闖入者
荊州を代表する若き有力者たちが集い、荊州の今後を決定する会議で、諸葛亮は独立抗戦でも北の大勢力である曹操への降伏でもなく、今は荊州南部の小勢力でしかない劉備への降伏を主張した。
会場は騒然となり、諸葛亮の正気を疑う者や劉備の介入を疑う者が現れて、深夜であるのに騒ぎ声が外まで漏れる程であった。
「静まれっ! 静まれぃ〜!」
主催者の藩濬が慌てて収拾にかかるが、諸葛亮を問い糾そうとする者や、激しく憤る者が出たことで簡単には収めることができなかった。
その間、騒乱の原因となった諸葛亮は一切口を開かず、皆が静かになるまで待つ態度をとった。
相手が受けなければ、会話は成り立たないのが道理。
相手が聞く耳持たなければ、いくら正論を吐いても説得は出来ない。
暴力で解決する手っ取り早い方法もあるが、それでは正議を示せない。
日常の場面ならそのまま喧嘩別れで済む話だが、ここは弁論の場であり話し合いで解決しなければならない場である。
幸い相手は此方の話に興味がある様子。
ならば、相手が此方の話を聴こうとするまで待てば良いのだ。
諸葛亮が沈黙を貫いたことで、彼を糾弾しようとする者たちは困惑したが、やがて不満を抱えつつも静かに話を聞く態度を示したので、結果的に騒ぎは早々に収まった。
「諸葛孔明、お前まで劉備に降伏せよとはどういうことだ?」
藩濬が、先程劉備への降伏を主張した向朗を一瞥してから諸葛亮に問いかけた。
向朗が劉備と通じていることは誰の目にも明らかだが、まさか諸葛亮まで劉備への降伏を主張するとは思いもしなかった藩濬には、他の参加者と同様に諸葛亮への疑心が芽生えていた。
諸葛亮はそんな藩濬の疑いの目に応じてゆっくりと頷き、静かに語り始めた。
「私は、先日まで劉備の下で働いていました」
ここ半年間の諸葛亮の動静を知らない一部の者たちが反応するが、藩濬が手で制止したので、諸葛亮は話を続ける。
「劉備の軍と共に曹公の南征軍から逃れ、襄陽から長坂を経て夏口へ至り、そこで私は江東へ使者として赴き、劉備と孫権の同盟を成立させ、赤壁での勝利に貢献したのです」
相槌を打つ者、ただの自慢話かと呆れる者、感情を表さない者、受け取り方は様々でも、参加者たちの中で諸葛亮の話に意識を傾けない者はいない。
あの酔っぱらいの蒋琬までもが据わった眼でその先にある男の話を聞いている。
「そして、その間、たくさんの荊州の民の死を目にしてきました」
皆、俯いたり、目を閉じたりした。
参加者の中には、親兄弟を亡くした者もいるのだ。
それだけ大きな戦乱が荊州で起こり、今も続いているのである。
「その全てが無駄死にだった……」
諸葛亮の口調が急に激しくなった。
それまでしんみりとしていた参加者達はその変化に驚き、いきなりどうしたとざわめきが起こったが、今度は諸葛亮も皆が静まるのを待つ事なく話を続けた。
「劉備をまるで聖人のように仰ぎ、曹公の侵略から共に逃れようと付き従った十数万の民を、奴は庇護するどころか、自らを守る盾にして曹公の兵に蹂躙させた。生き残った者たちも、美しき者は江東への貢物にされ、武の素質ある者は心失くした兵士にされ、凡人は奴隷とされ、臆病者は調練の的とされ、重病者や老人等の足手纏いは燃料にされたのだ」
「おお……」
「なんという……」
諸葛亮が暴露する劉備軍の実態に、それまで劉備の情報統制によって事実を知らなかった参加者たちは、皆、怒りすら忘れて絶句し、震えた。
「な、なればこそ、一刻も早く曹公に降伏し、劉備の討滅に尽力すべきではありませんか!?」
劉備軍の非道を知り、堪りかねた様子の習禎が劉備の討伐を訴えるが、諸葛亮は首を激しく横に振る。
