第14話 それぞれの夕暮れ、動きだす時間
数日後。 美佐子は再び、あのひまわり児童養護施設の近くに足を運んでいた。 先日の公園で結月の言葉を聞いて以来、どこか胸の奥がざわついて仕方がなかったのだ。息子がこれほどまでに執着し、あの子もまた太陽を「大切の人」と呼んだ。その真偽を、もう一度自分の目で確かめたかったのかもしれない。
施設の敷地が見える少し離れた木陰から、美佐子はそっと目を凝らした。
夕暮れの光の中、ベンチに腰掛ける太陽の姿があった。その隣には、クマの人形を抱えた結月がちょこんと座っている。 かつてのように感情的に突っ走るのではなく、太陽は穏やかな笑みを浮かべながら、結月に何か話しかけている。結月もまた、少しだけ緊張を解いた様子で、小さくうなずきながらその言葉に耳を傾けていた。
その空気感は、かつて美佐子が恐れていた「無責任な遊び半分」や「大人のエゴ」などではなく、紛れもなく、不器用ながらも温かな「家族の原風景」そのものだった。
――……。
美佐子はそれ以上近づくことはせず、静かに息をつくと、車へと引き返した。 表情を変えず、ただ前をまっすぐに見据えたまま、彼女はハンドルを握る。その胸中がどう動いたのかを語る言葉は、まだ誰にも明かされない。
同じ頃、公園のベンチ。
今日も俺たちは並んで座り、自販機で買った紙パックのジュースにストローを差していた。
「ねえ、お兄ちゃん」
結月はジュースのパックを両手で包み込んだまま、ぽつりと切り出した。
「ん? どうした?」
「……あのね。今日、施設のお姉さんに『最近、よくお勉強頑張ってるね』って言われたの」
「おっ、すげえじゃん。偉いな」
「うん……あのね、お兄ちゃんが『少しずつでいいから、学校の勉強もちゃんとやっとけよ。いざってとき困るからさ』って言ったから……だから、がんばったの」
結月は少し誇らしげに、けれど照れくさそうに視線を足元に向けた。 あの日、ただ怯えてうつむくだけだった少女が、誰かに褒められたことを嬉しそうに俺に報告してくれる。その小さな変化が、なんだか自分のことのように嬉しかった。
「そっか。結月が頑張ったからだよ。……えらいえらい」
俺が少し大げさに頭をポンポンと軽く叩くと、結月は少し頬を膨らませつつも、どこか嬉しそうに小さくフッと笑った。
その横顔には、出会った頃の影が嘘のように消えていて、ただの穏やかな時間が流れていた。
「じゃあ、そろそろ戻るか」
「うん……また、来る?」
「当たり前だろ。すぐにまた顔出しに来るから」
俺がそう言って笑うと、結月はふっと柔らかく目を細め、小さくうなずいた。 その頭を優しく撫でてから、俺は施設のエントランスまで結月を見送り、自分の家路についた。
母とのあの激しい修羅場から、もうすぐ一週間が経つ。 相変わらず家の中の空気は冷たく、母からあのときの言葉が撤回される気配もない。けれど、今の俺には不思議と迷いがなかった。 父の言葉を胸に刻み、大学の講義が終わればバイトに励み、そして夕方は結ルのもとへ通う。そんな「自分の足でしっかりと立つための毎日」を、俺は一歩ずつ歩み始めていた。
――いつかきっと、胸を張って「この子の家族になる」と言える日が来る。
冷たい夜風を感じながら、俺はポケットの中でしっかりと拳を握りしめた。
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