降伏論
年が明け、最初の新月を迎えた夜。
暗夜の集会を主催した藩濬は、誰よりも早く馬氏の邸宅に着いた。
会場の準備は既に整っており、邸宅の主・馬良とその客人で顔見知りでもある少年と少女に挨拶を済ませて会場となる座敷に入り、主催者席に座ると、そのまま黙想して参加者が揃うのを待った。
頭の中にあるのは会議の成否のみ。
曹操、孫権、劉備の三勢力に乱入され、荒廃していく一途の荊州を救う道は、前州牧劉表の遺産である荊州の知識人層、即ち自分たち荊州学派が行動を起こす以外にはない。
荊州が他の勢力の占領下にあっても、その政治・軍事の末端を担っているのは荊州学派の出身者であり、一致団結して行動すれば荊州の情勢を激変させるだけの力が荊州学派にはあるのだ。
そのために、危険を承知で荊州劉氏滅亡の混乱で各地に散らばった荊州学派を代表する同志に呼びかけ、今日という機会を作り出した。
どんな議論が交わされ、どんな結論が出ようとも、この会議で出た結論は荊州の総意として実行される。
だが、もしこの会議で結論が出ることなく解散になれば、此処に集まった荊州学派の実力者たちは皆無能と決めつけられ、今まで各々が培ってきた名声や地位を失ってしまうだろう。
そうなれば、現状、二度と荊州の民がまとまって行動する機会は失われ、何れかの勢力に個々で取り込まれていくか、消されていくだけだ。
故に、この会議は必ず成功させなければならないのだ。
極限まで集中していた所為か、藩濬が黙想を止めると既に会場には参加者が揃っていた。
初見、知己、親友、嫌悪、宿敵など多様な関係をもつ男達は、旧交を温める様子もなく、各々簡単な挨拶を交わしてから用意されている座に着いていく。
参加を呼びかけた者の内、姿を見せた者は半数程で、一人だけ招いた記憶のない者も居るが、主要な人物は襄陽の龐統を除いて参加している。
最後に入って来た男によって一悶着があったが、それも無事解決した。
官吏として既に業績を残し、此処に集った者達の中では頭一つ抜けているという自負はあるものの、曲者揃いの男達を上手くまとめられるか未だに不安が付きまとうが、ひとまず開会まで漕ぎ着けた事に安堵し、緩めた表情を引き締めた。
手を上げて合図を送ると、家主の傍で控える美しい娘が外の篝火を消して回り、場内は一層と暗くなった。
残る明かりは室内の中央にある本来は暖をとるための青銅製の火鉢だけとなり、そこから洩れでる僅かな光が、火鉢を囲んで座する参加者達の顔を怪しく照らし出していた。
これぞ、荊州学派名物『暗中討論』
それ即ち、外部からの光や音など邪魔を断って議論に集中し、良案を引き出すための荊州学派伝統の手法である。
「これより我らが荊州の行く末を討論する。皆、思うところを存分に語ってくれ!」
主催者の藩濬は、少し声を上ずらせながらも堂々と開会を宣言した。
「 「 「 応っ!!! 」 」 」
主催者の呼びかけに、一同雄叫びの如き猛々しい声で応える。
普段は静かな馬氏の邸宅が震え、堂内は熱気に包まれた。
此の夜、馬氏の邸宅に集った男達は、皆、自他共に認める荊州を代表する実力者たちである。
そんな彼らが荊州の今後を議論するということは、今夜、此処で荊州の命運を左右する重大な結論が出されるという事であり、それは前州牧の劉表の治世より育まれ中原に比肩すると評される荊州知識人達の総意となり、延いて荊州の今後の行方がここで決まるのだ。
そして、この重要な集会で発言してその意見を通すことができれば、その者は荊州における地位・名声を確立することが出来る。
つまり、次代を担う指導者も此処で決まる。
報恩、憂国、立身、忠義、野心、悪心、そして、復讐……、男達は様々な思惑を胸に秘め、長幼の序も忘れ、挙って持論を主張していくのだ。
まず先陣を切ったのは、やはり、若さ故の行動力か、この集会に招かれた中では最年少の劉敏だった。
齢二十に満たぬこの青年は、議論が始まる前までの緊張ぶりが嘘のように、居並ぶ先輩達の視線に臆することなく、場内に響き渡るほどの大きな声で発言する。