「無謀だ! 劉備は強い、途方もなく強い……。まるで予め全てを知っているかのような先見と決断力。元戎という恐るべき武器を装備した不死身の軍団。力に頼らず状況によっては搦め手も使う柔剛一体の戦術。その上、誰よりも用心深く一切の油断がない……。私は一度戦ったが、奴の手のひらの上で踊らされるだけで相手にすらされていなかった。そして真っ向から戦えば、あの韓太守(韓玄)のような名将でさえも一戦で敗北し、満足な抵抗も出来ず信頼厚いはずの部下に寝首を掻かれてしまうのだ……。劉備の軍は、戦においてはまさに完全無欠。決して戦ってはならない!」
誰も反論しようとする者はいなかった。
諸葛亮の言葉には、地獄を体験した者だけが出せる感情の重みがあり、聞き手はその声から彼が味わった恐怖と絶望を嫌というほど推し量ることが出来たからだ。
「無念だ……我ら荊州学派が同胞の敵も取れず、ただ侵略者に降るよりほかに手はないのか……」
それまで血気盛んに抗戦を訴えていた劉敏が虚しげに呟いた。
予め曹操側の人間と連絡を取り合っていた習禎さえも、今は自信なく曹操の再遠征まで耐えきれるかを頭の中で計算しており、独立に向けて密かに前政権に仕えていた将兵に呼びかけていた廖立は、劉備軍と交戦した場合の勝算が立たず、頻繁に舌打ちを繰り返し、膝を揺らしている。
会場内はすっかり意気消沈してしまい、暗闇で殆どの者が俯く中、火鉢の中で弾ける木炭のパチッ、パチッという音だけが唯一静寂から救っていた。
「ぶふっ、……ぷぶっ……」
そこに、場の雰囲気から察すれば不謹慎にも程がある笑いを堪えるような声が漏れた。
「今、笑ったのは誰だっ!?」
その笑い声が、真剣に悩む自分たちを馬鹿にしているように受け取った藩濬が勢い凄まじく立ち上がり、向朗に向かって怒鳴った。
しかし、当人は困惑顔で笑い声が聞こえた方を向いており、藩濬は慌ててその視線の先を追った。
「諸葛孔明……!?」
そこに座っていたのは諸葛亮だった。
相変わらず険しい表情のまま腕組みして座っており、とても会議を嘲る様子ではなかった。
先ほど自分たちを笑った向朗でもなく、声が聞こえたところに座る諸葛亮でもない。
藩濬は当惑し、他の参加者も犯人は誰かと騒ぎ出した。
「何故嗤う? 皆、真剣に荊州を憂いているのだぞ!?」
すると、状況を見かねた諸葛亮が口を開き、背後の男を叱った。
皆の視線は諸葛亮に隠れるようにして座る怪しい仮面を被った小さな男に向った。
「ぷぷぷっ……だってぇー、こんな状況なのにまだ劉備様と戦おうって人がいるんでしょ? 馬鹿だよねぇ〜くふぅ~~うぁはははは〜〜〜」
「なんだとっ!!?」
正体が露呈したことで、誰憚ることなく腹を抱えて笑い出した小男に、出席者たちは片膝ついて立ち上がろうとし、場内は再び一触即発の状況となった。
すぐにでも、気の短い劉敏や鄧方が殴りかからないのは、単純に自分たちと小男とのあいだに、得体のしれない武威を放ちだした諸葛亮が居るからだ。
「均よ。劉備の近くにいたお前と、離れて探っていた皆とでは、その評価が異なるのは当然だろう? 自分が知っていることを相手も知っているとどうして決め付ける? 少しは人との関わり方を学べ! それに、此処に居るのはお前の先輩になられる方達だ。せめて口のきき方には気をつけよ!」
「はーい。ごめんなさーい」
諸葛亮が声を一段と重くして叱ると、名を呼ばれた小男は、その矮小な体をさらに縮こまらせて、素直に謝罪した。
「愚弟が失礼をしました」
床に額が着かんばかりに頭を下げた諸葛亮とその弟・均を前に、憤懣やるかたない様子の出席者たちも上げた拳を下げざるを得なくなった。
しかし、均の邪魔が入った事で、参加者の中には冷静さを取り戻す時間が得られ、諸葛亮の主張に疑問を抱く者が現れた。
