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諸葛孔明物語~「偽史三国志」  作者: 珍寿
暗躍の軍師
28/29

暗君

 益州は荊州の西方にある。

 かつては蜀と呼ばれ、周囲を天険、内には沃野千里といわれる広大かつ豊かな土壌の盆地を有することから『天府の地』と称えられた。

 それ故、天下に騒乱があってもその影響を受け難く、かといって外に進出するには天険が邪魔をして兵站に難があり、人口自体も外と比べれば少ない。

 そして、容易に自給自足ができるため人臣に危機感がない。

 つまり、時代の流れから取り残されやすい土地だ。

 秦・漢という歴代王朝の草創期において、この地はいつも余所者によって侵略される側であった。




「殿、荊州に放っていた間者より報告がありました。荊州の南郡が劉備軍に占領されたようです」


 益州州府が置かれる成都。

 その城内の一室で、臣下たちと談笑していた痩身の君主は、急報に顔を曇らせた。


 歳は四十に達していないが、眉間には神経質そうな深い皺を刻み、少し窶れている外見は年齢以上に老けて見られる事が多い。


 君主の名は劉璋、字を季玉といい、益州を統治している州牧である。


 急報があった荊州は、劉璋が統治する益州と隣接しており、州の境界には天険『三峡』があって隔てられているとはいえ、その動静は劉璋が常に気にしているところである。

 さらに、南郡といえば、江陵など荊州南部の主要都市を有する大きな郡であり、軍が益州から荊州に抜けるにあたり、必ず通らなければならない要衝であった。

 その重要拠点が、最近、尋常ではない早さで勢力を拡大している劉備の支配下に入った事に劉璋は不快感を隠さなかった。


「ふん。噂の草履売りが、なかなか動きが早いではないか?」


 その声は、団欒を囲っていた臣下から少し離れたところに座る、荊州からの流れ者で、今は客として遇している崔鈞と名乗る男に向けられた。


「はい。劉備は赤壁のあと、僅か半年で荊州南部四郡を攻略しました。さらに、今また中部を統治していた孫権軍の周瑜の死亡に乗じて南郡を押さえました。いずれ孫権軍は荊州から撤兵し、曹操軍は北へ追いやられましょう。荊州が劉備の支配下になるのもそう遠くありません」


 劉璋の問いにかけに男は淡々と応えた。

 劉備軍の強さの一因として噂される『元戎』と呼ばれる謎の兵器について聞き出そうと考えていた劉璋だったが、男の釣れない態度に首を傾げる。

 しかし、相手は客なので無理に聞こうとはせず、今の益州の状況を省みることにした。


「ふむ……父の跡を継いで以来、十五年もの間内乱続きだった益州もようやく治まり、遂に漢中の米賊を討伐出来ると思っていたが、思うようにならぬものだな……」


 劉璋は嘆息しながら、これまで苦難をともに戦ってきた臣下たちに語りかけた。

 漢中の米賊とは、宗教集団『五斗米道』の指導者・張魯のことである。

 過去、劉璋の父劉焉に母親が色仕掛けで接近し、張魯はその命を受けて益州北方の要地・漢中を攻略したが、劉焉が死去すると漢中で勝手に独立してしまったので、以来、敵対関係にある。


「心中お察しいたします」


 と、古参の筆頭格である王累が同情を示すが、劉璋は頷くだけで、暫く黙考した後に自らの考えを明かした。


「ふん……こうなっては仕方無い。草履売りに使者を出して同盟を結ぶか……」


 主君が劉備との同盟案を呟いた事に臣下たちは騒いた。

 情勢を鑑みれば、劉備と同盟し、それぞれが仇敵である張魯・曹操にあたるのは道理に適う行動であったが、しかし、手を組む相手に問題があった。

 同姓でしかも前漢の景帝の子を始祖とする家柄とはいえ、その出自が怪しい事は、他でもない劉璋自身が疑っており。

 劉備のことを草履売りとしか呼ばないのもその出自を蔑んでいるからに他ならない。

 さらに、結果的にではあるが、劉備は同姓の劉表に取って代わり荊州を支配するようになってしまった。

 傀儡だった劉表の遺児・劉琦はいつの間にか存在が消され、名実ともに劉備が荊州の支配者になろうとしているのだ。

 未知の兵器に、不死と噂が立つほど勇敢な兵士と、劉備軍の戦力は確かに申し分ない。

 だが、そんな得体の知れない危険な存在と手を結ぼうという主君に、此処に居る忠義に厚い者たちは、一斉に反対しようとしたのだった。


「恐れながら……」


 ところが、真っ先に発言したのは、客の男だった。

 分別の無い男だと、皆が避難の目を向けるが、非礼を咎めようとする者はいない。

 なぜなら、その男が長身の偉丈夫であり、顔や腕には無数の傷があって、片足は明らかに義足だったからである。

 若年ながら、歴戦の強者の如きただならぬ威風を発する男の前で、普段、竹簡の束くらいしか持つことのない細腕の宮仕え達が、面と向かって非難を口にすることなど、出来るはずがなかった。


