◆010. 円鏡湖
黒羽が、大地のゲンコツを食らってから数日後。私は玄関を出て、裏庭を目指していた。
「だいちー、いりゅー?」
「ああ。なんだ、一人で来たのか? 外に出るときは誰かと一緒にいろって言っただろ」
大地は、家屋の裏側にある馬小屋で、馬の世話をしていた。馬は一頭しかいない。湖月家の馬ではなく、大地個人の馬だ。
「にわは、まいごに、ならにゃい。だいじょうぶ」
「庭もダメ。誰かと一緒にいるようにしろ。知らない人には、絶対に近寄るなよ」
このセリフ、耳にタコができるくらい聞いた。家の中は、何をしていても、特に何も言われないのに、庭に出るときは「誰かといろ」「知らない人には近寄るな」と毎回言われる。
確かにここは周りに他の家がないので、迷子にでもなったら大変だろう。でも、庭から出るつもりは、今のところない。
(裏庭は広いけど、外に出なければ問題なさそうだし)
知らない人といっても、この家にいて知らない人に会ったことがない。誰かが訪ねてきたことも、記憶の限りはない。知らない人に『ついていくな』ではなく、『近寄るな』というのも不思議な感じがする。
(もしかして、子どもが連れ去られる伝承とかあるのかな?)
「こわっ」思わず、ぶるっと震えてしまう。
「なんだ? 寒いなら家の中に戻れよ。風邪引くぞ」
もうそろそろ十二月だ、涼しいというより寒くなってきた。でも、そういう震えではない。
「やだ。くろくにまりゅ、みりゅ」
黒国丸は、馬の名だ。暗い茶色の鹿毛で、美しい毛並みをしている。
大地は、黒国丸に鞍をつけている。今から、走らせに行くのだろう。見送ってから家の中に戻ろうかと思っていると、「乗ってみるか?」と持ちかけられた。
少し怖かったが、大地がいるから大丈夫だろうと挑戦してみることにした。大地が持ち上げて、鞍に座らせてくれた。
このまま、少しの間、カッポカッポと、大地が手綱を引いて歩かせてくれるのかと思ったら、違った。大地も馬に乗った。
「このまま、少し走らせるぞ」
(え? え? 走るの?)
困惑していると、遠くの方から「あっ」と言う声が聞こえてきた。黒羽が駆け寄ってくる。馬がいるので、ある程度の距離からは歩いていたが。
「お嬢様、大地さんと何やってるんですか!?」
「くろくにまりゅに、のっていましゅ」
後ろで大地が、「ぶっ」と吹き出した。
「そうじゃなくて、馬に二人で乗るなんて! そういうのは、僕と……えっと……」
黒羽は途中でハッとして、言い淀んだ。
「くろはが、うまにのれりゅように、なったりゃ、いっしょに、のしぇてね」
「う……、はい……」
「話はついたか?」
大地が私を上着の中に入れて、ジッパーを上げた。大地の胸元から顔だけ出ている状態だ。
馬が走り出したらずり落ちるのではないかと不安だったが、これなら大丈夫そうだ。しかも、暖かい。
黒羽を見ると、頬を膨らませていた。
「まー、時間はいつもと同じくらいかな。隼人に、お嬢様も一緒だって伝えといて」
「いつもよりは早く帰ってきてください」
「はいはい、いってきます」
「いってきましゅ」
カッポカッポと馬が歩き出した。「とりあえず、ここに掴まって、背筋伸ばして前見とけ」と簡単な説明を受けた。
「お嬢様、怪我はなどしないように! しっかり掴まって! 無事に帰って来てくださいよー!」
庭から出て、路上に出たあたりで、黒羽が心配そうに叫ぶ声が聞こえてきた。
初めての道に出た。屋敷から出たことはある。何度か父に買い物に連れていってもらった。そのときは、別の道だった。
黒国丸は、カッポカッポから、カッポカッポカッポカッポと小走り程度の速度で走っている。なかなか揺れる。
「大丈夫かー?」頭の上から声がする。
「ゆれりゅけど、へいきー」
「もう少し速くするか」
「しょれは、やめて」
「あはは」と愉快そうな声が聞こえた。
しばらく走ると整備された道から外れ、林の中の獣道のようなところに入った。木々の合間が、キラキラと光っている。
林を抜けたところで、黒国丸は減速し、ゆっくりと歩きだした。
「うわ~! うみ? みずうみ? ぬま? しゅごいね、おおきいね、きりぇいだね」
「湖だよ。湖月のコは、湖だろ」
(まあ、確かにそうだけど。自分の名前にあるから、これを湖と決めつけるのは……)
「忠勝さんは、この円鏡湖を含めた領地の領主だぞ」
「えっ?」
「うーん、この湖は、お嬢様のお父様のものってこと」
言葉が難しくて聞き返したと思った大地は、簡単に言い直してくれた。
(お父様って、領主なの?)
