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守山一路はヒーローになれない  作者: 依近
第3章・アクアランス編
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第32話・盗賊の嗅覚


 周囲を囲む霧は濃く、そして範囲が広がっているように見えた。

 守山は緩やかな湯気の立つ水面に目をやる。どうやら、数時間前に浸かったのとは別の温泉らしい。

 アクアランスの影響で増えて暴れている地下水が、地熱にまで触れて噴き出している――そんな感じの湯だった。


「兄貴、もう身体なんともない?」


 ラゼルが尻尾と耳の垂れた犬のような表情で覗き込んでくる。

 守山は服の上から身体に触れて具合を確かめた。


「ああ……体液被ったのはマズったけど、傷とかもねえしな」

「嘘つけ! 左肩にエグい傷あったろーが!」

「それはまあ、自分でつけた傷だし」

「はあ?」


 ラゼルは信じられないものを見る顔で、ポカンと口を開けて固まった。

 深い場所で痛みに脈打つ傷に触れると、過剰なほど固く包帯が巻かれている。


「これ、アウロラが手当してくれたのか?」


 守山はラゼルとは反対側で、じっと押し黙っているアウロラに問う。

 ビクッと肩を震わせたアウロラは、涙の膜が張った紅玉石の瞳をわずかに持ち上げた。


「……手当が必要なほどケガするとか、聞いてない」


 少しだけ膨らんだ白い頬。けれどもその膨らみはすぐ消沈するように萎んでしまう。


「そりゃ、モンスター討伐なんて大仕事、無傷でこなせなんていうのは無理だって分かってる。わたしたちが全員同じくらい力があって、連携できたりすれば話は違うのかもしれないけど」

「まあな……でも、それやったらたぶんモンスターの大群に襲われんだろ」


 アウロラはグズッと大きく洟を鳴らし、守山に睨みつけるような目を向けた。

 その目は言っている――言われなくても分かっている、と。

 守山は軽く両手を挙げて異論がない旨を示す。


「だから、現状の戦闘が最適解なんだよ。俺がヤラレの技でモンスター引き付けるなり初手ダメージ入れるなりして、そこをアウロラの一撃必殺で倒す。ラゼルが加わってくれたおかげでイリスのチャージ時間もカバーできるしな。むしろ、かなり噛み合ってる方だぞ」

