第4話
「始まりましたね。」
千尋はビールを置き、自然とグラウンドへ視線を向けた。
さっきまで柔らかかった表情が、少しだけ真剣になる。
「はい。」
皓太郎もグラウンドを見つめる。
今日は苦手な大阪トラーズ。
山下が大きく振りかぶる。
ミットへ吸い込まれるようにボールが収まった。
テレビでは何度か見たことがある。
けれど、目の前で見る球は、想像よりずっと速かった。
「すごい速さですね。」
「球場だと全然違いますよね。」
千尋は嬉しそうに笑う。
山下が投げ込んだ3球目。
バッターのバットが空を切る。
球審の右手が勢いよく上がる。
「よしっ!」
千尋が小さく拳を握る。
「今のでアウトですか?」
「はい、三振です。」
「空振りしたらアウトなんですね。」
「3ストライクでアウトになります。」
説明は短い。
聞かれたことだけ答える。
それが心地よかった。
2回表。
先頭打者がヒットで出塁する。
「あっ。」
千尋が小さく声を漏らした。
「まずいですか?」
「ノーアウトでランナーが出ると、ちょっと嫌ですね。」
「なんとなく分かります。」
続く打者は送りバント。
カラン、と乾いた音が響く。
「えっ?」
皓太郎は首をかしげる。
「今の、打とうとしてないですよね?」
「はい。」
「失敗ですか?」
「いえ、あれで正解です。」
「正解?」
「ランナーを次の塁へ進める作戦なんです。」
「なるほど……。」
野球には、わざとアウトになる場面もある。
皓太郎にとっては新鮮だった。
「面白いですね。」
その一言に、千尋は少し嬉しくなる。
「でしょう?」
その後も皓太郎は、気になったことを一つずつ尋ねた。
「ファウルって何ですか?」
「アウトは3つで交代なんですか?」
千尋は決して長く説明しない。
必要なことだけ。
難しい言葉は使わない。
それでも皓太郎は少しずつ試合の流れが分かってきた。
3回裏。
レッドフェニックスの攻撃。
鋭い打球が左方向へ抜けた。
「抜けた!」
千尋が身を乗り出す。
一塁ランナーは一気に三塁へ。
スタンドの空気が一変した。
「すごい!」
皓太郎も思わず立ち上がりかける。
続く打者。
鋭いライナーが右中間へ飛んだ。
歓声が一段と大きくなる。
「行け!」
普段の落ち着いた千尋からは想像もできない声だった。
ランナーがホームへ滑り込む。
セーフ。
先制。
スタンドが歓声に包まれる。
「やったー!」
千尋は隣の皓太郎を見て、思わず笑う。
「今のが点が入るってことです!」
「これは……。」
皓太郎も笑っていた。
「気持ちいいですね。」
「でしょう!」
思わず右手を上げかけた千尋は慌てて手を引っ込める。
「あっ……すみません。」
「いえ。」
皓太郎は少し照れたように笑った。
「次に点が入ったら、その時はしましょう。」
「え?」
「ハイタッチ。」
一瞬きょとんとした千尋だったが、すぐに笑顔になる。
「約束ですよ。」
「はい。」
試合はまだ始まったばかり。
皓太郎は野球のルールを覚え始めていた。
そしてそれ以上に、隣で一喜一憂する千尋の表情から目が離せなくなっていた。
ルールは、まだ全部は分からない。
それでも、点が入った瞬間、自分まで嬉しくなった。
隣で子どものように喜ぶ小山さん。を見ていると、不思議とこちらまで笑ってしまう。
野球が楽しいのか。
小山さんと見る野球が楽しいのか。
その違いを、皓太郎はまだ知らなかった。