「劉備に降伏したとして、如何にして荊州を守るのだろう……先ほどの話を聞く限り、劉備は荊州の主に相応しいとはとても思えないな……」
独り言のようにそう呟いたのは、いままでずっと沈黙を貫いていた宗預だった。
それは諸葛亮に挑もうとする野心からではなく、単純に疑問を投げかけただけだったが、出席者たちは宗預の意見に同調していった。
「荊州は我々荊州学派の手で守るのです」
対して諸葛亮は、元の穏やかな口調に戻って持論を展開していく。
「徳豔(宗預の字)のいうことも尤もですが、ひとつ誤解をしています。これまで劉備の軍が悪逆非道を行ったのは、偏にそうするしか手段がなかったからです。元々、劉備は放浪の身であり、その配下も武辺者ばかりで文官は殆どいませんでした。まして、十万の民を庇護しつつ、戦の準備や、他勢力との交渉まで行うには圧倒的に人材が足りなかったのです。そんな状況ですべての民を守り抜くことなどできましょうか? 劉備は豫州や徐州を統治していた時代に陳長文や袁曜卿らを登用して人並みに治めていました。おそらく、劉備は今の状況を招いてしまったことを歯がゆく思っているはずです。そして、そこに付け入る隙があると私は確信します!」
劉備軍の非道を散々暴露しておいて、こんどはそれを擁護しようする諸葛亮に、参加者たちから容赦なく非難や反論の集中砲火が浴びせられた。
それを諸葛亮は一つ一つ丁寧に受け答えし、理詰め一辺倒にせず、道義に反する事も情に訴えて説得していったので、最後には皆納得していった。
「劉備が行った非道は、絶対に許すことは出来ない。しかし、今の我々に劉備と対決する力は無く、意地を張って抵抗しても徒らに民の犠牲を増やすだけでしょう。ならば、敢えて劉備に降り、その配下の文官が少ない事に付け込んで政治の要職に我ら荊州学派の出身者が就くのです。あとは皆の得意分野でしょう? 次第にその権力を広げていき、最終的に劉備陣営を乗っ取る! いや、この際、誰が一番に権力を握るか皆で競い合おうではありませんか!?」
諸葛亮が策を語り終えると、辺りは静まり返っていた。
誰かが、ふぅーと溜息を漏らしたが、それに憂いや迷いは籠っていなかった。
出席者たちは、一様に目を怪しく輝かせ、口元を歪ませている。
「反客為主(敵に降り、その内部から乗っ取りをかける計略)か……流石だな! 諸葛孔明っ!!!」
藩濬が感心するように諸葛亮を誉めた。
自ら主宰した会議で、遂に結論が出たのである。
異議を唱える者はもう出なかった。
皆、この結論に満足しているのだ。
荊州学派が再び一つになり、劉備の下ではあるがその政治を主導していく。
半ば荊州の再興を諦めていただけに、これに胸躍らぬ者などいようものか。
皆、希望をもってその結論に同意したのだった。
だが、諸葛亮は一つ嘘をついた。
徐州時代と今の劉備は、全く人格が違うという真実を伝えなかった。
それが、後年、荊州に大きな悲劇をもたらすとは、此処にいる誰にもわからないことである。
最大の懸念であった方針さえ定まれば、その後の具体策を決めていく作業は、優秀な人材が集うこの場では容易な事であった。
夜明け前には、この場にいる者たち全てに役割が振られ、藩濬が政治、習禎が外交、鄧方が軍事、廖立が劉備の監視をそれぞれ主導する事が決められ、空の端が白ずむ頃には、荊州全土の荊州学派への伝達として、劉備が南荊州を制圧する前に、江陵で荊州学派が結集する事、劉備が南荊州制圧後、荊州学派が揃って劉備に謁見し仕える事が決められて、そのまま、主催者の藩濬が厳かに締めの挨拶をして暗夜の集会は夜のうちに終わるはずであった。
ドタドタドタツ!
