第9話 音のない世界、戻れない日常
昨夜の冷え切ったリビングから逃げるように自分の部屋に閉じこもり、一睡もできないまま朝を迎えた。 母の淡々とした通告――
「明日、その施設に行って関係を断ちさい。できなければ、もうこの家にはいられない」という言葉が、頭の中で壊れたレコードのように何度も繰り返されている。
どうするべきか。答えなんて出るはずもない。 思考停止したまま大学へ向かった俺を待っていたのは、いつもの友人たちだった。
「お、太陽! お前昨日のゼミの課題やったか?」
「マジで意味フだったよな、気分転換にこの後カラオケでも行こうぜ!」
キャンパスの廊下で、いつもと変わらない調子で肩を組んでくる友人たち。 彼らの明るい声や、他愛のない冗談は、昨日の今までなら何の違和感もなく笑い飛ばせる日常だったはずだ。
「……あはは、そうだな。行こうぜ、カラオケ」
引きつるのを必死で抑えながら、俺はいつもの「陽キャ」の仮面を貼り付けた。 授業が終わると、そのまま数人で駅前のカラオケボックスへと流れ込んだ。狭い部屋に響き渡る高音の歌声、タンバリンの音、誰かの下世話な恋愛トーク、そしてスマホゲームの画面。
ドンチャン騒ぎの真ん中で、俺はマイクを握り、わざと大きな声で合いの手を入れた。 笑って、ふざけて、周りに同調する。いつも通りの、どこにでもいる大学生のワンシーン。
――なのに。
(……なんで、こんなにうるさいんだ)
胸の奥で、冷たい違和感が広がっていく。 目の前で楽しそうに笑っている友だちの顔が、どこか遠い世界の出来事のように見える。彼らの言葉が、水槽の底から響いてくるみたいにボヤけて聞こえる。 歌声が響く部屋の空気が、やけに薄くて息苦しい。
ふと、スマホの画面に目を落とした。 検索履歴に残る「里親制度」「児童養護施設」。そして脳裏によぎるのは、夕暮れの公園で人形を抱え、小さなジュースを大切そうに飲んでいた結月の横顔だ。
(俺は、何をしてるんだ……?)
母親に言われた「偽善」「ヒーローごっこ」という言葉が、泥のように心の底に沈澱している。 逃げ込むようにいつもの日常に戻ってきたはずなのに、いざその世界に身を置いてみると、かつて居心地がよかったはずの場所が、今はどうしようもなく空っぽで、居心地が悪くて仕方なかった。
どれだけ笑っても、どれだけ大声を出しても、心臓のあたりにポッカリと空いた穴は埋まらない。 それどころか、気づいてしまったのだ。
――俺はもう、あの「何も考えずにヘラヘラ生きていた自分」には、二度と戻れない。
「おい太陽、お前の番だぞ! 何歌うんだよ?」
「あ……、ごめん、ちょっとトイレ」
友人たちの怪訝な視線を背中で受けながら、俺は逃げるようにカラオケルームの扉を開け、薄暗い廊下へと飛び出した。 冷たい洗面台の鏡に映る自分の顔は、いつもの笑みを貼り付けたまま、酷く青ざめて歪んでいた。
ここにいても、もう息が詰まるだけだ。 画面を見つめたまま、震える指でグループチャットに「急用ができた、先帰るわ」と短いメッセージを打ち込み、送信ボタンを押す。友人からの「え、マジ?」「お疲れ!」のスタンプが画面の隅で跳ねたが、もうそれを読もうとは思わなかった。
スマートフォンの画面をポケットに押し込み、俺はカラオケボックスを飛び出した。
向かう先なんて、決まっている。 母の言葉から、現実から、そして自分の臆病さから逃げるように、俺は自分の足でひまわり児童養護施設の方角へと走り出していた。
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