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諸葛孔明物語~「偽史三国志」  作者: 珍寿
暗躍の軍師
27/29

魔手

 諸葛亮、彊、均の三人が、益州の州都である成都に入ってから十日が経った。

 活動拠点となる住居は、荊州学派の伝手でそこそこ広い屋敷が用意されており、三人は寝食に困る事無く、新生活にも馴染んでいった。


 そして、この日、諸葛亮は成都城へ招かれ益州の君主である劉璋と謁見する予定であった。




 早朝、空の端が白ずむ頃に、彊は起床する。

 速やかに寝台から起き上がって、寝間着から着替えを済ませると、井戸に行って水を汲み、桶に溜めて顔を洗う。

 早朝の井戸水は、冷えた外気より幾分暖かく感じるが、それでも刺すように冷たい。

 それを無心のまま両手で掬い顔に浸すと、睡眠によって熱った肌が冷気で急速に引き締まっていくのを感じる。

 眠気が吹き飛び、今日も一日頑張ろうと意気が揚がる。

 それから片手で掬った少量の水で口を漱ぎ、最後に両手いっぱいに掬った水をゆっくりと味わう。


 コクッ、コクッ、コクッ……


「はぁ~美味しい」


 いつも飲んでいるはずだが、寝覚めに頂く水は、これまた格別であり、思わず感動を口にしてしまう。

 成都の井戸水は、成都平原を取り囲む龍門山脈などの高山由来の地下水であり、清冽で含有物も豊富だ。

 それでいて嫌味が無く、驚くほどスーッとのどを通って体内に浸み渡る。

 一言で表すなら爽快か。

 水には煩い諸葛亮が始めてこの水を飲んだ時など、目を閉じ天を仰ぎながら大きく深呼吸してその余韻を楽しもうとするほどだった。


 益州の平野部は盆地特有の濃霧が発生しやすく、上空に雲が無くても霧が陽光を遮って一年の殆どを曇天が占める。

 そんな鬱々とした環境で暮らす人々が憂さ晴らしに求めたのが、山椒や生姜をふんだんに使った刺激の強い料理や、明日の生活をも運に任せ破滅的な緊張感を楽しむ博奕、そして、この水なのではなかろうか。