慌ただしい足音と共に、外で見張りをしていた青年・達が会議場に駆け込んできた。
「緊急事態! 家の周囲を何者かに囲まれようとしています!!」
「なに!? 敵兵か?」
「達、不覚を取りましたね……普段の貴方なら、もっと早く異変に気付くはずでしょう?」
参加者達が狼狽える中、家主の馬良の側に控えていた少女・彊が達を責める。
確かに達は、自分だけ会議に出席できない事に不満を抱いていたが、それでも注意は怠らず見張りを続けていた。
しかし、一度だけ会議場から郝普が外に出ようとして引き留めようとした際に注意を取られ、会議の前日から近くに潜んでいた密偵の動きを見逃してしまったのだ。
「申し訳ありません」
達は諸葛亮に向かって平伏した。
「気にするな……すべて予定通りだ」
「「えっ!?」」
諸葛亮はそう言うと、驚く二人の子の肩を優しく叩いたが、その視線は会議の主催者である藩濬の方を向き、互いに頷くと、玄関に向かって歩き出した。
明け方とはいえ冬の外はいまだ薄暗く、彊が素早く松明を用意し、達と先行して篝火に火をつけていく。
全員が玄関に着く頃には次なる異変が始まっていた。
ドーン ドーン と激しく門を打つ音が響いてきたのである。
馬氏の邸宅を守る頑丈な木製の門は、それでも激しい衝撃の前に長くは持たず、皆が外に出た直後に閂が破砕してしまった。
荒々しく門が開かれ、外から異様な熱気と人間の汗のような臭いが流れ込んでくる。
…………………………!?
皆が緊張で息を呑む中、姿を見せたのは、なんと、上半身裸の屈強なる男達だった。
素手で門をこじ開けたのか、冬のいまだ日も出ていない時間に全員汗だくになっており、一人は門を壊す槌代わりにされたのか頭部から血を流している。
篝火に照らされテカテカと輝く闖入者たちの肉体に、皆は眩しくて目を覆い、放たれる酸っぱい臭いには、皆堪らず口元を覆った。
大股で歩調を合わせながら続々と邸内に入ってくる上半身裸の屈強なる男達は、庭の中央付近に至ると縦十列で整列していき、横十列の百人に達したところで漸く行列が途絶えた。
しかし、当然それで終わりである筈がない。
「「な、なんだ、あれはっ!?」」
門外の闇の中に大きな影が現れ、皆が驚きの声を上げた。
その影はゆっくりと門をくぐり抜け、庭の中に侵入してくる。
篝火によって照らし出されたその正体は、四人の上半身の屈強なる男達に担がれた輿だった。
白鳥の羽で飾られた輿の上には、白を基調とした上品で煌びやかな衣装を纏うも、本来なら肌が露出するはずの頭、顔、首、腕など全てに朱色の包帯が巻かれている人間のようなものが載せられており、皆の視線を一点に受け、その輿は、縦横十列で整列する上半身裸の屈強なる男達の前に運ばれた。
そして、所定の位置であろう上半身裸の屈強なる男達の列の前中央に輿が到着した時、列の端にいる上半身裸の屈強なる男二人が、いつの間にやら銅鑼を取り出し、間髪入れず力いっぱい交互に打ち鳴らす。
ジャン、ジャン、ジャン、ジャ―――ン……。
ジャン、ジャン、ジャン、ジャ~~~~~ン……。
その銅鑼を合図に、上半身裸の屈強なる男達は縦横十列から縦五列横二十列の横列へと変化していき、さらに横列の両端が前に、中央が後ろに移動し、見事に鶴翼の陣形が完成した。
その間、輿は微動だにせず、鶴翼の陣が完成すると輿が丁度鶴の頭の位置になった。
「「「 覇っ!!! 」」」
百を超える上半身裸の屈強なる男達が絶叫し、その筋肉を誇示する姿勢を決めた。
それは、一人一人は異なるものの、全体として見れば、まるで鶴が今まさに飛び立たんとする様を表していて…………美しい。
それを呆然と眺めていた荊州学派の面々も、暫らく沈黙したあと、その演出の素晴らしさに自然と拍手を送っていた。
そんな、いつまでも鳴り止まない拍手の中、諸葛亮は一人無感動のまま淡白な拍手をしていた。
既に、輿の上の人物に見当がついているようで、拍手が小さくなり、やがて収まると、闖入者の前に進み出た。
「これは、これは…………赤壁英雄、周公瑾の登場とは……」
