1.嵐の前触れと備え
ウィルブスの町はいっそう灰色がかっていた。
長雨のためである。石造りの壁や道は黒艶を帯びて、表面の窪みに溜まった雨水が空明かりを写している。
町に流れる川は泥水に濁り、白い筋を見せて激しく波打つ。霧も濃さを増して、作業が出来ない絵描きや職人たちは、これらを眺めながらカフェに居着くのが日常となっていた。
「本当に雨が多いなここ」
エルマたちが帰還してから一ヶ月。
不作の原因となった雨は今年も続き、小麦の収穫量は今年も期待出来ない見通しのようだ。しかし一部地域は違っているらしく、食糧の問題はひとまず落ち着くだろうとのこと。
教室は湿気にじめじめとしている。
そのせいか気だるく、椅子や机にもたれかかる生徒たちで溢れていた。
「髪の毛のセットが大変で、本当に嫌になるであります」
「女ってのは大変だな」
「……エルマさんもそうでありますよね?」
「オレは髪なんて気にしたこともねえよ」
エルマの髪質は堅くて太い。
この雨と湿気でボサボサ具合がいっそう酷いが、からからと笑って気にしていなかった。
「そこまで潔いと逆に羨ましいであります」
「人の目を気にしちゃ何も出来ねえからな。孤児なんか世間から白い目を向けられっぱなしだ、下を向いたら川にドボンだよ」
「難儀な立場でありますな」
「だから宗教が人さらいするんだろうけどな」
ソフィアの村での一件に触れて言う。
するとクロエも静かに頷いた。
「それは、普通に暮らしていても同じでありますよ。むしろ普通であろうとするほど悩みは多い」
「家と食うもんがあって悩むのか。贅沢な問題だぜまったく……」
「宗教を信じるのは人間だけでありますよ」
エルマは人が差し伸べる手など何一つ信用しなかった。
野良犬のように生きてきた目には、彼らが誰一人と救われているようには見えなかったからだ。
救いを喧伝する者も『酒の臭いがしない酔っ払い』だった。
誰もがポケットの小銭をじゃらじゃら鳴らし、同じ言葉を繰り返しながら、同じ道をぐるぐる回っている。
宗教と言えば……。
エルマは思い出して、クロエに訊ねた。
「今さらだけど、ソフィアにやらせたのってよそ国の神様だろ? 悪魔とか呼ばせていいのか」
「宗教ではよくありますよ。よその神は自分たちの悪神であったり、姿形が似ているからというだけで同一にしたり」
「ならいっそ、守り神にでもしちまうか」
村での騒動が片付いてからも、近隣では“多腕の悪鬼”の噂が絶えなかったらしい。
教会を避けるのに『うちにも現れた』と嘘をついたのがおり、それが思いのほか効果を見せたことから、領内のいたる所で目撃情報が出たと言う。
領内の教会は、元から北方教会に属していたわけではない。
彼らは畏怖と影響力を派遣する尖兵に過ぎず、『司教が悪魔に畏れをなして逃げた』その事実は、彼らへの服従を拒む理由に充分だろう。
窓を叩く雨粒が大きくなった。
やがて激しい音へとなり、ガラスが水膜に覆われて滲みだす。その向こうでは黒い雲が空を覆い、ひゅうと風のうねりがたなびいていた。
「風も出てきているでありますな」
「時期的に台風もありえるか。学校休みになったらいいのにな」
「恐らく、今日の授業は取りやめになると思うであります」
「マジか! よし!」
「ただ……それに備えた労働があるかも」
「労働? ああ、土嚢づくりとかか」
エルマは腕が鳴るのを覚えた。
嵐の日はいつもテンションが上がる。土嚢を作ったり、浸水に備えた塁壁を積んだり、蝋燭やランプに非常食を用意して、荒れ狂う風の音を夜通し聞いていた。
「あとは毛布とかも」
「おお、そうだな。怖がりが毛布にくるまってんのも面白いんだ」
「……何の話でありますか?」
「何がだ?」
噛み合わぬ会話に、しばらく沈黙が落ちる。
「嵐が楽しみって話だろ?」
「避難所の準備の話であります」
「避難所?」
「川下や川辺に住む町の人が、ここに避難を求めてくる可能性が」
「うへっ……そうか、ここ頑丈そうだもんな」
クロエの言う通り、その日の授業は取りやめとなった。
嵐の規模は大きいのだろう。生徒総出で行う備えは必要最低限の数ではなく、過剰と言ってもいい量であった。
「縫い目は内側に、土は7割ほど。袋の口はねじって下に織り敷いて、隙間がないよう交互に……塹壕や築城の土嚢積みは親から徹底して仕込まれたであります。懐かしくもあり、思い出したくない地獄でもあり、ああ、ブートキャンプ……」
「諜報員なのにか?」
「ノン。妾腹の娘であります、はい」
倉庫や食堂には備えが壁のようにそびえる。
これだけあれば、多少の雨風ではびくともしないだろう。
「毛布の量とか300は越えてるけど、そんだけ来る見通しってことかよ……対応だけでゾッとすんな」
エルマが言うと、クロエはくすくすと笑いだした。
「何だよ」
「すみません、ふふ……まさかエルマさんが、メイド目線で勘定するとはと思っただけであります」
「お、オレだって、いつまでも嫌々してねえっつの!」
顔を赤くするエルマは、ふんと腕を組んでそっぽを向いた。
「前に運河と停泊所があるとは言え、ここは水が氾濫しても最後まで建っているでありますよ」
「おいおい、縁起でも無いこと言うなよ」
「何事も最悪のケースは想定しておくべきであります。ここの水門などは古くありますし、決壊すると濁流がどこまでの規模になるか」
「最悪か……そいや、あいつらガキンチョどもは大丈夫かな。迷わず避難してくれればいいけど……ちょっと行ってくっか」
「場所は分かるのでありますか?」
「オレも元は孤児だぞ」
メイドになりつつあろうと、野良犬の鼻はまだ衰えていない。
エルマは食堂から非常食のクッキーを何枚かかっぱらって、孤児たちを探しに学校を出た。




