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守山一路はヒーローになれない  作者: 依近
第3章・アクアランス編
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第31話・過去と苦味


「――早志!」


 入口に姿を現したのは、クラブのOBで今はマネージャーを務めている年配の男性。

 百花は緊張の滲む声で返事をして立ち上がる。

 彼の方に行きかけた一瞬、百花は守山を振り返り、唇を引き結んだ。


「あの、守山さん」

「ん?」

「その、一緒にきてくれませんか? 近くで待っててくれるだけでいいんで……お願いします」


 深く頭を下げる彼女の背中で、ポニーテールも一緒に沈む。

 口の中に滲む苦い味。守山はそれを喉奥へと押し込んで、力を抜いて笑った。


「分かったよ。事務所の入り口で待っててやる」

「ありがとうございます!」


 焦れたようにもう一度呼ぶ声に、百花は溌溂とした返事をして走っていった。

 彼女の姿越しに、マネージャーの男性と目が合う。守山がクラブに入団した当初から面倒を見てくれた彼の瞳に、一瞬暗く影が差した。

 このあと起こることは、はっきりと覚えている。

 いっそ、この場を動かないままの方が、この先鬱屈することもなかったんじゃないかと思った。


(でも、それは単に知らずにいるってだけで)

(現実が変わることはない)


 守山は鉛のように重い身体を引き上げ、足を引きずるように歩いた。

 肩や背中に感じる視線。後輩たちの同情する目だ。

 頭にタオルを被り、分かりやすく顔を隠す。

 練習場を出て、対面にある小さな建物がクラブの事務所だった。

 守山は入口へと続く階段に腰かける。

 風が耳を掠める。木の葉を抜ける陽光が、影の中に光の粒を撒いていた。

 体育館の音が遠く響く。現実じゃないということも相まって、聴こえる音さえも守山の心情を映すようだった。


――抉る声は、確実に、容赦なく聴こえる。


「監督もようやく折れたって? ピンク役、守山から早志に変えるの」

「ああ。説得すんの苦労したよ……重要な役だから、どうしても守山がいいってゴネてさあ。でも、変身前のキャストが人気グループ卒業したばっかのアイドルだろ? 俳優デビュー作だし注目度も高いのに、アクターが男じゃ盛り上がらないって」

「まあなあ……今回は時期が悪かったな。小柄な男が女性役やるのも伝統みたいなところもあるけど、女が演じた方が時代的にもいい」


 ガンガン、と。無防備な頭を殴られるような。

 唾液が苦くて、吐き出したくなる。

 それでも、気づかれたくなくて呑み込んだ――現実じゃないのに。


「身長も、性別も敵とか、詰みじゃねえか」


 苦い。何度呑み込んでもずっと、舌に残る。


「守山さん!」


 弾む声が、頭の上に降ってくる。

 事務所の横で話していた二人組の男性が、やべ、と小さく声を上げてその場を離れていった。

 日焼けした肌に仄かに差す赤み。薄茶色の瞳に幾つも光を揺らして、百花は真っすぐに守山を見つめている。


「わたし、やりましたよ! ヒーローになります!」


 ガツン、と。トドメの一撃。

 頭は真っ白で、上手く笑えていたかどうかも分からない。

 けれども口は勝手に動いて「よくやったな」とか「お前の実力なら当然」とか、そんな言葉をかけた気がする。

 そのあとで、百花が一度唇を噛み、震える声で何かを言った。


「……――」


 その言葉は、驚くほど響かなかった。

 確かに聞こえていたはずなのに。そして百花はきっと、ヒーローに選ばれたことよりもそっちの方が伝えたかったのだろうに。分かっていて、思考を閉じた。

 どんな言葉で、なんと返したのかも、覚えていない。

 ただ、彼女が思い描いていたような反応ができなかったことだけは、鮮明に覚えている。

 爆発寸前まで膨らんでいた明るい感情が、シュウと音を立てて萎んでいくような。

 彼女を傷つけたことよりも、笑顔を奪った自分に嫌気がさしていた。

 思わず、顔を伏せる。


――瞬間、足元が黒く染まる。それはいつの間にか周囲にも広がった。


 何度瞬きしても変わらない、周囲が全く見えないほどの濃い黒。

 ハッと息を吸い込むと、擦り切れたように喉が痛む。

 微かに動かした指先が、固い地面を掻いた。


(ああ――《《戻ってきた》》)


 ゆっくりと瞼を開く。

 焦点が合う前のぼやけた視界に、赤と黄色の光が見えた。


「……よう」


 痛む喉から掠れた声を搾り出す。飛びついてくる二つの腕を、痺れの残る全身で受け止めた。

 薄い霧が覆う世界。元いた世界とは全く違う環境。

 今の自分が生きる世界。

 散々浴びせられる恨み言を聞きながら、まだ苦い唾液を呑み込んで喉奥へ沈めた。

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