「今、我らが荊州は、曹操と孫権、そして俄かに勢力を拡大しつつある劉備によって蹂躙され、戦乱の渦中にある。州都襄陽は曹操の占領下にあり、その手下が我が物顔で統治している。曹操の軍と孫権の軍が争う江陵とその周辺では、今も女子供が犯され、老人は虐殺されている。特に、孫権軍の将兵は極悪非道で、荊州中の美少年、美少女を集めては性奴へと堕としていると聞く。我が故郷の零陵がある荊州南部に至っては、最早、その消息さえわからない……劉表様を始め偉大なる先人に守り育ててもらった一人の荊州民として、この状況を招いた事が屈辱の極みでならない!」
劉敏は、先ず荊州の置かれた状況を語り、それを恥だと断じた。
これは、成人したばかりの劉敏からして、先輩たちを露骨に非難することになり、会場に緊張が走った。
参加者の中には劉敏を睨めつける者も出て、険悪な雰囲気が会場を漂う。
しかし、睨め付けた者は、乏しい光源の所為で暗い室内にぼんやりと浮かぶ劉敏の形相を見て言葉を失う。
劉敏は、その貌を苦悶に歪め、充血した瞳が覗く絞られた眼孔からは滂沱と涙が溢れていたからだ。
それを見て、皆、劉敏の心情を察した。
劉敏は幼少より気性が荒く粗暴で、故郷の泉陵では名の知れた悪童だった。
十五歳で荊州をめぐる義俠の旅に出た際、江賊の略奪に遭う村に出くわし、正義漢の劉敏は江賊退治に貢献した。
しかし、そこで知ったのは江賊の正体が、江東で勢力を拡げている孫権の配下である事だった。
いくら腕っ節が強くても、軍には勝てない……
そう悟った劉敏は、以来、勉学に励むようになり、生来の負けん気の強さと、人一倍の努力で知識を深め、やがてその名声が同郷の先輩である蔣琬と並ぶまでになった。
学を修め、漸く荊州に奉公出来る。
これで侵略者から荊州を守るのに一役買える。
そうして仕官を決意した矢先、荊州は戦乱に巻き込まれ、前君主の劉表も斃れてしまった。
守るべき土地が余所者に踏み荒らされ、仕えるべき主は弑されてしまったのだ。
劉敏の喪失感は計り知れない。
反動はあまりに大きく、それ以来、今日に至るまで学問を捨て、ただ眼前に現れる余所者を殺害するだけの抜け殻の様な快楽殺人鬼に成り果てていた。
そんな男が正気を取り戻し、今や激情を前面に出して、荊州を救わんと持論を展開している。
荊州を取り戻す最後の好機を逃すまいと、必死になって訴えかけているのだ。
「曹操は先日の戦いで水軍を失って北に還り、孫権は未だ曹操の残留兵に手古摺っている。 劉備は劉琦様を擁立してはいるが、あの方は庶子であって傀儡政権に過ぎないし、その軍も南部にあって遠い。 今こそ、決起して郷土を荒らす侵略者共を駆逐し、劉表様の正統なる後継者であらせられる劉琮様をお迎えして、荊州を再び我等が手に取り戻す時だ!」
自らの決意を表明するかのように、荊州の再興を熱く語り終えた劉敏に、或る者は大いに頷き、或る者は腕組みしたまま天井を見つめ高まる感情を抑えようとしていた。
会場の熱気は若者の熱弁により最初から最高潮に達した。
劉敏の論は、荊州で育った者たちなら誰もが念頭に置く考えだ。
荊州人には、かつて楚と呼ばれ、時代の覇者としのぎを削る戦いを繰り返してきたという誇りと意地があり、中原への対抗心が強い。
今回、簡単に曹操に降伏したのも、世代交代の隙につけ込まれたからで、正々堂々戦えば追い返せると考える者が少なからず存在する。
劉敏の主張は、まさにそんな抗戦者たちの思いを代弁するものであった。
しかし、それは現実の情勢を加味していない理想論でもある。
曹操に降った劉琮を始め、蔡瑁たち有力者の協力を得ることも、劉備や曹操の軍と互角に渡り合うことも、まして、現状に満足している民達の賛同を得ることも、ここにいる誰もが冷静に無理だと初めから諦めている事だ。
勿論、劉敏も今の情勢から荊州の独立は極めて難しいと理解している。
それでも発言したのは、純粋に独立の望みを捨てず、一番若い自分が率先して発言する事で、先輩達の良案を探り出せないかと考えての事だった。
茶番というなかれ。
それを嗤う者は亡国を知らない道楽者である。
「劉君、威勢が良いのは結構だが、無茶な論を唱えて先輩を困らせるでない」
屹立して同意を求める劉敏をそう言って嗜めた廖立も、目端に涙を溜めており、俯き様にそっと袖で拭っていた。
彼自身、若い後輩から荊州を守ろうとする意見が出ることが嬉しかったからだ。
参加者たちは此処に集まるまでに戦火に焼かれた郷土を目にしており、荊州の滅亡を見た思いがして憂鬱になっていたが、若い世代が奮起する様子を見て荊州はまだまだ滅んでいないと実感したのだった。