「なに!? 周公瑾だと!?」
「あれが曹操の水軍を破った孫権軍の都督だって!?」
諸葛亮の言葉に、皆、我が耳を疑うように反応する。
劉備に降伏すると決めた今、一番会ってはならない人物が目の前にいて、しかも上半身裸の屈強なる男たちを連れてきているのだ。
動揺してしまうのも無理はない。
その反応が面白いのか周公瑾と呼ばれた輿の上の物体は、うれしそうに口を開くと、ひどく聞き取りづらい掠れた声で応えた。
「久しぶりやなぁ……孔明っ!!」
先日の大戦で自軍を勝利に導くも、炎に飲み込まれ、全身に大やけどを負った男は、哀れ自慢だった美しい容姿に加え、美声も失っていた。
しかし、自身の美への未練は既に失せたかのように揚々としており、気色悪い包帯に覆われた顔面の隙間から覗く目はギラギラとして、見つめる者に戦慄を感じさせる狂気があった。
「まさか生きていらしたとは……閣下の生命力の強さには、この孔明、感服いたします」
慇懃無礼にその健在を祝う諸葛亮に、周瑜は最初憮然としたが、すぐにまた意地悪そうな笑みを浮かべ語りだした。
「貴様のおかげで死にかけたわ! ……やがなぁ……あの日、火に囲まれて自身の体を焼かれていく中で、私は最高の美を知ることができたぞ!」
「ほほう。それはいったいなんですかな?」
「ふふっ……見せてあげよう!」
周瑜が目配せをすると、側にいる上半身裸の屈強なる男が門外から一人の男を連れてきた。
酷く足を引き摺りながら、ふらふら歩く男は松明と瓢のようなものを持っており、その顔面は何度も殴られたのか判別できないほど腫れ上がっていた。
「か、郝子太殿!?」
その男の正体にいち早く気付いたのは馬良だった。
「なんと……それでは彼奴が周瑜に密告したのか!?」
「どうりで、やけに江東の肩を持つわけだ」
「愚かな……」
荊州学派の中から非難の声が上がるも、すぐに収まって皆睨み殺すようにその視線を郝普に向けた。
その今にも死のそうな男から、瓢と松明を受け取った周瑜は、まず瓢に口を付け、ぐいと中身を呷ると、松明を自身の目の前に持ち、すぅーと鼻から空気を取り入れ、胸を膨らませながら仰け反ると一気に口内の液体を吹き出した。
プブーーーーーッッツ!
「「「 おおおおお!? 」」」
周瑜の口から吹き出した液体は松明の火に引火して盛大に燃え上がり、郝普を飲み込んだ。
「じぇあっ、じぇ゛っ、じぇ゛あ゛~~~~っ」
火だるまになった郝普は必死に火を消そうと暴れるが、上半身裸の屈強なる男達から暴行を受けた際に、彼らの肉体美を際立たせる油が大量に付着してしまったために消えることはなかった。
当然、周瑜の下僕たちが助けに動くことはなく、荊州学派も裏切り者と見放したため、無念地面に倒れて蹲り、彊が見かねて助けに入った時には遂に動かなくなってしまった。
「どやっ! どぉやーー! この色、この形、この変化! すべてが美しいと思わんか!?」
人が火に焼かれて悶え苦しむ一部始終を見せつけて、狂った美に憑りつかれた男は目を見開き、歯をむき出して愉悦に浸っていた。
「それで……まさか、我々の前でこんなものを見せにいらしたわけでは無いでしょう?」
諸葛亮が冷たく問いかけると、周瑜はそれまでの感情を一切捨てたかのように真顔に戻った。
そして、だらんと下げていた右手を挙げて諸葛亮を指さすと、その表情は憤怒に染まり、大きく口を開いて絶叫した。
「決まっておる! 孔明ぇ~、貴様と決着をつけるためやっ!」
その声を合図に、それまで決めの姿勢を取っていた上半身裸の屈強なる男たちが一斉に動き出した。
それまでの鶴翼の陣が中を空けた半円のような形になり、外に出て行った一人が小さな台を運んできてその半円の中央に置き、その台の前に輿から降りた周瑜が立った。
「孔明! 貴様が私の美に興味を持たんように、貴様が企むことに私も興味はない。貴様らがいくら努力したところで、この周公瑾ある限り荊州の勢力図は変わらん! やが、私には野望がある。荊州に残る曹操の兵を淮河より北に追い払った後、益州を制圧して曹操と天下を二分するんや! そのために孔明、私と手を組まんか!? 私はお前の力を十分評価しとるつもりや、その智謀・武勇比類なく、法に通じて私欲も無い、まさに乱世で国を守り、民を安んずる事ができる最高の人材や」
