第33話・水の教会
つぶやいた声に重ねるように、どちらかの息を呑む音が続く。
守山はラゼルと声を合わせてアウロラを引き上げ、周囲に視線を巡らせた。
教会の沈む水溜まりをぐるりと回り込むように、草木の生い茂る小径がある。
「あそこから行くのか……?」
「まあ、あの道もちゃんと繋がってるかわかんないけどね。それでも、通ってくるやつがいるならちゃんと補修とかされてるかも」
額に掌を翳して様子を窺いながら、ラゼルが言う。
「逆に言や、ちゃんと通れるようなら、この教会は生きてるってことか」
「なんだよ兄貴、俺の鼻疑うわけ?」
「あんま盗賊スキルばっか自慢してっと、お姫様から雷食らうぞ?」
ラゼルは地面に座り込んでいるアウロラに視線を落とし、「ひっ」と短く悲鳴を上げた。
濡れた黒髪がべったりと貼り付いたままラゼルを睨むアウロラは、怨みを抱いた幽霊めいて見える。
守山はラゼルに同情しつつ、アウロラに手を差し出して立ち上がるのを助けた。
「腐敗していると分かっていても……いまは、目をつぶるべきなのよね」
握った手をそのままに、アウロラがポツリとこぼす。守山は解きかけた指先を留めて、彼女の顔を覗き込んだ。
「いまは確かに、そうかもな。それをするなら――世界を取り戻してからだ」
紅玉石に光を揺らして、アウロラは小さくあごを引く。
守山はアウロラに笑いかけてから、指先をそっと解いた。
「しゃ、じゃあ行くか!」
意味もなく気合を叫んで歩き出す。
小径に生えた野草は異様に背が高く、歩くのにも苦労した。
けれども守山よりも背が高い二人は文句を言わないので、こぼしそうになる不満を無理やり喉奥に押し込んだ。
先頭を歩いていたラゼルの足が止まる。ブーツの靴裏が硬い音で鳴った。
「ビンゴだね、兄貴……あれ? 兄貴?」
「てめ、わざとだったら許さねえからな」
守山は肩まで届く背の高い草を掻き分けて顔を出す。
「わざとじゃないって。本気で見えなかった」
「それはそれで腹立つな、オイ」
腹いせに、草を分けるのと同じ手つきでラゼルの脚を押し退けた。足元に見えたのは、水に侵蝕された足場に渡した板。流されないようにするためか釘まで打ち付けてあるところから、ラゼルは〝ビンゴ〟と言ったのだろう。
「通ってんな、これ」
「うん。こんなしっかり作られてんなら、かなりの上客だろうよ」
言いながら、ラゼルは唇を舐めた。瞳にじわりと滲む欲望の色は、あえて見ないふりをする。
打ち付けられた板を踏むと、木材が吸っていた水分がじわあと溢れ出た。
その先は不自然に草が割れていた。人の足に何度も踏まれてできた道。
対面から見たとき、闇を呑み込んだようにぽっかりと暗い口を開けていたあの入口まで通じている。
ゆっくりと、静かに。侵蝕する水の膜。靴裏を浸すと波紋が広がる。けれどもやはり、音だけが吸われていく。
崩れかけた石造りの建物――教会の中へと入った。
門も窓も、枠があるだけで塞がれてはいない。けれども、建物の中に入り込む光は少なかった――まるで、選別されているかのように。
「なんかすごく、湿っぽいわね」
「いまさらだけどな……まあ、たしかに」
外から見たときは確実に傾いていたのに、中に入ると途端に平衡感覚が整う。
床は水に浸かっていないものの、薄っすらと水の膜が張り湿っていた。
湿っぽい、という感覚は確かにその通りだ。けれども不思議と、不快さは感じない。
(温度のせいか? 呼吸がしやすい)
教会の中にも薄霧は入り込んできている。守山はふと手を伸ばして、霧の粒子を掻いてみた。
指先に触れる感触は、水というよりも繊維のようで。視覚とかみ合わない触覚に軽い眩暈を覚えた。
(何かが――変だ)
守山の掌が乱した粒子は、元の位置へ収まるように音もなく動く。
そして一斉に、道を空けるように波打った。
「え……?」
――シャラ、と。
細い金属が擦れる音が、遅れて響いた。
粒子は、その音に操られるように寄せて、返す。
「なに……?」
側にいたアウロラと、引き合うように身を寄せる。
「モリヤマ……ラゼルが、いないわ」
言われて初めて彼の不在に気づく。視線で探そうとするのに、音に乱され上手く集中できない。
か細い音が響くたび、空気が緊張して張りつめていく。
粒子のひとつひとつが透明な糸を吐いて、全身を絡めとられる錯覚が起きた。
シャラ、シャラ、と。
今度は規則的な音が近づいてくる。
「……誰か来る」
アウロラが潜めた声で囁く。守山はひとつ喉を震わせて、深くあごを引いた。
先に、床の上を動く影が見えた。次いで、白く光沢のある布を纏った長身が現れる。
布の縁に織り込まれた金糸の刺繍が、霧の粒子を弾いて星のように繊細に瞬いた。
ゆっくりと、正面を向く爪先。夜を映したような群青の法衣に、銀色の刺繍が流線を描く。
深い闇の中から、選別された光の中へ。
静かな足運びと、背丈より長い杖を持つ手から目が離せない。
――女だ。
守山の本能がそう告げた。
薄い光の柱の中で持ち上がる面立ちは白く、フレームレスの眼鏡の内側から深い青の瞳がこちらを窺う。
瞳と同じ色の長い前髪が流れ、肩の上で結った髪も同時に揺れた。
「……なにか用でしょうか」
声が、薄紅の形の良い唇からこぼれた――想像よりずっと低い、艶のある声。
シンと落ちる静寂の中、守山は声を出せずにいた。




