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第2話

 待ちに待った17時。

「お先に失礼します!」

 千尋は課内へ軽く頭を下げる。

「お疲れさま」

「行ってらっしゃい」

 今日は珍しく、山口課長まで笑って手を振ってくれた。

「今日は試合なんだろ?」

「はい!」

「楽しんでこい、勝つと良いな」

「ありがとうございます!勝ちます!」

 会社を出ると、昼間の暑さが少しだけ和らいでいた。

 それでも5月らしい湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつく。

 ビールがおいしい気温だ。この前SNSで見た選手コラボ飯も気になってるんだよな。

 思わず口元が緩む。


 会社のエントランスには、すでに皓太郎が待っていた。

 リュックを背負い、スマートフォンを眺めている。

 千尋に気付くと、小さく頭を下げた。

「小山さん、お疲れさまです」

「広野さん、お待たせしました」

「いえ、僕も今来たところです」

 少しぎこちない。

「じゃあ、行きましょうか」

「お願いします」


 思いがけず決まった仕事帰りの野球観戦。

 千尋は浮き立つ気持ちを隠せないまま、皓太郎と並んで駅へ向かった。

「本当に野球は初めてなんですか?」

「はい。野球に触れたことないんで。」

「好きな選手とか憧れの選手は?」

「選手がそもそも分からないです」

「甲子園とかも見なかったですか?」

「ニュースで結果を見るくらいですね。」


 ここまで何も知らない人も珍しい。

 千尋は少しだけ驚いたが、不思議と嫌ではなかった。

「じゃあ今日は、先入観なしで楽しめますね」

「そういうものですか?」

「そういうものです」

 電車に乗り込み、並んで座る。


 金曜日の夕方ということもあり、車内は仕事帰りの人でほどよく混んでいた。

「小山さんは、いつから野球が好きなんですか?」

 初めて皓太郎から質問した。

 千尋は少し考えてから笑う。

「物心ついた時には好きでした。」

「そんなに前から?」

「父がテレビでよく見ていたんです。それで気付いたら一緒に応援していて。」

「なるほど」

「小さい頃は選手の名前を覚えるのが好きで、中学生くらいからドラフトを見るようになって、高校野球も大学野球も社会人野球も見るようになって……。」

 話し始めると止まらない。


「あっ、ごめんなさい。」

 千尋は慌てて口を押さえた。

「つい話しすぎちゃいました。」

「いえ」

 皓太郎は小さく笑う。

「そんなに好きなんですね」

「大好きです」

 その返事に迷いはなかった。


「勝ったらとびきり嬉しいし、負けたらとびきり悔しいです。1軍だけじゃなくて2軍も見ます。」

「2軍も?」

「はい。育成選手も応援しますし、高校野球も大学野球も見ますよ。」

「そこまで……」

「気付いたらこうなってました。」


 千尋は嬉しそうに話す。

 皓太郎は、その横顔を眺めていた。

 仕事中の小山さんは、落ち着いていて、どちらかと言えば静かな人だと思っていた。

 それが今は、好きなことを語るたびに表情がころころ変わる。

 こんなに楽しそうに話す人を、皓太郎は初めて見た。


 球場の最寄り駅へ着くと、改札を抜けた瞬間だった。

「見えました!」

 千尋は弾んだ声を上げ、そのまま少しだけ歩く速度を速めた。

 皓太郎も視線の先を見る。

 夕暮れの街並みの向こうに、照明塔がそびえ立ち、球場の屋根が見えていた。

「あれが……」

「そうです!」


 千尋は子どものような笑顔でうなずく。

「フェニックスパークです。」


 球場へ近づくにつれ、人が増えていく。

 ユニフォーム姿の親子。

 仕事帰りと思われるスーツ姿の人たち。

 タオルを首に掛けた学生。

 誰もが同じ方向へ歩いている。


「すごい人ですね。」

「今日は金曜日ですから。」

 球場前の広場は活気にあふれていた。

 キッチンカーからは唐揚げの香ばしい匂いが漂い、ビールを手に笑い合う人たちの姿が目に入る。


 皓太郎は周囲を見回し、小さくつぶやく。

「もう始まってるんですね。」

 千尋は笑った。

「そうなんです。」

「プレイボールの前から、球場はこんなに楽しいんですよ。今日は応援グッズ持ってきてないんです。いつもはユニフォームもタオルもプラバットも持ってくるんですよ。急だったから仕方ないんですけど……。」

少しだけ悔しそうに笑う小山さんを見て、皓太郎は思った。

(野球って、ここまで夢中になれるものなんだ。)


球場から聞こえてくる応援団の鳴り物。

漂ってくる香ばしい匂い。

仕事帰りの人や子供たちの笑い声。

そのすべてが混ざり合った空気に、皓太郎も少しだけ胸が高鳴っていた。

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