「う……そう、だけど……分かってる……分かってるわよ」


 瞳に張った涙の膜は、今にも壊れそうだった。眉間に込められた力が、それを絶対阻止しようと耐えている。

 守山は柔らかく苦笑を吐いて、俯いてしまったアウロラの頭に掌を乗せる。


「ごめん。あんたが俺にヤラレ役任せてくれんのも、俺が攻撃をぜったい避けられるって言ったからだよな。そりゃこんな怪我は想定してねえよな」


 アウロラは俯いたままで首をブンブンと左右に強く振る。


「ちがう、ごめんなさい。あなたにだって避けられない攻撃があることくらい分かってる。そうでなくても、死なないレベルの攻撃には真正面から突っ込んでいく人だし」

「……はい、すみません」


 アウロラは再び首を振った。掌の下で擦れる黒髪がわずかに乱れる。


「……だから、ケガしないでなんていうこと自体が、甘いのよ」


 顔を上げたアウロラは、右手の甲で強く目元を擦った。そこに、涙が流れた跡は残っていない。

 守山はアウロラの頭から手を離して、正面から彼女と向き合った。


「わたし、まだまだ弱いと思うし、モリヤマの力に頼るところもたくさんあると思う……それでもちゃんと、強くなるから」


 紅玉石の奥に燃える、静かな炎。

 彼女には強くなることを願う動機がある。戦う理由とも呼べる強い決意。

 空っぽになった身体の奥が、熱く疼いて共鳴する。


「……うん。あんたは絶対強くなる。ヒーローになるよ」


 素直に差し出した言葉。

 ためしに、口内を舌で浚ってみた――苦味は、感じない。

 守山はこみ上げてくる笑みをそのまま表情に滲ませた。


「……だから、その顔やめてってば」


 アウロラは頬を赤く染めて目を逸らす。


「なー、俺のこと忘れてね?」


 守山の視界に割って入るように首を伸ばしてくるラゼル。アウロラの頬に差す赤は顔全体に広がった。


「忘れてねーよ。アクアランスに入る前に、あんたの腕試せてよかった。さすが盗賊だな、急所抉る度胸は大したもんだぜ」

「まーね。嬢ちゃんのド(タマ)垂直カチ割りには敵わねえけど」

「……ねえちょっと、なんか今すごくダサい名前つけなかった?」

「あれは串刺し一発って言うんだぜ」

「プリズマティックヘヴンフォール!」


 上体を乗り出して抗議するアウロラを宥めて、守山は硬い地面に手をつき立ち上がった。

 指先にまだ痺れと震えが残っている。徐々に引いていくものだろうと楽観視することもできるが、根拠はない。


「ラゼル、教会まであとどれくらいだ?」

「正確に分かってるわけじゃねえからなんとも言えないんだけど、でも、たぶんもう近いぜ……匂いがする」

「匂い?」


 聞き返すと、ラゼルは顎を引いて琥珀の瞳を細める――ハンターの目だった。

 そして肩越しに振り返った彼は、親指と人差し指で作った丸を顔の横に掲げて見せる。


「――金の匂いだ」


 元盗賊が言うその一言で、周囲の温度が変わった気がした。

 守山はそっと唾を呑み込む。


「そういや、治療受けるのってやっぱ金とられんの?」


 ラゼルとアウロラは顔を見合わせる。


「基本は、ないわ。お金の代わりにお礼の品とか献上することはあるけど」

「はあ、お供えみたいな感じか」


 たぶんニュアンス的にも全然違うだろうが、この場につっこむ人はいない。


「でも、それって建前だよな。かーなり溜め込んでる神官もいるし」

「……ラゼル、あなたまさか神官様まで襲ったりしてないわよね?」


 ラゼルはアウロラから視線を外し、宙を見上げて口笛を吹いた。


「じゃあ、ラゼルが感じた金の匂いっつーのは?」


 調子外れの口笛が途切れる。ラゼルはアウロラに気まずそうな視線を向けながら、小さく溜息を吐いた。


「たぶん、神官への賄賂だよ。生き残って機能できてんのも、そうやって身を守ってるからじゃねえのかな」


 アウロラの顔から血の気が引いていく。

 何かを言いかけた唇が躊躇って、そっと結ばれた。

 できればこの高潔な魂を綺麗なまま守ってやりたい、という思いもある。

 不意に、アウロラと目が合った。表情に滲んでいた不安の色がスゥと失せて、柔らかな微笑みが口元に浮かんだ。


「わたしは大丈夫よ、モリヤマ」

「……本当か?」


 ほんの一瞬、強張るように喉が震える。

 アウロラはすぐに息継ぎをした。


「うん、大丈夫」


 白い頬を両手で挟んで、ペチンと軽い音が立つ。

 彼女はブルッとひとつ頭を振って、強く息を吐きだして背筋を伸ばした。


「急ぎましょう。モリヤマも、身体まだおかしいところあるんじゃない?」


 聡明な表情と言葉に思わず瞬きする。守山は痺れの残る手首を強く握り、歯を見せて笑った。


「なんか急にしっかりしたね? お嬢ちゃん」

「今までがしっかりしてなかったみたいな言い方しないで」

「ツッコミ厳しいなあ」


 ラゼルは肩を竦めて言いながら、先に立って歩き出すアウロラに並んだ。

 進むごとに、霧が濃くなっていく。

 小雨の中を歩いているのと同じくらいで、服も髪もぐっしょりと湿っていた。

 地面に染みる水の量も、少しずつ増している。

 スンッ、と鼻を鳴らすと、植物に似た青臭い匂いが染みた。


「もうエリアの中には入ってるよな、これ」


 額に貼り付く前髪をかき上げながら聞く。ラゼルは肩越しに振り返ってあごを引いた。


「兄貴、この先どこで地面なくなるか分かんないし、足元気を付けて」

「……っ、きゃあああ!?」


 ラゼルの語尾を呑み込んで、アウロラの悲鳴が霧を乱した。

 言わんこっちゃない。ラゼルと二人で手を伸ばし、寸でのところで両脇を支えて沈むのを防いだ。

 アウロラの下半身が沈んだ水面は、底が透けて見えるほど澄んでいた。底に沈むのは苔の生えた岩盤らしく、水面は黒みがかった緑色に見える。ひとつ、水面に落ちた緑の葉が、微かな波紋を広げながら音もなく滑っていった。


「綺麗……」


 アウロラがそっと感嘆をこぼした。

 水面に映る石造りの建物の影に、守山は目線を上げる。

 霧が、薄くなっている。

 下半分が水底に沈み、斜めに傾いた建物。幾多の種類の苔が覆い、覗く岩肌はわずか。

 建物の上部に下がった鐘も傾き錆びついていて、植物の蔦が複雑に絡みついていた。

 ぽっかりと空いた入口のような空洞。その奥は、異様な暗闇が満たしている。

 水面に吸い込まれるように、音が消えていく錯覚が起きた。


「……あれが、教会か?」

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