第44話・アクアランス
じわじわと床を侵蝕する水。ピシリッと石の床が割れる音がして、その音を合図にするように空間が揺れ出した。
「崩れる……!?」
アウロラに支えられながら、天井を見上げた。
もともと傾いていた鐘が激しく揺れて、ガラガラと錆びついた音を立てる。
石の欠片がパラパラと降り、床を這う水の上に積もっていく。
「兄貴、早く外に出ようぜ!」
ラゼルは壁によじ登り、人が通れる大きさの窓に取りついて手招きをした。
守山は素早く周囲を見回し、目的の背中を視界に入れる。
「――セト!」
守山の声にハッとしたように揺れる背中。セトは守山の方を振り返りつつ、前方にある氷漬けのジークを気にしていた。
守山は何も言わずに、セトの青眼を見つめる。
セトは薄い唇から息を吐いて、杖を鳴らした。
「別れは、すみました」
軽く首を傾げ、唇に柔らかな笑みを浮かべる。
「あなたの言葉に、心を動かされたことを認めます。私は今この時より、アクアランスを正しく使うことを誓う」
セトはくるりと手首を回し、杖の上下を返す。杖の下部が床に這う水の膜を一直線に裂いた。
水のカーテンを張るように、美しく立ち上る透明な膜。振り上げた杖の先には、水が矢じりの形を成して現れる。
「うぉ、すっげ……」
「アクアランスはその名の通り、水の槍。持ち主の意思により、形を変える」
セトは静かに語りながら、天井から降る欠片を次々と弾いていく。その動きはあまりに鮮やかで美しく、見る者の目を奪った。
「けれども、物理攻撃は主ではありません。皆さん、私の近くにお集まりください」
セトの視線を受けて、守山はアウロラと共にセトの傍へ近づいた。
ラゼルも慌てて駆けてくる。
「槍なのに、攻撃が主じゃないってどういうことだ?」
守山が問うのに、傍らでラゼルも首を振って同意した。セトは水の槍を解き、再び天地を返した杖を構える。
スゥと静かに吸い込む息の音。整った顔立ちが、さらに鋭利に引きしまる。
「教会に入った時、空気が変わったことに気づきませんでしたか?」
「ああ……言われてみれば、たしかに」
「あれはもともとここが守られた場所だったからですよ。現に、虹剣イリスもウィンドエッジも、本来の光を宿して力を振るったのに、モンスターの追撃がない」
「……守り、って……」
小さくつぶやいた守山に向けて、セトは静かに唇の端を上げる。
心臓がまた、妙な音を立てて跳ね上がった。
「蒼流天蓋」
低く、深い詠唱。セトが高く掲げた杖の先で、水の膜が弾けて傘のように開く。
裾は見る間に広がり、まさに天蓋のようなドームを形成した。
ドームの周りを、割れた石壁が叩きながら水底へ落下していく。
ジークの氷を吊っていた天井も崩れて、巨大な氷が傾ぐ。
その瞬間、開きかけた唇が、無理に隙間を閉じて引き結ばれた。
守山は小さく息をついて、杖を握るセトの手に自身の掌を重ねる。
「……大丈夫ですよ」
「まあ、一緒に弔わせてくれよ。ここを守り抜いたヒーローをさ」
「そのヒーローっていうの、なんなんですか?」
守山の掌の上に、アウロラの手が重なり、ラゼルの手も重なる。
「今に分かるわ。すぐ傍にモリヤマっていうヒーローのお手本がいるんだから」
「……アウロラ、それは誤解だっつってんだろ」
「なによ。名前までばっちりヒーローのくせに」
「えっ、なに? そういや俺、兄貴のフルネーム聞いてねえじゃん! なんていうの?」
「だぁっ、どうせ呼ばねえんだから聞いても仕方ねえだろ! つーかほっとけ! 守山でいいだろおがっ!」
「……うるさいです」
セトの低い声が言い合いを遮って、三人共に口を噤む。
ついに最後の一片が崩れ落ちた。巨大な氷が水面を破り、ゆっくりと水底へ沈んでいく。
「……兄さん、ありがとう。私のわがままで、つなぎとめてしまってごめんなさい。ゆっくり……眠ってください」
セトの言葉は祈りのように、光に包まれ緩やかに響いた。
ホゥ、と息を吐く音が重なる。
杖を固く握る手の力がわずかに緩んだのを、重ねた掌の内側で感じた。
やがて、石の雨が止んで。水面の波も凪になる。
セトは天蓋の範囲を広げ、対岸まで全員を渡してから、魔法を解いた。
静かで、巨大な湖と化した教会。時折水泡が静かに上がってきては、湖面でパチンと弾ける。
「教会が沈んだら、ここのエリアの人たちの生活はどうなる?」
守山の問いに、セトはゆっくりと振り返る。そして、杖の上部で遥か空を示した。
「結界を張ります。薬草が取れる土地ですから、教会の知識を集落の者に分け与えれば、立ち行けるでしょう」
「教会の知識っていうけど、全部沈んだんじゃ……」
「取り出せますよ」
言いながら、セトは水面に杖の先を浸す。
透明な膜が包む球体が水底からゆっくりと浮上して来て、湖面にプカッと浮かび上がった。
「……便利だな、おい」
「んじゃ溜め込んでた財宝は? 取り出さねーの?」
期待に満ちた表情で言うラゼルには、セトは侮蔑の瞳を向けた。
「そんなものはありません。まあ、やたらと金銀を積んでくる者はいましたけどね……それは全部、集落の民に施しました」
「えぇー」
「さすが神官様ね。ラゼルより信頼できるわ」
「おいっ! 俺らコイツに相当ひどいことされてんだぞ!? あっさり信じすぎなんじゃね!?」
