第8話
火曜日。
8時。
さくらコーポレーションの業務が始まる。
千尋は、朝から請求書の確認に追われていた。
「野村くん、このデータできたら私にも共有してもらえる?」
「はい!」
「ありがとう。」
穏やかに笑いながら仕事を進める。
昨日は試合がなかったぶん、今日は少しだけ仕事が立て込んでいた。
それでも、どこか機嫌がいい。
今日からビジター3連戦。
現地へは行けないけれど、試合は配信で見る予定だ。
定時までに仕事を終わらせて、18時には家に帰る。
そのためにも、朝から集中して片付ける。
一方、情報システム部では皓太郎がパソコンの設定変更に追われていた。
「広野、この資料、午前中までにお願い。」
「はい。」
返事をしながら作業を進める。
けれど、ふと時計を見るたびに思い浮かぶのは、今日の試合開始時刻だった。
(18時からだったよな。)
以前なら、野球の開始時間なんて気にしたこともない。
それなのに今日は、自然と頭に浮かんでくる。
昼休み。
社員食堂で一人席に座る。
スマートフォンを開くと、無意識にレッドフェニックスの試合日程を確認していた。
「今日から3連戦か。」
相手は首位を走る強豪、ブルーウェーブス。
簡単な試合にはならないだろう。
そんなことまで考えている自分に、少しだけ苦笑する。
(完全に影響されてるな。)
その時だった。
「あれ、広野さん。」
聞き慣れた声に顔を上げる。
トレーを持った千尋が立っていた。
「ここ、いいですか?」
「もちろんです。」
向かいに座った千尋は、「いただきます」と手を合わせて食べ始める。
しばらくは他愛もない仕事の話。
新しく入った後輩のこと。
経費システムのこと。
静かな昼休みが流れていく。
不意に千尋が笑った。
「今日は試合の日なんですよ。」
「知ってます。」
その一言に、千尋の箸が止まった。
「……知ってるんですか?」
「あ。」
しまった。
思わず口にしてしまった。
「えっと……。」
皓太郎は少し照れたように頭をかく。
「今、日程を見ていたので。」
「えっ。」
千尋は思わず笑ってしまった。
「日程まで見るようになったんですか?」
「少しだけです。」
また、その言葉だった。
"少しだけ"
けれど、その少しだけが嬉しい。
「広野さん。」
「はい。」
「野球、嫌いじゃなかったですか?」
「もともと嫌いではないですよ。」
少し考えてから答える。
「好きになったかもしれないです。」
その答えを聞いた瞬間。
千尋の笑顔がふわっと柔らかくなった。
「よかった。」
それは大げさな喜びではない。
自分の好きなものを、少しだけ好きになってくれた。
それだけで十分嬉しい。
皓太郎は、その笑顔から目を離せなかった。
会社ではいつも落ち着いていて、誰にでも優しい小山さん。
球場では少年みたいに目を輝かせる小山さん。
そして今、自分へ向けて笑ってくれている小山さん。
どの笑顔も違う。
でも、どれも自然で。
どれも、きれいだった。
「広野さん?」
「……はい。」
「どうかしました?」
「あ、いえ。」
慌てて視線をそらす。
なんだろう。
さっきから少しだけ胸が落ち着かない。
小山さんと話しているだけなのに。
笑っている顔を見るだけなのに。
それだけで、こんなに嬉しくなるなんて。
理由は、まだ分からなかった。
「あ、もうこんな時間。」
「午後も頑張りましょう。」
「はい。」
二人は食器を返却し、それぞれの部署へ戻っていく。
経営管理課へ向かう千尋の後ろ姿を、皓太郎はほんの少しだけ目で追った。
その姿が見えなくなってから、自分も歩き出す。
(今日も勝つといいな。小山さんがご機嫌であってほしい。)




