間が解決してくれるかもしれません」


「そう、そうなんだ。ん? 今から?」


「ええ、今から」


 黒羽の腕が、私の腕の下から背中に回された。ふにっ、と柔らかいものが頬に触れた。思わず頬に手を添えた。


「仲直りのキスですよ」黒羽がにこっと微笑んだ。


「ちょっと! それは手でしょ」


「時と場合によります。お嬢様からも、はい、どうぞ」


「私は、手で」


 黒羽は横を向き、頬をこちらに向けた。それを拒否して、手にしようと思った。背中に回された手を取ろうとしているが、後ろでガッチリと組まれているのか外せない。外せないので、逃げることもできない。


「お嬢様、お願い。ほっぺじゃないと元気が出ません」


 私のことを見つめながら、黒羽はギュウッと抱きしめる腕に力を込めた。


「手でもいいでしょ」


「おでことかにしたことあるんだから、いいじゃないですか。お願いします、お嬢様」


「そうだけど……」


 黒羽はにこにこしている。目を輝かせている。絶対にしてもらう、という顔をしている。


(あの悲しそうな顔がなくなるならいいか)


「それじゃ……」


 黒羽の肩に手を置いて、少し背伸びをした。黒羽が横を向いたので、頬にキスをした。

 こちらを向いた黒羽の顔は、これでもかっていうくらいニヤニヤしていた。


「お嬢様、お返ししますね!」


 黒羽は片手で腰を抱くと、もう一方の手は頬に添えてきた。


「いや、いいよ。もう充分! お返しって。お返ししたのは、私でしょ。ちょ、ちょっとやめてよ! いいって言ってるのに!」


「本当に嫌がってるかわからないので。いいって、していいってことですよね」


「ち、違う。わかってるくせに!」


 黒羽が頬へのキスを繰り返してくる。ひたいと肩に手を置いて押し返しているが、敵わない。


「黒羽、ほどほど!」


 コンコン


「いい加減にし――」


 ガチャッ


「お嬢様。黒羽、ここに……」


 ドアが開いたことに驚いて、押し返す力をゆるめてしまった。黒羽はこの隙にと、ブチュッ、と頬にキスをした。私の顔が反対側に傾くほどの勢いだった。


 隼人は目を丸くしていた。その顔がゆっくり笑顔へと変わっていった。私を抱き寄せていた黒羽の腕に力が入った。隼人がいることに気づいて、ビクッとしたからだ。


「く~ろ~は~」隼人は笑顔のまま、黒羽のことをにらみつけている。


「こ、これは、仲直りをしているだけです!」


「どこが仲直りなんですか?」


 私たちの格好はどう見ても、嫌がっている私に、黒羽が無理やりキスしていたようにしか見えない。実際、そうなので仕方がない。


「仲直りですよ。ね、お嬢様!」


 肯定してほしいという思いが、黒羽の腕から伝わってくる。頬に添えられていた手は、肩に置かれていた。その手が私のことを揺すっている。


「仲直りだったよ。途中までは。隼人が見たのは、仲直りの最中さいちゅうじゃないよ」


「お、お嬢様! ひ、ひどい!」


「やめてって言ったときに、やめてくれたら良かったの!」


「そんなあ!」


「仲直りということでしたら、何か仕事を、と思いましたけど……」


 いつの間にか近くにきていた隼人が、私の肩に置かれていた黒羽の手を掴んだ。


「いっ! 痛い!」


 私の目には、ただ掴んでいるようにしか見えないが痛いらしい。痛みからか、腰に回されていた手も離れた。


「なんで口で言っただけでは、伝わらないんでしょうか? 大地さんも黒羽も。本当、二人には困ったものですねえ」


 黒羽は前屈まえかがみにさせられた。隼人の腕が、黒羽の背中側からひじのあたりに通された。隼人の腕を挟むように、腕をひねられている、と思う。どうなっているのか、私にはいまいちよくわからない。何かの技だということはわかる。肩と肘が痛そうだ。


 黒羽が苦しみもだえている。


「い、痛い、隼人! ぎ、ギブアップ! 無理、もう無理!」


「お嬢様がやめてって言っても、黒羽はやめないんですよね?」


「ご、ごめんなさい! 気をつける、気をつけるから!」


「そうですか? なら、いいんですけど」


 隼人が黒羽の腕を離した。黒羽は涙目になっている。


「うう……ケホッ、痛い……」


「私もこんなことしたくないんですけど」


「だったら、やらなきゃいいのに」黒羽がボソッと呟いた。


「は~。言っても聞かないんだから、状況次第では、やるしかないですよね。こちらとしては、やらされてるって感じなんですけどねえ。それとも、そろそろ旦那様じゃないとダメなんですか? 私では、わかってもらえないんでしょうか?」隼人は頬に手を添え、首を少し傾けた。


「そ、そんなことない! 充分、充分すぎる!」


「ふっ、ふふふ、あははっ」


 私が笑い始めると、二人はこちらを向いた。


「ホント、黒羽はりないよね。同じようなことで、隼人に何回怒られるんだろ。きっと、これからもずっと、こうやって怒られるんだろうね!」


(……えっ。なんで?)


 思いもよらなかった表情に、呆然とした。


 黒羽は技をかけられた方の腕をさすりながら、ひきつった顔をした。

 隼人は下唇をかんで、眉を八の字にした。


「さ、仲直りは済んだんですよね? 食堂にいきましょうか」隼人はにこっと微笑んだ。


「はい」黒羽は力なく応えた。


「お嬢様? どうしました?」


 ボーッと立ったまま動かない私のことを、ドアのところから隼人が不思議そうな表情で見ていた。


「なんでもない」


 隼人に駆け寄って抱きついた。隼人は、ふふ、と嬉しそうな顔をした。


(なんであんな顔したの?)


 後回しにするのはよくないと、ひな先生のときに体験してわかっていたはずなのに、すぐに聞けなかった。ちょうど、思ったことを聞いたことで、黒羽と喧嘩をしたところだった。尻込みしてしまった。


 後日、父からあることを告げられた。話を聞いて、そういうことだったのか、とすぐにわかった。悪いことではなかった。むしろ、良いことだった。でも、私は泣くことを我慢できなかった。


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