第9話
定時の17時。
今日も千尋は予定どおり仕事を終えた。
「お先に失礼します。」
「お疲れさま。」
課内へ頭を下げ、会社を出る。
ビジターゲームの日は現地へは行けない。
その代わり、急いで帰って配信で試合を見る。
それが千尋のいつものビジターの日常だった。
一方、皓太郎もほぼ同じ時間に情報システム部を出る。
会社のエントランスへ向かくと、少し先に千尋の姿が見えた。
リュックを肩に掛け、軽い足取りで駅へ向かっている。
声を掛けようか。
少し迷う。
でも同じ方向だから、不自然でもない。
「あの、小山さん。」
千尋が振り返る。
「あ、広野さん。」
「お疲れさまです。」
「お疲れさまです。」
自然と並んで歩き始める。
「今日は急いで帰るんです。」
千尋が笑う。
「試合ですよね。」
「はい!」
嬉しそうに返事をする。
「今日はビジターなので現地には行けませんけど、配信で応援します。」
「毎試合見るんですか?」
「見られる試合は全部ですね。」
「すごいですね。」
「生活の一部ですから。」
その言葉を聞いて、皓太郎は少し笑う。
本当にその通りなんだ。
駅へ向かう歩道は、仕事帰りの人で少し混み始めていた。
横断歩道の信号が青へ変わる。
人の流れに合わせて歩き出した、その時だった。
後ろから足早に歩いてきた男性が、千尋の肩へぶつかりそうになる。
「危ない。」
考えるより先に体が動いていた。
皓太郎は千尋の腕をそっとつかみ、自分の方へ引き寄せる。
「あっ……。」
二人の距離が、一気に近くなった。
千尋の肩が皓太郎の胸元に倒れる。
ふわりとシャンプーの優しい香りがした。
「すみません。」
ぶつかりそうになった男性はそのまま歩いていく。
「あ……。」
皓太郎は我に返り、慌てて手を離した。
「す、すみません。」
「え?」
「腕……。」
千尋は一瞬だけ驚いたあと、ふわっと笑った。
「助けてくれたんですよね?」
「……はい。」
「ありがとうございます。」
その笑顔に、胸がどくりと鳴る。
なんだろう。
さっきから心臓がおかしい。
少し腕をつかんだだけ。
それなのに、触れた感触がまだ残っている気がする。
「広野さん?」
「はい。」
「本当に優しいですね。」
照れくさそうに笑う千尋。
皓太郎は何と返せばいいのか分からず、小さく首を振った。
「そんなことないです。」
「ありますよ。」
そう言って笑う千尋の横顔を見ていると、自然と口元が緩んでしまう。
駅へ着き、改札の前で足を止める。
「じゃあ、また明日。」
「はい。」
「あっ。」
千尋が思い出したように振り返る。
「今日の試合、明日の朝また報告しますね。」
「……はい。」
「楽しみにしててください。」
そう言って笑いながら改札を抜けていく。
その姿が見えなくなるまで、皓太郎はぼんやり見送っていた。
18時。
試合速報を開く。
画面を見て思い浮かんだのは、レッドフェニックスのスタメンではなかった。
「今日の試合、明日の朝また報告しますね。」
そう笑った千尋の顔だった。
皓太郎は小さく笑う。
(今日は勝ってほしいな。)




