第32話・盗賊の嗅覚
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周囲を囲む霧は濃く、そして範囲が広がっているように見えた。
守山は緩やかな湯気の立つ水面に目をやる。どうやら、数時間前に浸かったのとは別の温泉らしい。
アクアランスの影響で増えて暴れている地下水が、地熱にまで触れて噴き出している――そんな感じの湯だった。
「兄貴、もう身体なんともない?」
ラゼルが尻尾と耳の垂れた犬のような表情で覗き込んでくる。
守山は服の上から身体に触れて具合を確かめた。
「ああ……体液被ったのはマズったけど、傷とかもねえしな」
「嘘つけ! 左肩にエグい傷あったろーが!」
「それはまあ、自分でつけた傷だし」
「はあ?」
ラゼルは信じられないものを見る顔で、ポカンと口を開けて固まった。
深い場所で痛みに脈打つ傷に触れると、過剰なほど固く包帯が巻かれている。
「これ、アウロラが手当してくれたのか?」
守山はラゼルとは反対側で、じっと押し黙っているアウロラに問う。
ビクッと肩を震わせたアウロラは、涙の膜が張った紅玉石の瞳をわずかに持ち上げた。
「……手当が必要なほどケガするとか、聞いてない」
少しだけ膨らんだ白い頬。けれどもその膨らみはすぐ消沈するように萎んでしまう。
「そりゃ、モンスター討伐なんて大仕事、無傷でこなせなんていうのは無理だって分かってる。わたしたちが全員同じくらい力があって、連携できたりすれば話は違うのかもしれないけど」
「まあな……でも、それやったらたぶんモンスターの大群に襲われんだろ」
アウロラはグズッと大きく洟を鳴らし、守山に睨みつけるような目を向けた。
その目は言っている――言われなくても分かっている、と。
守山は軽く両手を挙げて異論がない旨を示す。
「だから、現状の戦闘が最適解なんだよ。俺がヤラレの技でモンスター引き付けるなり初手ダメージ入れるなりして、そこをアウロラの一撃必殺で倒す。ラゼルが加わってくれたおかげでイリスのチャージ時間もカバーできるしな。むしろ、かなり噛み合ってる方だぞ」
「う……そう、だけど……分かってる……分かってるわよ」
瞳に張った涙の膜は、今にも壊れそうだった。眉間に込められた力が、それを絶対阻止しようと耐えている。
守山は柔らかく苦笑を吐いて、俯いてしまったアウロラの頭に掌を乗せる。
「ごめん。あんたが俺にヤラレ役任せてくれんのも、俺が攻撃をぜったい避けられるって言ったからだよな。そりゃこんな怪我は想定してねえよな」
アウロラは俯いたままで首をブンブンと左右に強く振る。
「ちがう、ごめんなさい。あなたにだって避けられない攻撃があることくらい分かってる。そうでなくても、死なないレベルの攻撃には真正面から突っ込んでいく人だし」
「……はい、すみません」
アウロラは再び首を振った。掌の下で擦れる黒髪がわずかに乱れる。
「……だから、ケガしないでなんていうこと自体が、甘いのよ」
顔を上げたアウロラは、右手の甲で強く目元を擦った。そこに、涙が流れた跡は残っていない。
守山はアウロラの頭から手を離して、正面から彼女と向き合った。
「わたし、まだまだ弱いと思うし、モリヤマの力に頼るところもたくさんあると思う……それでもちゃんと、強くなるから」
紅玉石の奥に燃える、静かな炎。
彼女には強くなることを願う動機がある。戦う理由とも呼べる強い決意。
空っぽになった身体の奥が、熱く疼いて共鳴する。
「……うん。あんたは絶対強くなる。ヒーローになるよ」
素直に差し出した言葉。
ためしに、口内を舌で浚ってみた――苦味は、感じない。
守山はこみ上げてくる笑みをそのまま表情に滲ませた。
「……だから、その顔やめてってば」
アウロラは頬を赤く染めて目を逸らす。
「なー、俺のこと忘れてね?」
守山の視界に割って入るように首を伸ばしてくるラゼル。アウロラの頬に差す赤は顔全体に広がった。
「忘れてねーよ。アクアランスに入る前に、あんたの腕試せてよかった。さすが盗賊だな、急所抉る度胸は大したもんだぜ」
「まーね。嬢ちゃんのド頭垂直カチ割りには敵わねえけど」
