第43話・受け継ぐ
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頬を打つ雫の感触で、沈んでいた意識が浮上する。
上下で貼り付いたような瞼をぼんやりと開き、視界に映る光景にデジャブを覚えた。
「……よう、なんて顔してんだよ」
こぼした声は思ったよりも掠れていて、守山は苦笑した。
ラゼルがすぐに子犬のような人懐こい笑顔を浮かべる一方で、アウロラは両手でゴシゴシと顔面を拭う。
「泣いてないから」
「泣いてるなんて言ってねーだろ?」
指先をわずかに動かして、痺れが残っていないことを確認する。
守山はゆっくりと腕を上げて、アウロラの白い頬を軽く摘まんだ。
「よくやったな、カッコよかったぜ」
大きく見開く紅玉石の瞳。守山は彼女の目を覗き込んで微笑みかける。
「よく、ラゼルの言葉を信じたな」
「だって……よく自慢してるじゃない。盗賊の嗅覚ってやつ。外れたことないし、それで」
「おっ、嬢ちゃんも俺のこと見直した? 俺の鼻、すげーっしょ?」
「犯罪行為を認めたわけじゃないんだからね」
「厳しいなあ、もう」
肩を竦めて不満を漏らすラゼル。
守山は声を出して笑いながら、仰向けに倒れたままでいた身体を起こした。
頭も、肩も、驚くほどに軽かった。胸に刺さっていた金色の糸は消えていて、内側で脈打つ鼓動も正常なリズムを刻んでいる。
「……あんたが治してくれたのか? ――セト」
首を巡らせて、見つけた先。
氷漬けの人を見上げて佇むセトの後ろ姿に向かって、守山はそう呼びかけた。
セトは一拍間を置いて、ゆっくりと振り返った。重なる細い輪が、シャランと繊細な音を立てる。
「元々奪った相手に対して、随分寛大な言い様ですね」
相変わらずの冷たい口調。
ラゼルとアウロラが揃って守山の前に出て、盾になるような位置についた。
セトは呆れた息を吐き、再び背中を向ける。
「賭けは、あなたたちの勝ちです。脅威となる力を上回る力を見せつけられました……お見事です」
ふと、ラゼルが自身の手元に視線を落とした。
その手には、四本揃ったウィンドエッジが握られている。おそらく、虹剣イリスを回収した際に、アウロラが一緒に持ってきたのだろう。
刃が、淡く明滅している。
「ラゼル、それ……」
守山が声をかけたのと同じタイミングで、ラゼルが立ち上がる。
彼はそのまま迷いなくセトに近づいて、隣に並んだ。
「なあ、思うんだけど。
――この人、アクアランスの継承者じゃないんじゃねえの?」
ラゼルがこの人と言って示したのは、氷漬けの戦士――ジーク・アズール。
セトの喉が、ヒュッと音を立てる。透明なレンズの奥の瞳は大きく見開いて、半歩後退したブーツの靴裏が硬い音を鳴らした。
守山は膝に手をつき、そこに体重をかけて立ち上がる。
多少のふらつきを覚えて傾ぐ身体を、アウロラが傍に寄って支えた。
「悪い」
「いいの……少しは頼って」
「いつも頼りにしてんだろ、俺のヒーロー」
確信を得た後で口にする言葉は、お守りのようにじわりと温かく胸にしみる。
守山は深く呼吸を行き来させて、並ぶ背中に近づいた。
「兄貴」
近づくタイミングを測ったようにラゼルが振り返り、ウィンドエッジを投げた。
刃は緩い放物線を描いて守山の手元に収まる。
「なあ、重さとかどう?」
「……ズシッとはくるけど、扱えないことはねえな」
守山の返事に、ラゼルはあごを引いて頷いた。
そして再び、セトに視線を戻す。
「アクアランスもいっしょなんじゃねえの? 兄貴も相当いい身体してるけど、もっと鍛えたら十分使えんだろ――この人みたいに」
セトの青眼が、氷漬けの戦士に向いた。
青く透ける氷の中にいる人の肉体は、上半身の発達が顕著で、腕の筋肉ははち切れそうなほどだった。
その腕で通常よりも重い武器を振るう様は、容易に想像できる。
「アクアランスの本当の継承者は、最初からあんただったんじゃねえの?」
「私が……?」
セトの声が裏返る。ラゼルはセトの青眼を真っすぐ見つめて、問う。
「あんた、何者?」
