第40話・セト
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冷えた霧の粒子がぶつかり、シンと微かな音を立てる。
降り積もることのない雪のよう。
頬にぶつかり、睫毛を凍てつかせる。吐く息が白く形を結ぶ。口蓋を舌先でゆっくりと撫でて、内臓が冷えないよう蓋をした。
「……アウロラ様は、アクアランスの最期をご存じですか?」
神官――セトの声は相変わらず硬いまま。アウロラは小さく息を呑んで、真摯な視線をセトに向ける。
「時期ぐらいしか……兄様が、アクアランスの反応が消えたことを感じ取って、それで」
セトの唇から、頼りない白が薄くこぼれた。
「各地の情報網も機能していなかったし、連絡網も壊滅してましたからね……無理もありません。あなたを責める意図はないと、最初に言っておきます」
言葉が切れる度、重い沈黙が降りる。守山はふと目を上げた。氷漬けの戦士は、静かな表情を浮かべている。
「アクアランスは教会が所持する武器でした。先代が神官になってから、モンスターの襲撃頻度も増して……先代は自ら前線に立ち、戦って退けていました。だから結果的に、ここは最後の教会になりました」
セトの手の中で、微動だにしない杖。セトは不意に杖の上部に嵌まった青い宝玉を見つめる。
守山の身体と繋がったその宝玉は、鼓動を刻むように明滅を繰り返していた。じわじわと力が吸われているのが分かる。
守山は油断すれば落ちてきそうになる瞼を懸命に瞬く。
「私は彼に何度も、武器を棄てるように言ったんです。周辺の武器エリアの多くも、武器を葬ったと聞いていましたし……最後まで戦う意味が分からない、と」
アウロラは小さな唇を白くなるほど噛み締めていた。
力を持てば、襲われる。けれども力を振るわなければ、守れない。
武器を棄てて屈するのか、希望にかけて戦い続けるのか。正解は結果を見ることでしか測れない。
そしてセトが見た結果は、英雄の敗北。
「力は無価値です。武器は災厄です。私は身を以てそれを知りました。ですからアウロラ様、どうか使用者の権限で、虹剣イリスを棄てると宣言してください」
セトの杖が動く。守山の胸と繋がった金糸が張り、傷みが全身を貫いた。
喉元までせり上がってくる悲鳴を気合で呑み込んで、折れそうになる膝を堪えて踏みとどまる。
こめかみを、嫌な汗がツゥと伝い落ちた。
「あんたの先代がそうでも、嬢ちゃんまで同じ結果になるとは言えねーんじゃねえの?」
触れたら崩れそうな緊張の糸を、ラゼルの横柄な声が揺らした。
ラゼルは野生の獣が威嚇するような表情で、セトを睨みつける。
「俺、知ってるぜ? 何かを守ろうとして戦うやつを何倍も強くできる方法さあ。話聞いてる感じだと、あんたそれやってねえじゃん。先代が負けたのだって、そのせいもきっとあんじゃねーの?」
「ラゼル」
アウロラの鋭い声が、ラゼルの言葉を制した。
ラゼルは不満そうに唇を尖らせながら、一歩下がる。
「……あなたのせい、なんて言う気はないわ。わたしも目の前で……父様や兄様が敗けるのを見ているから……そのとき、わたしに何かできたかなんて、いま考えても分からないもの」
真摯な言葉に、ラゼルはばつが悪そうに目を伏せた。
アウロラはひとつ息継ぎをして、前に出る。
「でも……たとえ勝てなかったとしても、わたしは父様や兄様がしたことを無価値だなんて思わない」
「……なぜ?」
セトの声が、微かに揺らぐ。
アウロラは、色の戻った唇で柔らかく微笑んだ。
「わたしが――生きてるから」
紅玉石の瞳に光が揺れる。胸の前で握った指先は、白くなるほど力が込められていた。
守山は傍らに立つセトを見上げる。一瞬見開かれた青眼からは、まだ暗い影が抜けない。
喉に唾液を流し込んで、守山は乾いた唇を開く。
「英雄が切り拓いた時代を生きんのは、英雄以外の人々だろ?」
セトの青眼がわずかにこちらを向く。守山はセトの目線を受け止め、無理に口角を上げた。
「力を持たないやつだって、歯食いしばって力出して生きていくんだよ。強かろうが、弱かろうが。そうして生きてて困難にぶつかれば、また英雄は生まれんだよ。そうやってみんな生きていくんだよ。
あんたひとりが抗ったところで、その流れは止まんねえんだ」
ひとつ、息継ぎのための間を空ける。
そして、氷漬けの戦士を見上げた。
「あんたは、あいつが戦う背中を見てなにを思ったんだよ。あいつが守ろうとしたものを、あんたも守ってんじゃねえのか? それだって立派な力だろ。やり方が違うだけで」
低く、空気が震える。乱される霧の粒子が、不安定に揺れた。
セトが、喉を震わせて笑っていた。
「そうですね……たしかに、やり方が違います。無意味に剣を振るい、命を削るやり方ではない。もっと効率的で、確実なやり方ですよ」
ズシン、と。重い音が遠くから響く。遅れて振動する石の床。床の上に薄く張った水が、小刻みに震えて揺れた。
「なに……?」
欠片を散らす天井を見つめて、アウロラが不安げに呟く。
靴裏に伝わる振動。地震の類ではない。なにか違う、もっと不安定で、軟らかいもの。それでいて、圧倒的な威力で襲い掛かる――力。
「水……?」
守山が呟くのと、石の床が砕けるのはほぼ同時だった。
突如として噴き出した透明な水が降りかかり、視界を覆う。
濡れた前髪から滴る雫。その向こうに、目を凝らす。
「んだ……あれ……」
こぼれた呟きに滲む、絶望の色。崩れた床から溢れる水が、足元まで押し寄せる。その波を生む巨大な影に、背筋がブルリと震えた。
「見せてさしあげます。わたしの、やり方を」
守山と繋がったままの金糸を無視するかのように、セトは無造作に杖を振る。
青い宝玉が強い光を放ち、真っすぐに巨大な影へと伸びた。
黒く、丸いドーム状の頭が割れ、水が滴る牙が覗いた。ヌラリと濡れた舌がダラリと垂れ、宝玉が放った光を絡めとり、ゆっくりとした動作で呑み込んだ。
守山は激しく鼓動を打つ胸を押さえて、蒼白になった顔でセトを睨みつける。
「お前……なにを」
「力は無価値ですから……食わせてるんですよ、モンスターに」
セトの冷笑に、身体の芯が冷えた。
「さあ、どうぞ。生き抜いてみてください――力とやらで」
重なる細い輪が、警告のようにシャランと高く鳴いた。