「……ねえちょっと、なんか今すごくダサい名前つけなかった?」
「あれは串刺し一発って言うんだぜ」
「プリズマティックヘヴンフォール!」
上体を乗り出して抗議するアウロラを宥めて、守山は硬い地面に手をつき立ち上がった。
指先にまだ痺れと震えが残っている。徐々に引いていくものだろうと楽観視することもできるが、根拠はない。
「ラゼル、教会まであとどれくらいだ?」
「正確に分かってるわけじゃねえからなんとも言えないんだけど、でも、たぶんもう近いぜ……匂いがする」
「匂い?」
聞き返すと、ラゼルは顎を引いて琥珀の瞳を細める――ハンターの目だった。
そして肩越しに振り返った彼は、親指と人差し指で作った丸を顔の横に掲げて見せる。
「――金の匂いだ」
元盗賊が言うその一言で、周囲の温度が変わった気がした。
守山はそっと唾を呑み込む。
「そういや、治療受けるのってやっぱ金とられんの?」
ラゼルとアウロラは顔を見合わせる。
「基本は、ないわ。お金の代わりにお礼の品とか献上することはあるけど」
「はあ、お供えみたいな感じか」
たぶんニュアンス的にも全然違うだろうが、この場につっこむ人はいない。
「でも、それって建前だよな。かーなり溜め込んでる神官もいるし」
「……ラゼル、あなたまさか神官様まで襲ったりしてないわよね?」
ラゼルはアウロラから視線を外し、宙を見上げて口笛を吹いた。
「じゃあ、ラゼルが感じた金の匂いっつーのは?」
調子外れの口笛が途切れる。ラゼルはアウロラに気まずそうな視線を向けながら、小さく溜息を吐いた。
「たぶん、神官への賄賂だよ。生き残って機能できてんのも、そうやって身を守ってるからじゃねえのかな」
アウロラの顔から血の気が引いていく。
何かを言いかけた唇が躊躇って、そっと結ばれた。
できればこの高潔な魂を綺麗なまま守ってやりたい、という思いもある。
不意に、アウロラと目が合った。表情に滲んでいた不安の色がスゥと失せて、柔らかな微笑みが口元に浮かんだ。
「わたしは大丈夫よ、モリヤマ」
「……本当か?」
ほんの一瞬、強張るように喉が震える。
アウロラはすぐに息継ぎをした。
「うん、大丈夫」
白い頬を両手で挟んで、ペチンと軽い音が立つ。
彼女はブルッとひとつ頭を振って、強く息を吐きだして背筋を伸ばした。
「急ぎましょう。モリヤマも、身体まだおかしいところあるんじゃない?」
聡明な表情と言葉に思わず瞬きする。守山は痺れの残る手首を強く握り、歯を見せて笑った。
「なんか急にしっかりしたね? お嬢ちゃん」
「今までがしっかりしてなかったみたいな言い方しないで」
「ツッコミ厳しいなあ」
ラゼルは肩を竦めて言いながら、先に立って歩き出すアウロラに並んだ。
進むごとに、霧が濃くなっていく。
小雨の中を歩いているのと同じくらいで、服も髪もぐっしょりと湿っていた。
地面に染みる水の量も、少しずつ増している。
スンッ、と鼻を鳴らすと、植物に似た青臭い匂いが染みた。
「もうエリアの中には入ってるよな、これ」
額に貼り付く前髪をかき上げながら聞く。ラゼルは肩越しに振り返ってあごを引いた。
「兄貴、この先どこで地面なくなるか分かんないし、足元気を付けて」
「……っ、きゃあああ!?」
ラゼルの語尾を呑み込んで、アウロラの悲鳴が霧を乱した。
言わんこっちゃない。ラゼルと二人で手を伸ばし、寸でのところで両脇を支えて沈むのを防いだ。
アウロラの下半身が沈んだ水面は、底が透けて見えるほど澄んでいた。底に沈むのは苔の生えた岩盤らしく、水面は黒みがかった緑色に見える。ひとつ、水面に落ちた緑の葉が、微かな波紋を広げながら音もなく滑っていった。
「綺麗……」
アウロラがそっと感嘆をこぼした。
水面に映る石造りの建物の影に、守山は目線を上げる。
霧が、薄くなっている。
下半分が水底に沈み、斜めに傾いた建物。幾多の種類の苔が覆い、覗く岩肌はわずか。
建物の上部に下がった鐘も傾き錆びついていて、植物の蔦が複雑に絡みついていた。
ぽっかりと空いた入口のような空洞。その奥は、異様な暗闇が満たしている。
水面に吸い込まれるように、音が消えていく錯覚が起きた。
「……あれが、教会か?」




