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守山一路はヒーローになれない  作者: 依近
第3章・アクアランス編
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第36話・氷の地下牢


 強い光が網膜に焼き付いた。真っ白に染まる視界。

 奪われる寸前に目にした姿を思い出し、喉が詰まる。


「ひぅ、……ひゃあ!」

「うおっ」


 腰に伝わる鈍い衝撃。何を踏み潰したらしく、悲鳴が重なった。

 アウロラはきつく閉じていた瞼を瞬いて視界を慣らした。

 視界に映ったのは黒光りする鉄格子。岩をくりぬいたようにごつごつした壁と天井。

 満ちる空気は冷えていて、息を吸うと喉がヒリついて痛む。


「なに、ここ……」

「おーい、嬢ちゃん。周りの前に下見ろって」

「下、って……きゃああ!」


 声のする方に視線を落とすと、琥珀色の瞳と至近距離で目が合った。

 アウロラは絶叫しながら飛び上がり、背後の鉄格子にしがみついた。


「な、あ、ああっ、ラゼル!」


 ラゼルは片耳に指を突っ込みながら、天井を見上げて溜息を吐く。


「お嬢ちゃん、声落として。つか落っこちてきたとこ受け止めてあげたんだから、まずはお礼言ってほしいよね」

「うっ……確かに……ありがとう。あと、ごめんなさい」


 アウロラは膝を揃えて座り、ラゼルに向かって深々と頭を下げた。黒髪の頭頂部に、ラゼルの明るい笑い声が降ってくる。


「ん、いいよ。お嬢ちゃん、本当素直で可愛いよね」

「……嬉しくないわ」


 白い頬をプゥと含ませて言うアウロラに、ラゼルはひらりと両手を挙げた。


「俺、結構女の子に好かれるタイプだと思ってんだけど、お嬢ちゃんは例外だよね」

「人には好みってものがあるでしょう。わたし、あなたみたいな軽薄な人、好みじゃないもの」

「知ってる。お嬢ちゃん、兄貴に夢中だもんなあ」


 揶揄う口調で言いながら、ラゼルはアウロラに視線を投げた。

 けれども、彼女の反応はラゼルが予想したものとは違った。

 アウロラは小さな唇が色を失うほど強く噛み締めて、白いスカートの裾を強く握る。


「……兄貴になんかあった?」


 声を潜めて聞いた問いに、アウロラはあごを引いて頷いた。


「イリスを渡せって言われて……その時には、モリヤマはもうあっちの手の中で……治癒を授けるっていうから、油断したの」


 一気に言って、ハァと息を吐く。俯いたままの視線は、握りしめた自身の拳に向いていた。


「そりゃ災難だったな……」

「っていうかあなた、どこにいたの」


 顔をわずかに上げて、アウロラは批難の目を向ける。

 ラゼルは両手を挙げてハンズアップの姿勢を取りながら気まずく顔を逸らした。


「んな責める感じでこないでってば。俺、鼻がいいのよ」

「盗賊の勘のことでしょ」

「まあまあ。そんで今回もばっちり嗅ぎ当てたんだよね、金の匂いをさ」


 アウロラはわずかに身を乗り出す。赤眼は光を映して揺れ、頼りなく震えた。

 ラゼルは彼女を安心させるように柔らかく笑う。


「金って言っても、そのままの意味じゃねえよ。正確に言えば金属か」

「金属……?」

「武器だよ。槍も剣も……ガラクタみたいに積まれてた」


 ヒュッ、と。短くアウロラの喉が鳴る。


「……どういうこと?」

「たぶんだけど、俺らみたいに治癒求めてきたやつから奪ったんじゃねえの? 治癒の対価にってことかもしれねえし、嬢ちゃんみたいに脅して奪われたってこともあったかもな」