「無礼よ、ラゼル」
「くっそ……なー兄貴ぃ、兄貴は俺の味方だろ?」
「はいはい。いい子だ、ラゼル。今回は本当によくがんばったよ、お前」
「へへ、兄貴ぃ」
長身の図体を丸めて、犬のようにすり寄ってくるラゼルをあしらいつつ。
守山は次々と薬草や道具を取り出していくセトの背中を見つめた。
「……なんですか?」
セトは引き上げる手を止めて振り返る。守山は唾を呑んで、フッと柔らかい笑みを浮かべた。
「セトは、これからどうするんだ?」
シャラン、と。細い輪が擦れて高い音を立てる。セトはアクアランスの宝玉を見上げて、思案する横顔を見せた。
守山はその横顔を見つめたまま、言葉を継げずにいた。
「……っておい、どうしたよ兄貴。あいつ、仲間にするんじゃねーの?」
「ああ、いや……そう、だけど」
セトの強固な守りがあれば、この地はきっと安泰だろう。現に、国が滅びてからも長い間、最後の教会として機能し続けたのだ。
兄が守った場所でもあるこの土地を離れる動機は、ないように思う。
傍らで、風が動いた。一拍遅れで視線を向けた先で、赤いマントがひらりと揺れる。
「アウロラ……?」
長い黒髪を揺らしながら、アウロラはセトの前に立つ。
「セト・アズール」
アウロラの凛とした声が、湖面に吹き込む風に溶けた。
「わたしは、ヴェスペリア王国の王位継承者として、この国を……世界を救うと誓います。だからあなたもどうか……アクアランスの継承者として、一緒に来てほしい」
凛とした調子は途中で崩れ、最後は震える声での懇願になる。
「あなたが、この場所に思い入れが強いことも分かる。モリヤマがあなたの意思を尊重しようとしていることも……でも、わたしたちには『守り』の力が必要なの」
その言葉に、ハッとする。
喉に引っかかった唾液を、不格好な音を立てて呑み込んだ。
「モリヤマが最前線で傷つくことを前提にして得る勝利に甘んじてちゃいけない……わたしたちがひとりでも欠けたら、誓いは守れないから……だから」
言い切る前に、不意にセトが膝をついた。
アウロラは俯けていた顔を上げ、紅玉石の瞳を丸く見開き瞬きをする。
セトはアウロラの手を取り、その指先に唇を添えた。
「……っ!?」
アウロラの首から上が沸騰する。
「誓いを、受け取りました。私はあなたに忠誠を誓いますよ、アウロラ様」
「えっ、あ……ぅ……」
セトはアウロラの表情を覗き込み、慈しむような笑みを浮かべた。
「どのみち、アクアランスの力を逃がす方法もなくなってしまったので、ここを離れなくてはなりません。それに私も、これを正しく使うと誓いましたから。あなた方と共に行くということに何の異論もありませんよ」
「うっ、ありがとう……」
「どういたしまして」
セトはアウロラの手をやんわりと離して立ち上がる。
なおも見つめてくるセトに、アウロラは白い頬を真っ赤に染めたままで目を逸らした。
「さすが癒しの神官殿、すんげーキラースマイルだな」
「うん……なんか、波乱が起きないことをめちゃくちゃ祈ってる」
なぜか合掌のポーズでうんうんと頷くラゼル。守山は苦笑を浮かべつつ、涼やかな風を頬に浴びた。
セトが集落から帰るのを待って、出発の準備を整える。
「湿っぽいのはやだけど、でもヒンヤリしててよかったよなーこの辺」
ラゼルが大きく伸びをしながら言った。
「まあな……久々にデカい風呂にも入れたし。道中にまた温泉ねえかな」
「ありますよ、そこらじゅうに。浸かって行かれますか?」
セトが杖で示した先。ちょうどいい大きさの水たまりがあり、水面から湯気が立ち上っている。
真ん中あたりに突き出した岩がさらに都合よく、湯を二分していて、温泉の快感が染みついた身体が疼いた。
「なんか、ちょうどいい形してるし、浸かってくか」
「でも片方三人で入るの狭くね?」
「私はアウロラ様と入りますが」
守山とラゼルは同時にギョッとして目を剥く。アウロラも赤眼を見開いて、何度も瞬きを繰り返していた。
セトはひとり涼しい顔で「ああ」と声を出す。
「神官は本来男性が就く職業ですからね。私も生まれつき体格がいいので、男性もの着ていることを忘れていました」
体格がいい、というのは背が高いという暗喩だろう。やんわり気遣われている。
守山は両手で顔を覆い、うめき声を漏らした。
「ああああ……確かに。俺最初セト見た時、女だって思ったんだよなあ……」
「俺も俺も。すげー美人だって……あれえ、どっから男だって思い込んだんだっけか……」
「声のせいでしょうか? これも生まれつきなので、あしからず」
セトは細い指先で喉に触れ、にこりと微笑んだ。
そのキラースマイルにドキリとさせられるのは、なんだか複雑な気がする。
性差を超えた人間としての魅力、という意味で。
「普段は男性として扱っていただいて構いませんよ。変に気を遣われる必要などないくらい、私、強いですから」
前言撤回。見る者をヒヤリとさせる笑みだと、脳内の認識を書き換えた。
「でもまあ、パーティのバランスも取れていいんじゃね?」
「だな」
守山とラゼルは肩を叩きあい、湯煙の向こうに消えていく女性コンビを見送った。
浸かった湯は、ほんの少し熱かった。
それは、地下で燃える熱が、威力を増している印だった。
《第3章・END》