「お褒めに預かり、恐悦至極……」
「お前だけやない。 ここにいる荊州学派の逸材たちもみんな私が面倒を見たる。江東の田舎者より優秀なんやから出世は思いのままやで! もし、孫権のうすら馬鹿が嫌なら私に仕えるがいい。きっと厚遇してみせるわ!」
周瑜の勧誘に、皆、沈黙し拒否の目を向けた。
勧誘自体は悪くはなかった。
こちらの才能を認めたうえでその優遇を約束してくれているのだから。
残念なのは、たった今、仲間を裏切って自分に協力してくれたはずの郝普を集団で暴行し、最後には裏切った仲間の前で、愉しみながら焼き殺そうとしたことだけである。
「なんや、その目は!? そうか、私が信じられへんか? もうええわっ!」
一人勝手に結論を出し、怒り狂うその姿に、かつての優雅で理知的な周瑜の面影はなかった。
「孔明、私と勝負や!」
「暫しお待ちいただきたい!」
せっかちに決戦しようとする周瑜に諸葛亮が待ったをかけた。
「なんや!?」
驚く周瑜を見もせず、諸葛亮は荊州学派のいる背後を振り返った。
「この中に荊州学派になりすまし、彼らと通じている者がいます」
諸葛亮に皆の視線が集まった。
そして、それは今までの会議中なんの発言もせず俯いて震えていた男に移り、藩濬が声をかけた。
「殷孔休、どうして先程から俯いてばかりいるのだ?」
名を呼ばれた殷観(字は孔休)はビクッと反応し、恐る恐る顔を上げた。
会議中は部屋が薄暗かったため気付かれなかったが、篝火が焚かれた此処では詳細まで顔の判別がきく。
「ああっ、この者は、殷孔休ではない!?」
荊州学派内で一番広いの人脈を持つ馬良が、すぐに偽者と見破った。
荊州学派の視線が一斉に周瑜へと向けられた。
要するに、この殷孔休の偽物こそ周瑜が仕込んだ本当の間者であり、郝普はその偽装のための裏切り者に仕立て上げられたというわけだ。
「くふふっ、バレたか……さすがは孔明よ。その者の名は殷徳嗣。お主らのよく知る殷孔休とは遠い親戚や」
観念したのか周瑜が紹介すると、殷礼(字は徳嗣)はそそくさと周瑜の下に走った。
敵の密偵が殷観の血縁者だと知り、荊州学派の面々はその顔が似ていることに納得したが、では本人はどうしたかといえば、あとで分かったことは、会議への招待状が一通だけ周瑜の手に渡っており、当然その宛先だった殷観には届いておらず、本人は会議の開催さえ知らなかったのであった。
それにしても、裏切り者とはいえ荊州学派の出身者を良い様に弄んだ周瑜と、その配下の上半身裸の屈強なる男達がこの場で許されるはずもない。
周瑜たちが持参した台の上で行われた力と力のぶつかり合いは、荊州学派の先鋒を務めた不気味な仮面をかぶる小男によって勝ち抜かれ、周瑜側が屈辱の全敗で幕を閉じた。
主力精鋭の腕を数本折られ、終いには大集団が小集団に集団暴行を受ける形になり、滅茶苦茶にされた周瑜だったが、その後、曹操の残存兵を荊州から追い出す役目はしっかりと果たし、天下二分の野望実現に向けて準備を始めた直後に逝った。
後に、周瑜の死を聞いた諸葛亮は語った。
「彼とは互いにひかれる所があった。おそらく前世は同じ国に仕えて互いに功を競い、あるいは助け合ったに違いない。彼が呉の孫武なら私は呉員、彼が韓信なら私は蕭何か。いずれも主君に恵まれず苦労するが、それでも彼が同志だったならどんなに頼もしいことだろうか」と。
戦術を美術に昇華させた希代の名将は、こうしてその生涯を終えたのである。
【周瑜 字は公瑾】
孫氏2代に仕えた才色兼備の将軍。赤壁の戦いでは火計を用いて曹操軍を破り歴史に名将としての名を遺した。ただし、人格には多少問題があったようで、禁止されているにも関わらず、勝手に奴隷を保有していたことが、その死後、ひねくれ者の主君によって示唆されている




