第30話・過去と憧れ
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視界が白っぽく、明るすぎるほど明るい。
重い頭をブルッと振って、何気なく開いた掌に視線を落とした。
見慣れた手だけれど、やけに久しぶりに見た気もする。タクティカルグローブを外しているせいだった。
眠っている間にも来るかもしれない襲撃に備えて、最近は就寝中もつけていたのに。
よくみれば、服装も違う。下は摩擦で擦り切れて穴の開きそうなジャージ。上は真っ白な無地のTシャツ。生地は薄っすらと湿っていて、微かに汗の匂いもする。項に触れているタオルは、異世界には存在しないふわふわ生地で吸水性の高いものだった。
そうそう、これが欲しかったんだ。
守山は首にかけたタオルを引き抜き、両手の上に広げて顔面を押し付ける。
立ち上がった毛の隙間から、ほのかに柔軟剤が香る。
掌に、頬に。あまりに馴染む感触、匂い。タオルに顔を埋めたまま思考を巡らせて、ようやく顔を上げた。
(ああこれ、夢だ)
改めて重い瞼を瞬き、視界を見回す。
ワックスで磨かれた木目の広い床に、鉄骨が剥き出しの高い天井。
床はざっくりとエリアに別れ、床で柔軟している人や、分厚いマットの上の付近では繰り返し回転技の練習をする人もいる。
天井付近から角を利用して三角にワイヤーを吊り、そこで大きくジャンプしたり空中で回転軸を調整する人もいた。
響く声。滑り止めのついた靴底が擦れる高い音。すべてが、五感に深く染みてきた。
ここは守山が長年所属してきたアクションチームの練習場所だった。
傍らには飲みかけのペットボトルと、練習メニューとメモがびっしり書き込まれたノートが転がっている。
無造作に置かれていたスマートフォンを手に取り画面を開く。表示された日付は、守山が事故に遭うずっと前のものだった。
(過去の、記憶か……)
光も、匂いも、音もやけに鮮明なのに。どこか現実から薄膜一枚隔てられている。
守山は何が起きて自分はこんな思考の世界にいるかも検討もつかないまま、思考を放棄して仰向けに寝転がった。
「守山さん!」
頭上から降ってくる溌溂とした声に、こめかみが一瞬引きつって痛みを覚える。
守山は苦味に顔を引きつらせながら、真上から覗き込んできた人物と目を合わせた。
高い位置でポニーテールに結んだ長い髪が、肩頬を掠めるように垂れ下がる。
天井から降る照明を背負い、逆光の中で影になる表情が、眩しく微笑んだ。
「休憩いつまでですか? よかったら、相手してください」
――早志百花。守山より7歳年下の後輩アクター。
「俺より同期生とかに相手してもらえよ」
「いやですよ。守山さん空いてるのに、チャンス逃すわけないじゃないですか!」
交わす会話は、どこかデジャブだった。たしか以前、こんなやりとりをした気がする。
守山は記憶の中のビジョンを辿るように、百花が差し出してきた手を握った。
身体を起こして向き合うと、百花の頭は守山の頭よりもひとつ分上にある。
「……早志、まだ背伸びてる?」
「そんなわけないじゃないですか。わたしもう二十三ですよ?」
(ってことは、やっぱり2年前だ)
「余裕で若いだろうが。俺は今年もう30だよ」
「うらやましいです。この業界で必要なのって、若さよりも技術と経験じゃないですか。守山さん、小さい頃からずっとこのチーム通ってるんですよね? もう何年やってるんですか?」
ミットを嵌めて、百花の蹴りを受ける。すらりと長い脚から放たれるキックは、多少軸がブレていても見栄えは抜群だった。
「3歳の時からだからなあ……もう27年とか」
「うわ……絶対追いつけないやつ」
「追いつかれてたまるかよ。早志だってもう6年くらいになんじゃねーの?」
「8年です!」
バンッ、と。顔の横で炸裂する気持ちのいい蹴り技。意志を持つ尻尾のように、長い黒髪が躍る。
猫を思わせる勝気そうな大きな瞳。化粧っけがない分、生来の整った顔立ちが際立つ。
「8年ならもう十分だろうよ。ショーの仕事も頑張ってんだろ?」
「はい! やっぱり子供たちの生の声援は染みますねえ! 本当に元気になっちゃう!」
「とか言ってやりすぎんなよな。敵役やってたヤツが早志に蹴られたこと痛みが抜けねえってボヤいてた」
「えっ、本当ですか!? うわあ、謝りにいかないと」
「抉ってやんなよ。向こうも見切れなかったって悔しがってんだから」
「う……はい。やっぱり、ヒーローよりもヤラレ役のほうが技術いるって本当ですよね……気をつけます」
「それもいらねーの。ヒーローが本気の技出せるようにすんのが、お……ヤラレ役の仕事なんだからさ」
俺らの、と言いかけた言葉を無理やり呑み込む。
この頃にはもう、ヤラレ役であることが気持ちにも染みついてしまっていた。
(30までにはヒーローになるって決めてたのにな)
(自分で決めたリミットの前に、こんな気持ちでいたんじゃ《《なれなくて》》当然だ)
しばらく打ち合いを続け、並んで休憩する。
ペットボトルに残った水を飲み干しながら、壁の高い位置に掛けられたアナログ時計を見上げた。
(たしか、もうすぐだ)




