第31話・過去と苦味
「――早志!」
入口に姿を現したのは、クラブのOBで今はマネージャーを務めている年配の男性。
百花は緊張の滲む声で返事をして立ち上がる。
彼の方に行きかけた一瞬、百花は守山を振り返り、唇を引き結んだ。
「あの、守山さん」
「ん?」
「その、一緒にきてくれませんか? 近くで待っててくれるだけでいいんで……お願いします」
深く頭を下げる彼女の背中で、ポニーテールも一緒に沈む。
口の中に滲む苦い味。守山はそれを喉奥へと押し込んで、力を抜いて笑った。
「分かったよ。事務所の入り口で待っててやる」
「ありがとうございます!」
焦れたようにもう一度呼ぶ声に、百花は溌溂とした返事をして走っていった。
彼女の姿越しに、マネージャーの男性と目が合う。守山がクラブに入団した当初から面倒を見てくれた彼の瞳に、一瞬暗く影が差した。
このあと起こることは、はっきりと覚えている。
いっそ、この場を動かないままの方が、この先鬱屈することもなかったんじゃないかと思った。
(でも、それは単に知らずにいるってだけで)
(現実が変わることはない)
守山は鉛のように重い身体を引き上げ、足を引きずるように歩いた。
肩や背中に感じる視線。後輩たちの同情する目だ。
頭にタオルを被り、分かりやすく顔を隠す。
練習場を出て、対面にある小さな建物がクラブの事務所だった。
守山は入口へと続く階段に腰かける。
風が耳を掠める。木の葉を抜ける陽光が、影の中に光の粒を撒いていた。
体育館の音が遠く響く。現実じゃないということも相まって、聴こえる音さえも守山の心情を映すようだった。
――抉る声は、確実に、容赦なく聴こえる。
「監督もようやく折れたって? ピンク役、守山から早志に変えるの」
「ああ。説得すんの苦労したよ……重要な役だから、どうしても守山がいいってゴネてさあ。でも、変身前のキャストが人気グループ卒業したばっかのアイドルだろ? 俳優デビュー作だし注目度も高いのに、アクターが男じゃ盛り上がらないって」
「まあなあ……今回は時期が悪かったな。小柄な男が女性役やるのも伝統みたいなところもあるけど、女が演じた方が時代的にもいい」
ガンガン、と。無防備な頭を殴られるような。
唾液が苦くて、吐き出したくなる。
それでも、気づかれたくなくて呑み込んだ――現実じゃないのに。
「身長も、性別も敵とか、詰みじゃねえか」
苦い。何度呑み込んでもずっと、舌に残る。
「守山さん!」
弾む声が、頭の上に降ってくる。
事務所の横で話していた二人組の男性が、やべ、と小さく声を上げてその場を離れていった。
日焼けした肌に仄かに差す赤み。薄茶色の瞳に幾つも光を揺らして、百花は真っすぐに守山を見つめている。
「わたし、やりましたよ! ヒーローになります!」
ガツン、と。トドメの一撃。
頭は真っ白で、上手く笑えていたかどうかも分からない。
けれども口は勝手に動いて「よくやったな」とか「お前の実力なら当然」とか、そんな言葉をかけた気がする。
そのあとで、百花が一度唇を噛み、震える声で何かを言った。
「……――」
その言葉は、驚くほど響かなかった。
確かに聞こえていたはずなのに。そして百花はきっと、ヒーローに選ばれたことよりもそっちの方が伝えたかったのだろうに。分かっていて、思考を閉じた。
どんな言葉で、なんと返したのかも、覚えていない。
ただ、彼女が思い描いていたような反応ができなかったことだけは、鮮明に覚えている。
爆発寸前まで膨らんでいた明るい感情が、シュウと音を立てて萎んでいくような。
彼女を傷つけたことよりも、笑顔を奪った自分に嫌気がさしていた。
思わず、顔を伏せる。
――瞬間、足元が黒く染まる。それはいつの間にか周囲にも広がった。
何度瞬きしても変わらない、周囲が全く見えないほどの濃い黒。
ハッと息を吸い込むと、擦り切れたように喉が痛む。
微かに動かした指先が、固い地面を掻いた。
(ああ――《《戻ってきた》》)
ゆっくりと瞼を開く。
焦点が合う前のぼやけた視界に、赤と黄色の光が見えた。
「……よう」
痛む喉から掠れた声を搾り出す。飛びついてくる二つの腕を、痺れの残る全身で受け止めた。
薄い霧が覆う世界。元いた世界とは全く違う環境。
今の自分が生きる世界。
散々浴びせられる恨み言を聞きながら、まだ苦い唾液を呑み込んで喉奥へ沈めた。




