第13話 母の視線、繋がる想い
美佐子は、自分の直感を信じる人間だった。
長年、家庭という小さな社会をきっちり切り盛りし、夫を支え、息子の太陽を育て上げてきた。世の中には理不尽なことも多いけれど、ちゃんとした手順を踏み、常識を守って生きていれば、人生の軌道から大きく外れたこともない――
それが彼女のプライドであり、生き方でもあった。
だからこそ、あの日、太陽の部屋から見つかった「里親制度」のパンフレットには心底肝を冷やしたし、その後の太陽のうわついた様子には不安と怒りが収まらなかった。
「……あの子、本当にどうかしちゃったのかしら……まったく…」
リビングのソファで、美佐子はコーヒーカップを置きながら小さく息をついた。
あの激しい言い争いのあと、太陽は以前のような軽薄な調子こそ消えたものの、どこか吹っ切れたような、真剣な目を向けて家を出るようになった。バイトを増やし、帰ってくると机に向かって何か難しい本を読んでいる。
――本当に目が覚めて、普通の学生に戻ったのならいい。
頭ではそう思いながらも、美佐子の胸の奥には、妙なざわつきが消えずに残っていた。 あいつは本当に、あの無謀な考えを諦めたのだろうか。それとも、まだ見えないところで何かを抱え込んでいるのではないか――。
確かめなければ気が済まない。 休日、美佐子はふと思い立ち、普段は足を踏み入れない街へと車を走らせた。それは、息子への不信感からというよりも、母親としての言い知れない予感のようなものに背中を押されてのことだった。
美佐子が車を停めたのは、ひまわり児童養護施設から少し離れた、静かな住宅街の近くにある小さな公園だった。 息子の足取りを確かめるわけではないが、なぜかあの施設やその周辺の空気が気になって仕方がなかったのだ。
公園のベンチの脇を通りかかったとき、美佐子の足がピタリと止まった。
(……あの子は)
すり減った小さなスニーカー、そして何より、ボロボロにくたびれたクマの人形をぎゅっと胸に抱え込んだ小さな女の子が、ベンチの端に一人でポツンと座っていた。
見覚えがあるわけではないが、以前太陽の部屋で見た資料や、あのとき息子の口から聞いた特徴と重なる。ひまわり児童養護施設の子だ。
美佐子はそのまま通り過ぎることができず、スッとその女の子の前に歩み寄り、少し離れたベンチの端にそっと腰を下ろした。
「ねえ。一人なの?」
声をかけられた少女――結月は、びくりと激しく肩を震わせ、恐る恐る顔を上げた。 潤んだ大きな瞳には警戒の色があったが、美佐子の穏やかな顔を見て、少しだけ強張りが解けた。
「……ううん。お散歩……」
結月の小さな声を聞き、美佐子はホッと息をつきながらも、どこか切なさを覚えた。 施設の子どもたちは、こうして一人で静かに過ごすことが多いのだろうか。ふと、この子のために人生を狂わせそうになっていた息子の姿が頭をよぎる。
「一人で寂しくないの?」
「……さびしくない。おにいちゃんが、くるから」
「お兄ちゃん?」
美佐子が聞き返すと、結月は嬉しそうに、けれど少しだけ誇らしげに、抱えていたクマの人形をギュッと抱きしめた。
「うん。やさしいおにいちゃん。いっしょにジュースのんでくれたの。『また来るね』って、やくそくしたもん」
その「お兄ちゃん」が誰を指しているのか、美佐子にはすぐに分かった。 息子・太陽だ。
驚きで言葉を失う美佐子の前で、結月は遠くの空を見つめながら、ぽつりと言った。
「おにいちゃん、かっこいいんだよ。わたしの……大切の人、だから」
――「私の、大切の人、だから」
まだ幼い少女が、まっすぐな瞳でそう呟いた。 血のつながりも何もない、遊び半分だと思い込んでいた相手から、そんな言葉が出てくるとは思っていなかった。 息子の太陽が、あんなにも必死になって、生活や将来を投げ出してまで守ろうとした相手。そして、この小さな子にとっても、太陽がどれほどかけがえのない存在になっているのか。
美佐子は胸を突かれたように息を呑み、言葉を失ったまま、目の前の小さな少女の横顔を見つめ続けることしかできなかった。
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