廖立に制されて劉敏が座に就くと、それを見計って発言したのは習禎だった。
「抗戦論には無理があります。まず、荊州は曹丞相に降ったばかりであり、これに反旗を翻しては道義に反します。また、仮に挙兵しても、周囲は大勢力です。外交でうまく立ち回ろうとしても平気で裏切る者を誰が助けようとするでしょうか? 決戦して勝てば良いとなどとはいっても我らの中に韓信はいないのですから犬死するだけです、間違っても無謀な戦をしてはいけません。それよりも荊州の民をこれ以上苦しめない為には、進んで大樹の陰に寄り、庇護してもらうことこそ賢明な策です。荊州だけに視野を置かず、天下の趨勢を考えた決断を下すべきではないでしょうか?」
劉敏とは対極の穏やかな声で持論を展開する習禎の姿に、劉敏の決起論で興奮していた者達は徐々に落ち着きを取り戻していった。
チッと露骨に舌打ちの音が響くも、どこ吹く風と涼やかな表情の習禎は、発言を終えるとその秀麗な顔に柔らかな笑みを湛えて皆の反応を見守っている。
荊州一の良識人と呼ばれる男だけあって、習禎の案は面白味の欠片も無いが堅実そのものであり、大半の者が賛意を示す内容だった。
劉敏を始め露骨に不満な態度をとる者が出ようと、会議はそのまま習禎の案で議論が進んでいくかに見えた。
「習文承よ、大樹の陰に寄れと言うが、つまりそれは曹操に降れと言うことか?」
そんな中で異議を唱えたのは先程一悶着を起こした結果、末席に座わっている郝普だった。
「如何にも、それが天下から戦が無くなるもっとも近道になりましょう」
流れを邪魔されても涼しげな表情のまま答える習禎に、郝普は顔をしかめる。
「私はお前ほど割り切る事は出来ぬっ! 荊州に戦を仕掛けてきたのは曹操ではないか? どうせ降るならば孫権に降るほうが──」
ダンッ‼
突然、郝普の声を遮る様に大きな音が堂内に轟いた。
暗闇での突然の轟音に、一同驚きつつ集まったその視線の先には、床に拳を振り下ろした鄧方が居た。
「孫権にだけは断じて降らぬっ!」
鄧方は怒声と共に、只ならぬ剣幕で郝普を睨みつけた。
だが、郝普も引かない。
まるで使命を帯びているかのように、毅然と鄧方に立ち向かう。
「そ、曹操の下には中原や華北出身の文武百官が揃っている。今更我らが仕えても高位は得られぬ! それに比べて孫権は未だ江東しか抑えておらぬ。孫権に降れば必ず荊州を厚遇すると約束……いや、厚遇してくれるに違いない!」
郝普は持論を語り終えると、如何かなと参加者の顔色を伺うように周囲を見渡した。
しかし、彼に同調しようという者は現れず、一部の者達が皮肉な笑いを浮かべ、意中の娘も感心の無さそうな表情で目も合わせてくれなかった。
代わりに目が合ったのが先程話しを遮られた鄧方だったが……
「ぐぶぁっ!!?」
視界に鄧方の拳を捉えた瞬間、郝普は殴り倒されていた。
「この売国奴め! 遂に正体を現したなっ!!」
鄧方は鬼の如き形相で殴りつけた郝普に罵声を浴びせ、尚も蹴りを見舞おうとするのを周りが慌てて止める。
「止めよ鄧孔山! 此処は弁論の場である。いかなる議案も己が舌で解決せよ!」
すかさず藩濬が制すると、鄧方も落ち着きを取り戻し、素直に従って座についた。
「失礼した。ならば、郝子太の主張に反論する!」
威容を正した鄧方は、何とか身を起こして座につく郝普を見下ろすようにして対峙する。
「曹操を侵略者呼ばわりするが、孫権こそ親の代より再三に渡って荊州を攻めてきた仇敵である! 貴様は、まさか奴らによって黄将軍が討たれた事を忘れたのかっ!!?」
「そ、それはっ……」
それまで鄧方に圧倒されながらもなんとか持論を展開していた郝普だが、かつて荊州一の名将だった男の名を出されては言葉に詰まらざるを得なかった。
孫権の父親で偽帝・袁術の手下だった孫堅が、荊州に侵攻して来たのを返り討ちにして以来、十数年に渡って孫一族の侵攻を防ぎ、荊州の盾と謳われるも、昨年、遂に戦死した江夏太守・黄祖。
いまや勝者によってその名声は貶められ、器の小さい臆病な男に仕立て上げられてしまったが、彼の生前の功績を知る荊州の民は、最後まで規律を重んじ孤軍奮闘し続けた黄祖を今でも慕っており、殺害した孫権とその将兵たちを憎悪している。
そんな悪の象徴でしかない孫権に降伏しようという郝普の案は、荊州民の感情を逆なでするものであり、此処に集った参加者たちも皆呆れていたのであるが、流石に黄祖の元幕僚であった鄧方は我慢ならなかったのようである。