使用人がいて、『お嬢様』って呼ばれているから、お金持ちなんだろうと思ってはいたが。まさか、領主だったとは。
湖畔を少し進み、また林の中に入った。その先には、草原が広がっていて、そこで黒国丸からおりた。
黒国丸を草原に放した。黒国丸はゆっくりとその場を離れ、草原を自由に歩き出した。
大地は、ストレッチをしたり、スクワットをしたりしている。
「し、しゃくいとか、あったりしゅるの?」
「爵位とか、難しい言葉知ってんだな。男爵だよ」
(だ、男爵……、ですか。貴族ですか)
男爵は、確か、爵位の中では下位だったような気がする。公爵が、偉かったことしか覚えていない。前世の知識が薄い。貴族が出てくる小説を読んでも、偉いのね、程度でスルーしていた。
貴族の娘だと聞いても、変な感じだ。服装が普通だからだ。前世の記憶とたいして変わらない服を着ている。
(あ、でも……)
そう言われてみると、町に行ったときに、男女ともにヒラヒラした貴族っぽい服を着ている人を見たことがある。コスプレかと思っていたが、そうではなく、あれも一般的な服装なのかもしれない。
前世の知識や常識が、今の知識や常識と同じとは限らない。追々、知っていくことにしよう。
(気が向いたら調べるってことで……)
ヒュウッと風が通り抜けた。先ほどまで、大地の上着の中にいたので、余計に寒く感じた。
隣で動いてる大地の真似をして、体を動かすことにした。
なんとなく、とある体操をしてみた。「なんだそれ」と大地に笑われた。どうやら、ここにはこの体操はないらしい。
「からだにいい、たいしょうなの」
(久しぶりだけど、覚えてるものだなぁ)
普段散歩をしたりして運動はしているが、こういう風に体を動かしてはいなかった。今度、ストレッチを教えてもらおう。
私が体操をしている間、大地は私の正面にヤンキー座りをして、ニヤニヤしながらこちらを見ていた。
(またニヤニヤしてる)
近づいて、後ろに押してやった。思った以上に倒れなくて、結果的に私も一緒に倒れ、大地を下敷きにしてしまった。
「なにすんだよ」
体を起こし、大地のお腹の辺りに座った状態で見下ろした。
「たいきゃんが、よわいんじゃないでしゅか~?」
思いきりニヤニヤしてやった。
「なにを~」
ニカッと笑った大地は立ち上がり、私を後ろから羽交いじめにし持ち上げ、グルグルと回りだした。
(こ、これは!)
「きゃーっ、あははははは!!」
(楽しいっ!)
ある程度回ったところで、地面におろされた。
「うでに、ぶらしゃがりたいっ」
大地の片腕にぶら下がった。その後も、ぶら下がり方を変えて、何度も回ってもらった。
「ブルルルルルルッ」
黒国丸が鼻を鳴らした。いつの間にか、近くに来ていた。
「そろそろ帰るか」
大地が、黒国丸の首の辺りをポンポンと叩いた。
来たとき同様、大地の上着にスッポリ収まって、帰路についた。