 水を張った桶を覗くと、そこには可憐な少女の貌が揺らめく。

 水鏡を見つめながら、その美しく長い黒髪を櫛で解いていく姿は、辺りを包む霧と相まって神秘的で思わず手を伸ばしたくなる眩しさがある。 

 丁寧に解いた髪を絹紐で後ろに束ね、衣服が汚れぬように前掛けを装着すれば準備は整った。


「よし!」


 身支度が終ると、彊は速やかに朝掃除に取りかかる。

 養父と義叔父の部屋を除く、屋敷中の埃を払い落とし、床を掃き清め、塵も残さず拭き取る。

 隅から隅まで徹底するが、毎日しているのでそれほど時間はかからない。

 屋敷内の掃除が終わると、今度は外だ。

 最初に庭内にある馬小屋に向かう。


「春麗、おはよう」


 目を開いたまま立って眠っている養父の愛馬は、彊に名前を呼ばれると、その虚ろな目に光を戻す。

 そして、ゆっくりと首をもたげて彊の顔を見てから、のっそりとした動きながら馬小屋から出てくる。

 その間に飼料を用意し、井戸から水を汲んできて馬用の水桶に注ぎ込んだ。


「今日もいっぱい食べてね」


「ヒヒーン」


 春麗は大きく嘶くと、真っ先に水桶に顔を突っ込んで一気に飲みこんでいく。


「ふふふ、やっぱり目当てはそっちなのね……」


 普通の水だと、用意されてもすぐに飲もうとしない事が多かった春麗だったが、益州に入ってからは、目の色を変えて水を飲むようになった。

 当然、一杯だけでは足りないので、彊は春麗が水を飲んでいる間に、おかわりを汲みに行き、ちょうど一杯目を飲み干した頃には、次を注いであげるようにしている。

 そうして、春麗が食事を摂っている間に、彊は馬小屋に入り、平桶の中にある糞尿を片づけ、ごみを掃き出し、藁を交換するのである。

 馬小屋の掃除が済むと、春麗は入れ替えたばかりの藁の上で横になって、気持ちよさそうに眠むる。

 それは、彊にとって、春麗の何よりの感謝の表現に感じるのだった。


 馬小屋が終われば残るは庭内だけ、落ち葉を集め、草の芽を抜き、最後に前庭に敷かれた玉砂利を取り替える。

 それは、屋敷を訪ねる人からすれば、足を踏み入れるのを躊躇うほど清美だ。

 掃除が済んだら朝食の支度だ。


 彊は料理がまだまだ不得手だが、麦粥に野菜の塩漬けや酢の物を添えたり、時には果物を付けたりと、少しでも変化をつける様にしている。

 その頃には、養父が起床するので甕に水を張り、着替えを用意しておく。

 養父と共に朝食を終えると、食器を片づけ、洗濯をして漸く朝の日課が終わる。

 誰に言われることも無く、彊は自ら進んでこれらの家事をこなしているのだ。


 彊は養父の役に立ちたいと一途に思っていた。

 長坂で幼馴染の達と共に命を救われ、育てて貰っている恩に報いる為でもあるが、それよりは、劉備という強大な悪に対し、正義を貫こうとする男を支えたいという思いが強かった。

 その思いは、諸葛亮が劉備との戦いで右足を無くしたことや、暫く行方を晦ました後、感情まで無くして帰ってきたことで決意に変わる。

 どんな辛い体験したのか彊には分からないし、聞いても答えてはくれなかったが、自分が側にいなければ、今度こそ、その命を失うのではないかと不安だった。

 それ故、養父が益州に行くと聞いたときには、涙を流して必死に懇願し、同行を許してもらったのである。

 しかし、彊は頭の回転は早いものの、勉学については読み書きが出来る様になったばかりで、養父の事業を援ける能力は未だ備わってはいない。

 一度、自分の容姿を役立てないかと思い立ち、真剣に美人計を提案してみたが、「お前を使い捨てにするつもりはない。二度と言うな!」と叱られてしまった。

 よって、日々の勉学に励み、養父の時間が空くと勉学を見てもらっている。

 そして、それ以外の時間は、生活面だけでも養父を支えられるように家事に精を出していた。

 そんな彊の献身に養父は厳しく勉学を指導することで応えた。


 あるとき、彊が「正義とは何か」と養父に尋ねた。

 それに対し養父は、楚の石奢の逸話を例に挙げた。

 石奢は春秋時代の大国・楚の大臣で、殺人の罪を犯した者が自分の父親と知ると、自ら主君に上奏してその罪を被り自害することで、父への孝と、法への忠を尽くして正義の士と賞賛された人物である。

 その話を聞いて、彊は素直に感嘆したが、養父は首を横に降った。

「犯人である父親を隠し、子の自分がその罪を被るというのは、罪を犯した者が罰を受けるべき法の正義を捻じ曲げるものであり、庶民ならいざ知らず法の番人である大臣が取るべき行動ではない」

 と石奢を批判したのだ。

 その上で、これは法家的な考えで、仁義で是非を判断する儒家思想においては今も石奢の行動は賞賛されていると説明し、

「正義などと大仰にいっても、結局は、その人、その国の考え方によって変わってしまうのだ。大事なのは、自分の立場を理解し、その信条に基づいて倦む事無く行動することであり、それが正義である」

 と諭した。

 そこで彊が「父上の信条はなんですか」と問うと、養父は『信賞必罰』と答えた。

 勉学を始めたばかりの彊は、養父の言っていることがよく解らなかったが、その言葉は一言一句違わず覚えており、後年、諸葛亮の思想を受け継ぎ、まさに法家としての立場に立たされた彼女は、その言葉の重さを知ることとなる。