「ん、なんだ?」


 そんな臣下達の緊張を余所に、劉璋は男の方に体を向け、その発言を聴く態度をとった。

 この君主は、貴賤や親疎を問わずその話を聴く度量がある。

 それは、今日まで身内や近臣など親しい存在に裏切られて苦んできたからであり、そんなときに自らの助けとなったのが、身分は低いが才能ある若者や、中央の混乱を避けて益州に逃げてきた高潔な旧官僚やその子息たちであったからだ。

 そういうわけで、劉璋が他者の意見をそのまま聴き入れる事もない。

 幾多の反乱を経験して、人並み以上に猜疑心の備わったこの君主が人を完全に信用することはなく、常にその言行に疑義を抱きながら、自分の中で斟酌し、最後は必ず自分で決断を下していた。

 そのため、単純明快な案件まで熟考することが度々あり、その様子を愚鈍や優柔不断と揶揄する者もいるが、そう笑った者は、何れこの冷厳なる君主によって憂き目に遭わされるに違いない。


 劉璋に発言を許された男は、拱手してから口を開いた。


「劉備は、益州との盟を望んでおりません」


 常々、男のことを劉備の間者ではないかと疑っていた劉璋は、その言葉に意表をつかれて、ほう……と呟くと、眼つきを鋭くさせる。


「では草履売りは、荊州を得た後、如何するつもりだ?」


「劉備は、此処益州に攻め入ろうとしております」


「馬鹿な!?」


 劉璋は立ち上がった。

 男の発言から、今の情勢が自らが想定していたものとまったく異なっているかもしれない事に気が付いたからだ。


 劉璋は、劉備軍が荊州南郡を占領したことについては内心喜んでいた。

 亡き孫権軍の都督・周瑜は生前『天下二分の計』などと称して益州侵攻を計画しており、その死後も警戒を緩めることが出来なかったからである。

 しかし、劉備が南郡を占領したことで、孫権との間に劉備が割って入る形となり、孫権軍の脅威がなくなった。

 あとは、劉備と手を組んで後顧の憂いを断てば、念願の漢中攻略に専念出来る筈だった。

 だが、客の男の話では、その劉備が益州を狙っているという。

 劉備は今回の南郡占領で孫権との関係が悪化し、北の曹操に加え東にも懸念を持つことになったのではなかったのか?

 臣下たちが騒然とする中、劉璋は手を後ろに組み、忙しなく椅子の周りを行き来しながら自問自答する。

 静寂な室内に、コツ、コツと劉璋の足音が響いた。

 やがて、その音は、崔鈞の前で止まった。


「草履売りは曹操に目をつけられているのではないのか? 先年の曹操の南征も、奴の首が目的だったと聞いたが?」


「曹操は賢明な人物です。自らの足元に不安を抱えたまま遠くに手を伸ばしたりはしません」


 座ったまま劉璋を見上げる男の表情に、先ほどの冷淡さはなく、その瞳には強い情念を宿していた。

 その様子から、今の情勢の変化について男が何か掴んでいると劉璋は予感する。


「なるほど……それは謀反か?」


「はい。涼州が焦臭い様です」


 それは、劉璋も予測していた情報であったが、解せないことがある。

 涼州は益州の北方・漢中よりさらに北西にあり、諸豪族が連合して治めているが、今その頭目と言える馬騰は、涼州には居ない。

 先の曹操の荊州南征の折に、その精強なる騎馬軍団を警戒され、馬騰は息子たちとともに曹操の下に留め置かれているからだ。

 馬騰には三人の子がいるが、曹操の下に連れて行ったのは嫡子とその弟の二人だけで、涼州には妾腹の子で一番年上の馬超が残っていた。


 醜い話だが、そこから導き出される答えは一つだけである。


「ふん。西涼の馬超か……庶子の分際でありながら、父親や弟達の不在を利用して曹操に反旗を翻すつもりか?」


 馬超の真意を探ろうとする劉璋の声は暗いものの、その口元は不敵に歪んだ。


「馬超の狙いは、反乱を起こすことで曹操に父と弟を殺害させ、自らがその後継者の座に就き涼州の軍権を掌握することでしょう……しかしながら、曹操は馬超の野心に気付いています。それで近々漢中に兵を向けるとか……」