「イリスのことも、地上で最も醜悪な災いだって、言ってた……」


 アウロラが小さく呟く声に、ラゼルは無言で頷いた。


「あなたも、ウィンドエッジを渡せって言われたの?」

「まあな。俺は大人しく渡したよ」

「な……っ」


 ラゼルは首を傾けて静かに微笑む。アウロラはラゼルに向けかけた言葉の勢いを呑み込んで、浮かせた身体を元の位置へと戻した。


「怒んねーの?」

「……あなたのこと、怒れない。わたしもイリスをあの人に渡しちゃったし」


 アウロラは正座の姿勢を解き、折り曲げた両膝を自身の胸にピタリとつけて抱き寄せる。


「まあ、神官様相手にバトるわけにいかないし、いったん渡すのが正解なんじゃね? それに、イリスはマスターでなきゃ持ち上げらんないでしょ?」

「うん……わたしが所有権を持っている限りはね」

「またそういう怖いこと言う」

「あの人は、マスターであるわたしの権限を使ってイリスを破棄させる気だわ」

「でも、嬢ちゃんはそんなことしないでしょ」


 当然、というような揺るぎない口調は、アウロラの心に柔らかい火を灯す。

 アウロラはラゼルに視線を返して、わずかに唇の端を持ち上げた。


「そう……しない。というか、したくない……」


 声は尻すぼみになり、アウロラが顔を伏せた膝の間に吸い込まれるようにして消えた。

 音を吸う不思議な空気は、ここにはないのに。


「揺れたら、ダメなのに……わたし……どうしよう」


 ラゼルは何も言わない。珍しくじっと押し黙り、アウロラがこぼす言葉を聞いている。

 アウロラは詰まる息を吐き出して、長い黒髪をぐしゃりと強く握りしめた。


「モリヤマと引き換えだって言われたら、わたし……選べなかった」


 家族の形見なのに。奪われ、蹂躙された世界を救うことができる、唯一の希望なのに。

 自分の他に継承者はいないのに。

 イリス以外を選ぶということは、世界の破滅を意味する。それでも――


「わたしはなんでこんな、弱いんだろう」


 ひっ、と。喉が引き攣る音を立てるのを、慌てて呑み込んだ。代わりに下手くそな咳みたいな音が出るけれど、構ってなどいられなかった。

 せめて、触れられないようにと強く膝を抱いて身体を縮こまらせる。

 ラゼルに動く気配はなく、ただ小さく息を吐く音だけが聞こえた。


「別に、弱くなんかないっしょ。そんな卑怯な取引き持ちかける相手が悪いだけでさ」


 ラゼルの声は、真っすぐアウロラの心を揺らす。


「嬢ちゃんがイリスの継承者なのは、イリスが証明してる事実だし。兄貴が嬢ちゃんの味方してんのだって嬢ちゃんがガチで世界救おうとしてるからっしょ? ぜんぶ嬢ちゃんのものなのに、それを自分の理屈振りかざして奪おうとしてくるやつが悪いに決まってんじゃん」


 アウロラはゆっくりと目線を上げた。ラゼルはアウロラと目を合わせると、肩を竦めて舌を出す。


「……なんて、元盗賊が言うと説得力あんでしょ?」

「悪だったっていう自覚はあるのね」

「まあな……っつっても、兄貴に教えられてからだけどね」


 力を抜いて笑うラゼルに、アウロラもつられるようにして少しだけ笑った。


「だから、ぜんぶ自分のもんだって主張すんのはなにも悪くねーのよ。俺みたいに奪ったもんにかんしては別だけど、嬢ちゃんはそうじゃねーだろ?」

「……モノ扱いしたら、モリヤマに怒られそうだけど」

「そうでもねえんじゃね? 女に所有権主張されるの好きな男なんてごまんといるし」

「モリヤマをあなたと一緒にしないで」

「夢見ちゃってんねえ。まあ、俺も兄貴の好みなんて知らないんだけどさ……ああ、でもたしか寝言で」


 アウロラの鋭い視線を感じて、失言の気配を察したラゼルは唇を結んだ。

 逃げるように息を整え、ラゼルは地面に手をついて立ち上がる。

 高い身長からアウロラに視線を落としたラゼルは、片目を瞑って口角を上げた。


「なあ、元気出た?」

「……うん」


 アウロラもラゼルに倣って立ち上がる。肘が触れた鉄格子が、氷のような温度を伝えた。

 どこかで、水滴が水たまりを打つ音が響く。


「ところでここ、どこなのかしら」

「たぶん、さっきのフロアよりも下だろうな。俺らが入ったところより上があるようには思えないし……まあ、動いてみないことにはなんも分からんか」


 ラゼルはアウロラの横にしゃがみ込み、鉄格子の向こうへ手を伸ばした。

 手元を覗き込もうとするアウロラを制して、ラゼルは無言で手を動かす――やがて、金属のかみ合わせが外れる音がした。


「おっ、意外とチョロい」


 外した錠前を掌で弄びながら、ラゼルは軽々と牢の扉を開ける。


「な、ぁ……、あ……」

「お咎めなしだぜ、お嬢ちゃん。盗賊スキルも使いようってね」


 アウロラは勢いで漏らしかけた叱責をグッと喉奥へ押し込んで、頬を丸く膨らませた。

 ラゼルは腰布の内側から明かりのようなものを取り出して、暗い地面を照らす。

 彼の背に従いながら、アウロラはポツリと声をこぼした。


「……別に、錠破りについては怒らないけど」

「ん?」

「開けられるのに、なんで大人しく捕まってたの」


 アウロラの指摘に、ラゼルはぎこちなく動きを止める。


「んあ……それはその、体力温存、みたいな?」

「サボる気だったでしょ! もう!」

「ごめんって! だってここわけわかんないし! なんか超寒いし! 俺だって心細かったんだって!」

「ならわたしたちのところに戻ってきたらよかったでしょう!? あなたって人は、もう……!」


 拳を振りかざしたアウロラを、ラゼルが身を躱して避ける。バランスを崩したアウロラは咄嗟にラゼルのストールを掴んで、彼もろとも地面に倒れた。

 ラゼルの持っていた明かりが、濡れた床を回転しながら転がった。


「う、痛ぁ……」


 顔を上げたアウロラの鼻先に、冷えた雫がひとつ落ちる。

 床を伝う、氷点下の冷気。吐く息が白く形を作り、薄闇に溶けていった。


「嬢ちゃん、あれ……なんだろう」

「え?」


 先に起き上がっていたラゼルが、地面に腰を下ろしたままで斜め上を見上げていた。

 琥珀の瞳は驚愕に震え、浮き立つ喉仏が唾を呑んで上下する。

 冷えた空気が、張りつめる。指先に触れる濡れた感触だけが生々しく、それに縋りたい思いが過ぎる。

 アウロラは伏したままの姿勢で息を整え、肘をついて身体を起こした。

 ゆっくりと上向ける視界。闇の明度を一段上げる、透明な表面。


「な、ぁ……」


 小さく上げた声が、喉の入口で詰まって消えていく。

 吐く息が吸われるように、溶けていった。

 魂まで引きずり出されるような感覚を覚えて、アウロラはヒュッと喉を鳴らして唇を閉じる。


「人……だよな……?」


 ラゼルが呟いた声が、結ばれかけていた像を結んだ。

 目の前にあるのは、氷。

 巨大な結晶が包んでいるのは、青白い肌をした――人だった。

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