第8話 剥がれる仮面、母の叫び
リビングのドアを開けた瞬間、ただならぬ冷気が肌を刺した。 ダイニングテーブルの明かりだけが煌々とつき、そこには母・美佐子が腕を組んで座っていた。その前には、先日俺がゴミ箱に捨てたはずの「里子・里親制度」のパンフレットが無惨に広げられている。
――血の気が引く音がした。
「……母さん」
「よくもまあ、平然と顔を出せたものね、太陽」
母の声は怒鳴るようなことはしなかった。だからこそ、凍てつくように冷たかった。 すたすたと歩み寄ってきた母の手には、さらに何枚かの紙――
恐らく、慣れないインターネットで調べたであろう「息子 隠し子」「隠し子 養育費」と書かれたメモの切れ端だった
「あんた……一体、外で何をやらかしてきたの!」
「え……?」
「とぼけないでよ!!」
ガチャン、と母がテーブルを叩いた。その鋭い音に、キッチンにいた父親が慌てて顔を出すが、母の鬼気迫る気迫に押されて一歩も動けないでいる。
「あんたね!学生の身分で、どこかの女に子どもでも産ませたって言うの!? それを隠しきれなくなって、あんな施設に預けようなんて考えてたの――!!」
「――は……!? っ、違う、違うんだよ母さん!」
あまりに斜め上、かつ最悪の方向に誤解した母の剣幕に、俺は慌てて両手を振って否定した。
「違うって何が違うのよ! じゃあなんであんたの部屋から児童福祉や養育のパンフレットが出てくるのよ!どーせ最初は隠しきれるとか考えてたんでしょ!施設に入れたら責任がなくなるとでも思ったわけ!?」
「いっさいそんなんじゃない! 俺が子供を作ったわけじゃない、あの子は、ただの……!」
喉まで出かかった「見ず知らずの、公園で出会った子なんだ」という言葉が、なぜか途中で詰まった。 それを言ってしまったら、母は「赤の他人のために何やってるの」とさらに呆れるか、あるいはもっと冷酷に切り捨てるだろう。けれど、赤の他人だからこそ、これほどまでに必死になっている自分の歪みも自覚していた。
「……言葉に詰まるじゃない。図星だからよ」
母は冷え切った目で俺を睨みつけ、吐き捨てるように言った。
「遊び半分でそんな無責任な真似をして……自分の将来もまともに決まってない人間が、命を背負えるわけないでしょ! お金はどうするの、生活は、責任は! あんたはただの無責任で、自分が『いい人』でありたいだけの『偽善』で動いてるだけじゃない!」
「――っ!」
図星を刺されたような痛みが、胸の奥を抉った。 「偽善」「無責任」。母の言葉は、たとえ「隠し子」という勘違いだったとしても、核心を突いていた。
(違う……! 俺はただ、あの子のあの目を……!)
反論しようと喉まで出かかった言葉が、悔しさと無力感で詰まる。頭の中が真っ白になり、足元がぐらりと揺らいだ。 要領よく、波風を立てずに、周りの期待に応える「優等生」の仮面をかぶってここまで生きてきた。自分の人生なのに、どこか他人事で、ずっと心の底が冷たくて空っぽだった。
――だからだ。
「……俺は、」
気づけば、声が震いていた。 リビングの重苦しい空気の中で、俺は自分の胸の奥底から這い上がる、ドロドロとした本音を吐き出していた。
「そのパンフレットの施設にいるのは……公園で出会った、血のつながりもない、たった一人の女の子なんだ…」
「……は?」
母が、俺の予想外の告白に怪訝に眉をひそめる。
「親に捨てられて、誰も頼る人がいなくて、あの冷たい施設の隅っこでずっと一人で怯えてる小さな子なんだよ……! 俺は、その子を……結月を、俺の手で引き取って、家族になりたいんだ!」
リビングの空気が凍りついた。 母だけでなく、キッチンの隅で息を潜めていた父までもが、信じられないものを見る目で俺を見つめている。
「……正気なの、あんた……」
母の声音から怒りが消え、代わりに底知れない冷たさと、我が子に対する恐怖のようなものが滲んだ。
「血のつながりもない、名前すら最近知ったばかりの他人の子どもを、学生の身分のあんたが引き取るだなんて……そんなの、綺麗事じゃ済まないでしょ! 何でそんな、自分を犠牲にしてまで赤の他人のために必死になれるわけ!?」
「……っ、分かってるよそんなこと!」
怒鳴り返す俺の声は、自分でも驚くほど震えていた。
「頭では分かってる! 自分に経済力がないことも、法律の壁がどれだけ高いかも、そんなのこの数日で嫌ってほど思い知らされたよ! それでも……!」
視界が熱くなり、胸の奥底に蓋をしていたものが、一気にあふれ出しそうになる。
「俺は、あの子を見てると怖かったんだよ……!」
「……何を言ってるの、一体……」
「誰にも必要とされず、世界から切り離されて、笑い方も忘れたみたいにあそこでぽつんと座ってるあの子が……昔の俺自身に見えたんだよ!」
周りの期待に応え、レールの上を器用に歩くだけで、自分の人生を生きている実感なんて一度もなかった。いつもどこか冷めていて、笑っていても心の底は空っぽだった。 あの夕方の公園で、クマの人形を抱えて一人で震えていた結月の小さな背中を見たとき、俺は雷に打たれたような衝撃を受けたのだ。
――あの子を救えないなら、俺がこれまで生きてきた空っぽの人生の意味なんて、どこにもない。
「自分の満たされない孤独や焦りを、他人の子どもをダシにして埋めようとしてるだけじゃないかって……母さんに言われて気付かされたよ… 偽善だって言われたら、一言も言い返せない! でも……!」
涙をこらえながら、俺は絞り出すように叫んだ。
「あの子が初めて俺の前で見せた、あの小さな笑顔を見たとき、俺は決めたんだ。あの手を引いて、温かいご飯を食べさせて、明日が来るのを怯えなくていい場所を……俺が、この手でこの子に作ってやりたいんだよ!」
「……っ!」
母は息を呑み、そして、我が子の歪んだ、けれどあまりに切実な執着を目の当たりにして、深い絶望と怒りが入り混じったような顔で首を横に振った。
「……なにそれ…あんたヒーローにでもなったつもり?道端で捨て犬や捨て猫を拾ってきて『かわいそうだから家で飼います』っていうのとは、わけが違うの。その子には戸籍があって、過去があって、背負っている傷があるの。そんな人の人生を丸ごと引き受けるってことがどういうことか……あんた、分かってて言ってるの? いい加減、耳当たりのいい綺麗事でヒーローごっこするの止めなさい。大人になりなさい……太陽」
母の言葉は間違いなく正論だった
静寂に包まれ時が止まったかの様なリビングで、秒針の音だけが静かに時を刻んでいた
「……明日、その施設に行ってその子との関係を断ちなさい。……できなければ、もうこの家にはいられないと思いなさい」
それだけ言い残すと、美佐子は背中を向け、音を立てて自室の扉を閉ざした。 取り残されたリビングで、俺はその場に膝から崩れ落ちた。
窓の外では、夜になってもアスファルトの熱気が生温い風に煽られて不気味に揺らめいている。まとわりつくような残暑の空気とは裏腹に、胸の奥にあったはずの熱だけが、音もなく冷めきっていくのが分かった。
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