シン、と。数秒間満ちる静寂。霧の粒子がぶつかり合う、澄んだ音だけが空間を満たす。
セトは表情から戸惑いの色を消して、薄い唇を引き結んだ。
「私は……セト・アズール。ジーク・アズールは、私の――兄です」
兄、と聞いて。守山は思わずセトと氷漬けの戦士とを交互に見た。
一見して、共通点を探し出すのが難しい二人。けれどもそれは、兄であるジークの鍛え上げられた体型のせいでもあり、その理由は恐らく――
「ジークは、あんたを守りたかったんじゃねえか?」
ジークの閉じられた瞳に視線を向けて、守山は呟く。
セトの青眼が揺れる。戸惑いか、歓喜か。感情が見える前に下を向き、長い青髪に隠されてしまった。
「本当の継承者じゃないなんて、本人が一番分かっていただろうよ。それに、武器が脅威になることも痛いほど知ってた。だからあんたに渡すこともせず、圧倒的な力にも頼らないで、自分だけの力でさ」
シャラン、と。杖の輪飾りが鳴る。セトが両手に持ったそれをわずかに持ち上げたせいだった。
「……勝手ですね」
セトが見つめる先、青い宝玉が、ぼんやりと淡い光を宿している。
「私は、いつも兄を見上げていました。脅威にひとり立ち向かっていく兄を……その戦う背中は恨めしくも、眩しくもありました」
戦うのをやめればいいのに。
武器なんて、力なんて、棄ててしまえばいいのに。
傷つく大切な人を見て、そう願っていただろう幼い姿を想像する。
その姿に重なるのは、いつもヒーローを見上げていた守山自身。
彼のように、力なんて棄ててしまえと願ったことはあっただろうか。
(いや、ねえな)
いつだって信じていた。
ヒーローは、傷ついても、自分の意志でそこにいる。
ジークの傷だらけの肉体がその意志を伝えているように思えた。
「私が……アクアランスの力に頼っていたら、兄は死なずに済んだのでしょうか?」
言葉にするのも痛いはずなのに、淡々とセトは言う。
「結果論だろ。そのとき、戦う理由があって奮い立てる人が、道を開いていくんだ。力があろうが、なかろうが。生き残った人は、その人の姿になにかを感じたなら、その全部を持って生きることだ。
そうやって、継がれていく。継がれて、消えない限り――負けてない」
セトの唇から漏れた息が、紫煙のように形を作り、消えていく。何度も、何度も。
やがて唇は結ばれて、澄んだ青眼が氷漬けのジークを振り仰ぐ。
ものを言わなくとも、穏やかに、笑っているような表情。
今ここにセトが生きていること自体が、彼の勝利なのだろう。
「兄の勝利は、私次第だということですか……」
「ああ。俺はそう思うぜ」
傍らに添うアウロラが、守山の服を強く握った。
少し目線を上げた先にある横顔。紅玉石の瞳に張った涙の膜が、壊れる寸前で留まっている。
守山は淡く吐息して、彼女の肩に手を置いた。
彼女の中でも、喪失の記憶が渦巻いてる。そこに意味があったと、肯定しようとしている。
そんな気がした。
「喪ったって結果は、哀しいけど変えらんねえ……でも、戦った人が命をかけて守ったのが、今生きてる全部だってことは忘れたらダメだからさ」
守山は言いながら、目を伏せる。
トラックに跳ね飛ばされて、受け身も取れずに地面に叩きつけられていたとすれば、守山も確実に死んでいただろう。
その直前に守ったもの。あの女の子は、今もきっと元の世界で生きている。
生きていてほしいと願う。
ラゼルは、ピアスに触れながら俯いていた。
彼も家族同然の盗賊仲間を失くした身だ。なにか、受け継いだ想いがあるのだろう――そういう触れ方だった。
「……ねえ、なんでモリヤマが泣くのよ」
アウロラの声が耳を柔らかくくすぐる。誤魔化そうにも喉が詰まって上手くできない。
さらには、至近距離では隠しようがない。
「うるせえな。あんたらが誰も泣かないからだろうがっ」
やけくそで叫んだ拍子に、涙腺が壊れた。
漏れ出す嗚咽を押さえるために、慌てて中指の背を噛む。
周囲で三つ、笑い声が重なった。
その奥で、不穏な地鳴りが少しずつ、迫っていた。