「成る程、馬超の謀叛を誘発するつもりか……」


「はい。曹操が兵を起こせば、馬超は自分が討伐されると思い、準備が不十分でも挙兵を早める事でしょう」


「ふん。すべて曹操の掌の上か……流石は百戦錬磨の男だ、辺境の猪武者とは格が違うな」


 馬超は間違いなく曹操に敗れるだろうが、異民族からの情報でその武勇を多少なり買っている劉璋は、暫くは北からの脅威に悩まされることはないだろうと結論した。

 本来ならば、馬超と曹操が戦っている間に、漢中に兵を出すべきなのだが、問題は劉備である。

 北の曹操がしばらく脅威とならない以上、東の孫権の動きに期待するしかない。


「孫権はどうなのだ? 荊州を劉備に奪われたまま黙ってはおるまい?」


「孫権は、赤壁の後、寡兵の曹操軍が守る合肥を攻めましたが攻略出来ず、すっかり自信を無くしてしまった様です。そこへ軍事の大黒柱たる周瑜を失ったことで、暫くは戦どころではないでしょう。それに、孫権の妹が劉備に嫁ぐという話も出ています。当面は劉備との同盟を維持しようとするでしょうから、現状、劉備の益州侵攻を邪魔できる者はいないのです」


 男の真率な言葉を受け、劉璋は天を仰いだ。

 もはや、劉備との対決は避けようがないと分かったからだ。


 劉備は馬超の動きをずっと早い段階から察知していた。

 孫権との同盟を維持しつつも準備を始め、周瑜が倒れるとまさに電光石火のごとく軍を動かし、荊州南郡から孫権の軍を追い出した。

 益州への道は開かれ、後顧に憂いはない。

 的確な情勢判断と、周到な準備の下に益州攻略は遂行されようとしているのだ。




「それにしても、崔先生は成都に来て一年は経つというのに、随分と外の情勢に詳しいな?」


 暫く天を仰いだまま沈黙していた劉璋は、唐突にその双眸で男を捉えた


「荊州には同志がいます。定期的に情報を流してもらっているのです」


 対する男も劉璋の両眼から目を逸らせることなく答えた。


「ほう。それでは我らが機密も劉備には駄々漏れという事かな? 劉備が軍師・諸葛孔明!」


 室内は静まり返った。

 動揺した臣下の一人が衛兵を呼ぼうとしたが、それを劉璋が男と視線を合わせたまま片手をあげて制した。

 劉璋は、男の正体に気づいていた。

 今まで何人もの人間と騙し合いを演じてきたのだ、世間が言うような愚鈍であるわけがない。


「閣下、私の名は崔鈞、字は州平です。諸悪の根源たる劉備を滅ぼすべく、荊州より閣下の下へ参りました」


 この期に及んでも、崔鈞は白を切りとおした。

 劉璋の陣営に諸葛亮がいるという情報は出したくないようだった。


「くふふふ、ふははははははは!」


 劉璋は、急に笑い出した。

 得体のしれない男だが、その目に宿る情念は間違いなく復讐であり。

 そのために立場を捨て、単身益州へと乗り込み、自分たちに協力しようとする様を、純粋に面白いと感じたからだ。

 その復讐心に偽り無しと判断した劉璋は、男を幕僚に採用することにした。


「いずれ諜報から正確な情報が入るだろうが、それでは手遅れになるかもしれぬ。いまから兵を集めよ。情報が入り次第、軍議を開く。崔先生、その時は先生にも同席していただきたい」