 それはさておき、養父が強への指導をするときは、こういった為政者向けの勉学が中心であった。




「では行ってくる」


「はい。いってらっしゃいませ!」


 養父は登城するため家を発ち、彊は、その姿が見えなくなるまで見送った。

 養父は、益州での調略の第一歩を踏み出したのだ。

 自分も早く役立てるようにならねばと焦りを感じると同時に、やる気も出て来た。


「さて、私もがんばらな……きゃっ!?」


 振り返ると、いつも昼まで寝ているはずの義叔父の均が目の前に立っていた。


「お、義叔父様……おはようございます」


 突然現れた均に、彊は余所余所しい挨拶をする。

 彼女はこの男が苦手だった。

 日常から薄気味悪い仮面を被り、ろくに働こうともせず、自室に籠もっており、たまに屋敷内ですれ違っても挨拶を交わすくらいで会話にならないからだ。

 それに、あの仮面から覗く粘質な眼差しは目があっただけで寒気を感じる


「おはよう。やっと二人きりになれたね」


「えっ!?」


 彊は一瞬何を言われたのか分からなかった。

 普段、均から話しかけてくることがないため、意表を突かれてしまったというか、その言葉の意味が理解できなかった。

 そして、気付いた時には右手を掴まれていた。


「かわいそうに……こんなに霜焼けて……」


 他人の手を気遣う割に均の手は、本当に血が通っているのか疑うほど冷たく、しかも、妙に湿っていた。


「いやっ!」


 そんな手で撫でまわすように触れてくるのだから、彊は嫌悪感を露わにして掴まれた右手を振り解こうとする。


「くふふ、彊は本当に可愛いねぇ。」


「はなしてください、はなしてっ!」


 怪力の均に掴まれた彊の右手はそう簡単には逃れられなかった。

 ならばと、彊は以前、幼馴染の達に教えてもらった護身術を思い出し、均の片手を両手で掴み直して一気に捻り上げが、手応えが感じられなかった


「そんな!?」


 彊が見たものは、関節も無視して不自然に曲がる均の腕であり、黒い嗤い仮面の奥で細められた両眼から輝く赤い光だった。


「くくくっ、すごいでしょ~。僕の身体は一度腐ってるんだ。それこそ、口を開いただけで歯が抜け落ちちゃうほどにね」


 均は怪力を発揮するも、少女に力の差をわからせるべく、ゆっくりとその捻じ曲げられた腕を戻そうとする。

 彊は力で敵わぬと知るや脱力してその手を解放し、均が油断したところを、膝でその股間を蹴り上げた。


「そんな状態で、どうやって復活したと思う?……いや、復活自体は簡単なんだ。近くにある液体に漬かるだけでよかったんだから」


 彊は驚愕して、その事実を受け入れられず僅かに首を横に振った。

 急所をかなり強く蹴ったのに、均には、全く効かないのだ。


「答えは簡単……こうするのさぁ~」


 均の仮面が、カランと軽い音を立てて地面に落ちた。

 そこには幼さの残る青年の顔があり、意外と目鼻立ちは良かった。

 それが重力に従ってドロドロと下に崩れ始めていく。

 顎が融け出し口から歯がこぼれ、目玉が黒ずんで飛び出す――――


「ひっ」


 彊が悲鳴を上げながら仰け反ったので、均の手が離れて尻もちをついた。


「おっと……せっかく掴んでたのに離れちゃったね」


 均は再び元の姿に戻った。

 仮面を拾って懐にしまい、舌なめずりしながら両手を伸ばす。

 その標的は彊の手ではなく、胸襟であるのは明らかだ。

 月英に馬鹿にされたことで、均はきっちり予習をしていた。

 女性の身体が如何なるもので、どうすることが正解なのかを知ったのだ。

 玉蘭をただ殺してしまったことは残念だったが、目の前にはそれに劣らない美少女がいる。

 兄が事実を知れば、激怒するだろうが、実の弟と、養女を天秤にかければ、また許してくれるだろう。

 それどころか、夫婦仲良くしている様子を見せれば喜んでくれるかもしれない。


 均は体は腐敗から治っても、心は腐りきったままだった。


 彊は声もあげることも出来なくなっていた。

 目をきつく閉じ、口を強く結んで魔手が身体に触れる絶望を待つしかなかった。

 脳裏には養父や達の顔が浮かんだ。


 助けて! 父上……、達……


 ふと、地べたに着いている手に振動が伝わるのを感じる。

 最初は、恐怖で自分の腕が震えていると思ったが、だんだんそれは強くなっているので、別の何かが起こっていると分かった。

 視線を上げると、均の背後に猛然と駆けてくる春麗の姿を見た。


 春麗、駄目っ! 来ちゃダメ! 貴女まで殺されてしまう――――


 声にならない悲鳴を上げつつ、せめて均の態勢を崩そうと足払いを仕掛ける。


「へっ?」


 それは、騒音に気が付いて後ろを向いた均の不意を突く形になり見事に決まった。


「ばうっ!」


 態勢を崩された均は碌な防御も取れず、蹴りだされる春麗の前足を顔面に受けることになり、面白い様に首から上が千切れ飛び、塀に当たって地面に転がった。


「春麗、ありがとうっ!」


 窮地を救ってくれた春麗に彊は抱きついた。

 しかし、春麗は冷静で、ピクピクと痙攣している首のない体に近づいていく。

 そして、前足を大きく上げると――――


 ドーンッ、ドーンッ、ドーンッ、ドーンっ、と、何度も念入りに股間を踏み続けた。


 やがて、均の身体が再生を始めてもそれは止まらず、何百、何千と執拗にそれは続き、首だけながら意識のある均に「猛省しますから、そろそろ止めさせていただけませんか?」と、懇願された彊が止めに入ることでようやく収まった。


 この一件以来、均は彊に手出しすることは無くなり、彊は春麗と種族を越えた友情で結ばれ心友となるのだった。


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