まだ魔の森
――風向きが、変わった
最初に気づいたのは、誰でもなかった。
風だ。
教室の中を、風が吹き抜けた。
「……?」
ユウトは思わず顔を上げる。
窓は閉まっている。
なのに、カーテンがわずかに揺れた。
「今の……」
次の瞬間、ふわりと鼻を刺す匂いがした。
湿った土の匂い、青臭い葉の気配、腐りかけの花の甘さ。
「……この匂い」
誰かが声を震わせる。
「森……」
風向きが変わる。
今まで一定だったはずの空気の流れが、ぐるりと逆転した。
教室の奥から前へ。
前から背後へ。
「……おかしい」
「風、回ってない?」
黒板のチョーク粉が舞い上がる。
いや、舞い上がったのは白い粉だけじゃない。
淡く光る、花粉のような粒子が天井付近を漂っていた。
「……あれ」
理知的な声が低くなる。
「植物性魔力反応」
「教室にあるはずがない」
次に、音が消えた。
外のざわめき、廊下の足音、遠くの鐘の音。
すべてが、すっと途切れる。
「……静かすぎる」
ユウトが唾を飲み込む。
その瞬間、床がきしんだ。
木の根が、動く音だった。
「……っ」
全員が同時に立ち上がる。
椅子の脚が、土に沈んだ。
「……え?」
「床、土……?」
誰かが足元を叩く。
硬い音は返らない。
代わりに、湿った大地の鈍い感触。
壁に、ひびが走る。
いや、ひびではない。
蔦だ。
白い壁だったはずの場所から、緑が這い出してくる。
「……教室じゃ、ない」
呆然とした声が落ちる。
窓の外を見た瞬間、全員が理解した。
校庭はもう存在しない。
絡み合う木々、ねじれた幹、重なり合う葉。
空は木々に遮られ、どこまでも暗い。
「……魔の森」
誰かが言った。
沈黙。
理解は一瞬だった。
「……戻れてない」
「ずっと、ここだった」
「教室は……」
「見せられてただけだ」
風が、また吹く。
今度は冷たく、はっきりと。
花粉が視界を覆う。
遠くで、枝が折れる音がした。
「……ねえ」
ユウトの声が掠れる。
「これ」
「一番やばいタイミングじゃないか?」
誰も否定しなかった。
誰も動けなかった。
教室は完全に消え去り、そこに残ったのは魔の森の中心部。
そして全員が気づく。
理解した瞬間こそが、本当の始まりだということに。
――これはまだ、終わっていない。
風が、再び強く吹いた。
「……まずい」
理知的な声が低く響く。
「花粉濃度が上がってる」
「このままだと、また幻覚に戻される」
「戻るって……教室に?」
「次は保証できない」
誰かが息を呑む。
「……じゃあ、どうするの?」
一瞬の沈黙。
「逃げる」
「花粉の流れから外れる」
「森は生き物じゃない」
「でも、風向きは読める」
ユウトは、袖で口元を押さえながら周囲を見渡した。
視界の端で、花粉が流れる方向がわずかに揺れている。
「……風下だ」
「幻覚は、風に乗って来てる」
「じゃあ逆に?」
「風上へ行く」
短い言葉が交わされる。
誰も異論を出さなかった。
「……走れる?」
「走るしかない」
誰かが上着を破り、即席の布を作る。
口と鼻を覆う。
目元を狭める。
「完全には防げないけど」
「吸い込む量は減らせる」
「やらないよりマシだね」
「合図で行く」
風が、一瞬弱まった。
「……今!」
全員が、一斉に駆け出す。
足元の土が跳ねる。
枝が腕を掠める。
背後で、花粉が渦を巻く。
「……っ」
視界が、揺れかける。
一瞬だけ、教室の黒板が脳裏に浮かぶ。
すぐに、ユウトは首を振った。
「見るな!」
「信じるな!」
その声で、全員が踏みとどまる。
「幻覚は」
「意識した瞬間、負ける」
森の音が、急に大きくなる。
虫の羽音。
葉擦れ。
どこかで、水の流れる音。
「……花粉、薄くなってる」
誰かが言う。
実際、空気が変わった。
匂いが、軽くなる。
「……効いてる」
足を止める暇はない。
「このまま行く」
「高低差がある場所を探す」
「理由は?」
「花粉は低地に溜まりやすい」
「つまり」
「登る」
視線の先に、わずかに開けた斜面が見えた。
岩が多く、植物が少ない。
「……あそこだ」
全員が、無言で頷く。
背後で、風が唸る。
花粉が、追いすがるように舞い上がる。
「……来てる」
「でも」
「さっきより、遅い」
希望が、ほんの少しだけ生まれる。
斜面を登り切った瞬間、風が変わった。
冷たく、乾いた空気が流れ込む。
「……止まった?」
振り返る。
下では、花粉が霧のように漂っている。
こちらへは、来ない。
「……抜けた」
誰かが、へたり込む。
「助かった……」
「いや」
理知的な声が、気を緩めさせない。
「これは一時的」
「森の外じゃない」
「でも」
「脱出に向けた、第一段階は成功です」
ユウトは、深く息を吸った。
幻覚は消えた。
教室は、もう見えない。
目の前にあるのは、紛れもなく魔の森。
「……よし」
「ここからが、本番だな」
全員が、同じ方向を見る。
――魔の森脱出作戦、開始。
次回予告
魔の森脱出作戦、進行中。
だが――
順調だったのは、最初だけだった。
「……っ」
一人、また一人。
足を止め、膝をつくクラスメイトたち。
花粉の影響。
疲労。
焦り。
「このままじゃ……」
「全滅する」
誰もが、それを口に出せずにいた。
迫る森。
逃げ場のない地形。
そんな中。
「……待ちなさい」
聞き覚えのある声が、森に響く。
振り返った先にいたのは――
くっころ先生。
「生徒を、見捨てるくらいなら」
「教師を辞めた方がマシよ」
その瞬間。
先生の周囲から、今まで抑え込まれていた魔力が溢れ出す。
花粉が、弾かれる。
森が、ざわめく。
「……覚醒?」
「いえ」
先生は、歯を食いしばる。
「我慢を、やめただけ」
次回、
くっころ先生覚醒回。
守るために、誇りも、立場も、投げ捨てる。
魔の森が、本気で敵に回る。
お楽しみに。