「承知しました」


 議論はそれで終わり、各々与えられた指示に従って散る臣下たちの騒がしい足音を背後にして、劉璋は部屋を後した。


 向かった先は、城内にある小さな庭だ。

 梅の花が咲く時期となっても未だ夜は肌寒く、気分が昂ぶっている今の劉璋には心地良く感じた。

 庭内に置かれた椅子に座り、一息ついたところで、劉璋は近くにある小池にぼんやりと月が映っていることに気が付いた。


「ほう……」


 天を見上げるとその月は赤かった。

 その不吉な月を見て、劉璋はふと右手の掌を見つめる。

 すると何も無かったはずの掌に赤黒い血液が浮かび上がった。

 悪寒が走り、手が震え出す、次第に生暖かくヌラヌラとした感触まで蘇ってくる。

 劉璋がそれを押さえ込むように右手を握り締めた。

 強く強く、骨がきしむ音が聞こえるほどに……

 暫くすると震えは収まり、閉じた掌をゆっくり開いてみれば、いつもの痩せてゴツゴツとした指があった。


 劉璋は、父の跡を継いで以来。この幻影にずっと悩まされている。

 初めは驚いて悲鳴を上げた事もあったが、今ではすっかり慣れてしまった。

 これが誰の血なのか、心当たりを上げたらきりが無い。

 だが、誰の血であろうと、例えそれが自分に害をもたらそうと、劉璋には全て受け入れる覚悟があった。


 この君主は、今の地位を安穏と受け継いではいない。


 彼は季玉という字が示すように末弟であり、上には三人の兄がいた。

 父は三兄を寵愛し、長兄、次兄と劉璋は朝廷に出仕した。

 やがて野心家の父が益州で独立すると、三兄には後継者として、高貴の相(将来妃になるという占い)を持つ美少女を娶せ、千乗の馬車を作らせ王侯の真似事をする等、いよいよ増長していった。

 当時、朝廷を血生臭く感じていた劉璋は、献帝(後漢の皇帝)の使者として益州に逃れた。

 朝廷に残ったままの兄達は父の野望の道具にされ、劉璋が懸念した通り、朝廷内での反乱騒ぎに巻き込まれて処刑された。

 野望が潰え、息子二人を喪った頃から父は正気を失った。

 政務を顧みなくなり、独立事業に協力してくれていた異民族への恩賞をケチったことから侵攻を受けるなど失策を続け、益州は大いに乱れた。

 そんな父によって滅茶苦茶にされてゆく益州を見て、劉璋は黙っては居られなかった。

 後継者の三兄は軟弱で頼りにならず、支援者もいない劉璋は、ある夜、父の寝室に侵入し、その場に居合わせた少女を押しのけ、逃げようとする父の背に短刀を突き立てると、血塗られた手のまま野心家の重臣のもとへ行き、擁立される形で益州の君主となった。

 反対派に担がれる可能性のある三兄は、精神を病んだとして幽閉し、後に人知れず殺した。

 こうして劉璋は血塗られた手で君主の座を掴み取ったのである。


 それからは苦難の連続だった。

 父の残した負の遺産があまりにも大きかった。

 まず父が強引に独立事業を進めていた所為で、豪族たちの反感を買っており、新政権への協力者はおろか反乱が相次いだ。

 さらに、父が組織した東州兵と呼ばれる不良集団の統制が効かなくなっており、相次ぐ陳情に悩まされた。

 政令は無視され、乱暴狼藉を取り締まることもできず、無力な新政権へ益州中から民の怨嗟が止まなかった。

 他にも、漢中問題・異民族問題・朝廷を始め諸勢力との外交破綻など、問題山積であった。

 それを、統治経験も無く、協力者も少なかった劉璋は実に十五年かけて解消していった。

 君主としての誇りも捨て、額を地に擦りつけて協力者を集め、権謀術数を駆使して邪魔者を排除していったのだ。

 勿論、その治世に批判すべき点が無いわけではない。

 漢中の張魯が独立した際には、真っ先にその母と弟を処刑してしまい短絡的と評価されても文句はいえない。

 現に、張魯とは修復しようのない仇敵関係となってしまった。

 しかし、当時は劉璋を温仁の弱君と侮る輩が大勢おり、反乱予備群もいた。

 冷徹な君主と周知させるためには、見せしめが必要だったのである。


 さらに、自分を擁立した重臣が豪族たちと謀反を企てているのを野放しにして、大反乱を起こされた。

 最大の後見者を失い、当然兵も少ない劉璋は絶体絶命に追い込まれたが、この窮地に、あろうことか益州民の敵である東州兵に頭を下げ、反乱軍に差し向ける以毒制毒の計を採った。

 結果、益州最大の実力者と劉氏に反抗的な豪族を一網打尽にし、その戦いで数の減った東州兵には名誉と、反乱軍から得た戦利品の一部を褒美として与え、自陣営に取り込んだのである。


 益州は辺境であり中央との情報のやりとりは必然的に疎くなる。

 劉璋の父は、それを利用して朝廷からの連絡を取れなくしたほどだ。

 よって、外から見れば、劉璋は父親から受け継いだ領土を満足に維持することすらできない君主と映るだろう。

 残念ながら、それは事実なのだから、彼が無能な暗君と呼ばれても仕方がないのかもしれない。

 だが、益州の官民は違う。

 不器用ながらも君主の力を取り戻し、多くの有能な人材を登用して政治を正そうとする劉璋をこれまで見てきたのだ。

 もし、その主君に危難が降りかかったならば、共に滅ぶまで戦おうとするに違いない。





 赤い月は雲にすっかり隠れてしまっていた。


「季玉様、こんなところに長くいらしてはお体に障りますよ」


 急に女性の声が聞こえ、背筋を緊張させた劉璋は、椅子から立ち上がり振り返った。

 そこには、亡き三兄の嫁が侍女も連れずに立っていた。

 兄嫁ではあるが、劉璋からすれば十五も歳下の若い女性である。


「これは義姉上。どうしてこちらに?」


 劉璋は微笑みながら、手を前に出して城内で話そうと誘った。

 兄嫁は劉璋の後に続き、庭から回廊に入ったところで立ち止まった。


「季玉様のお姿が見えたからです」


「それは……足音が大き過ぎましたかな?」


 とぼけて頭を下げようとする劉璋を兄嫁が慌てて止める。


「そんな、おやめください。私はただ季玉様とお話ししたかっただけです。以前は、毎日お話ししていただいたのに、最近は、ほとんど顔を見せてくださらないではないですか」


 君主を継いだ頃、幼いながら未亡人となってしまった兄嫁を不憫に思い、劉璋は毎日話をしに通っていた。

 天性の美貌を持って生まれ、十歳を迎える前から悪い大人たちの都合に振り回された美少女は、劉璋が会いに行った当初は、驚くほど冷めていて、恐怖を除き他の感情を見せることが無かった。

 そんな少女に、劉璋は不器用ながら話しかけ、菓子や野の花を贈り、時には成都の市に連れ出して交流を深めた。

 すると少女は、少しずつ感情を出してくれるようになっていった。

 そして、劉璋はそんな少女に恋心のようなものさえ抱くようになっていた。


 そんな関係に亀裂が入ったのは、ある夜少女が言った冗談だった。


「父親の寝所にいた女は抱けませんか?」


 その言葉をきっかけに、劉璋は父を殺したの夜の出来事を思い出した。

 父の寝所に忍び込み、その背中に短刀を突き立てる前、寝所内にいた少女を押しのけた記憶が甦った。

 あの時は、父親殺しに気を取られて顔を確認するどころではなかったが、もしかするとあの少女が兄嫁だったのかもしれない。

 そう思うと父親への憎しみは増し、さらに、自分を擁立した重臣しか知らない、父親殺しを知る者が他にいたことになり劉璋は大いに頭を悩ませた。

 結局、その日を境に、劉璋が彼女のもとを訪ねることは無くなり、出会った時もこうして兄嫁として接するようになった。


「桃の花が咲く頃に茶会を開きましょう。私も久々に義姉上と話したいことがあります」


 茶会の話を出すと笑顔を浮かべた兄嫁を見て、劉璋は内心ほっと息を吐いた。


「それでは楽しみにしております。季玉様……」


「はい。どうか義姉上もお体には気を付けて……」


 嬉しそうにしながら去っていく兄嫁の後姿を見送りながら劉璋は思う。

 あの女性は、夫を殺し青春を奪った自分を憎くはないのかと……

 それでも、彼女と会えば必ず笑顔を見せてくれるし、二人きりの時には、まるで誘惑しているかのように体に触れてくる。


 今度の茶会では兄嫁に縁談を勧めるつもりでいた。

 そして、もしそれを彼女が断るようであれば、自分が身請けすると名乗るつもりだ。

 兄嫁の貴相を占った男はかなり高名な人物で、益州では彼女はいずれ妃になると噂になっている。

 まだ劉璋にも野望はあった。

 漢中を得て天下の騒乱を俯瞰し機に乗ずることが出来れば、かつての高祖のようにあるいは……

 そのためにも、早急に劉備と決着を付けなければならない。

 決意を秘めた男は、思い人の姿が見えなくなると踵を返し、深夜の回廊を歩いていった。

 月は隠れたままだが、妙に赤く輝く星が、夜空を支配していた。

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