しかし、勘違いしてはならない。
鄧方は孫権を憎んでいるが、黄祖の敵を討つことに執着はしていない。
黄祖の下で厳しい薫陶を受けて鍛えられたこの男は、自らの忠義を全うすべく、黄祖が守ろうとした荊州の民こそ第一に考えた行動をするべきと考えており、荊州よりも己の栄達を理由に孫権への降伏を唱える郝普とは、志の高さが違い過ぎたのである。
そうして、すっかり大人しくなってしまった郝普など無視して、鄧方は持論を展開していく。
「孫権は親の代から何度も荊州に侵攻してきた。奴らとの戦で親兄弟を失わなかった者など江夏にはいない。また孫権は将兵を江賊に扮して長江を遡上させ、荊州の各地で略奪を働いていたこともわかっている。そんな外道の輩に降るというのは、荊州の民を進んで野蛮人の奴隷にするということであり、誰も望んではいないことだ。私が訴えることはただ一つ、先人の遺志を無駄にせず、荊州民が最も幸福を得る方法を論じるべきであり、その手段が徹底抗戦でも曹操への降伏であっても私は従おう!」
主張を終えた鄧方に、ただ一人を除く参加者たちが頷いて賛同を示した。
その郝普は、顔を真っ赤にして会場の外へと出て行ったが、もはや誰も見向きしなかった。
そうして、議論の行方は浮いたままだった習禎の曹操への降伏案に戻るかにみえた。
「どこに降ったとしても、当分、荊州は戦火からは免れぬだろう。事実、曹操に降った荊州の兵は、孫権との戦で矢面に立たされ、赤壁では炎に焼かれて川底に屍を沈められたではないか? 習文祥の案は些か楽観が過ぎる」
異論の声を上げたのは、習禎の隣に坐する廖立だった。
人一倍功名心の強いこの男は、それまで劉敏の抗戦案と習禎の降伏案を静観していたが、腹の中では主流となりうるであろう降伏案を論破しようと考えており、鄧方と郝普の介入でできた間を見逃さず、持論を展開し始めたのだ。
「あれは、曹公の軍に水軍が無かったからで、故意ではありますまい?」
すかさず習禎が反論するが、予め準備していた廖立は余裕を持って受け応える。
「いやいや、地の利を考えるならば、荊州は江東の上流を抑え、益州に攻め入るにも北方の漢中よりは道が広く大軍で攻めやすい。利用されないことなどあろうものか」
「それに、華北から派兵するには、莫大な兵糧と時間が要りますな」
降伏案を論破しようとする廖立の弁舌に我が意を得たとばかりに劉敏が相槌を打ち、廖立は舌の動きも滑らかになっていく。
「その通り。降伏すれば統一を目指す曹操によって我々荊州には兵役と重税が課されるのだ、その先に荊州の民の安寧などあるものか!」
「それは詭弁です。挙兵すれば戦になり、民にかける負担は曹公に降るよりも重くなりましょう」
「習文祥、お主は先ほど天下の為と申したが、曹操があと数年で天下を統一できると思うか?」
「それは、わかりませぬ……此度の南征に失敗した以上、五年は遠退いたやもしれませぬ」
「結構。私は、十年は遠退いたと思う。なぜなら曹操は統一の機を逃したからだ。統一事業というのは兵を用意すれば出来るものではない。昔、周の武王は商を滅ぼすのに十分な兵が集まり、士気も十分に高かったが時期尚早と攻めなかった。その時、商にはまだ味方する者が少なからずいたからだ。此度の曹操の南征も始めは華北を統一した勢いがあったので、劉琮様を始め戦わずして降伏する者が続いたが、赤壁での敗戦によりその機は潰えた。たとえ五年で南征の準備が整ったとしても、往時の勢いを取り戻すにはさらに五年はかかる。そして、十年も経てば今度は曹操の寿命が尽きるだろう」
「なるほど、せっかく曹操の為に仕えても、統一を前に曹操が死んでしまうかもしれないという事ですか……」
習禎は、廖立の主張の狙いを察すると反論することをやめた。
「左様。そして私は思う。他所に仕えて命を擦り減らすくらいなら、故郷の為に粉骨砕身して在りし日の荊州を取り戻す夢にかけようではないかと!」
「「おお!」」
習禎を論破しようとする廖立の主張に劉敏と鄧方が同意の声を上げた。
「わかりました。どうやら説得は難しいようですね……ならば、抗戦か降伏か、そろそろ決しようではありませんか!」
廖立によって奮起させられた抗戦論者たちを見て、習禎はその説得を諦めた。
しかし、抗戦案を認めたわけでも、形勢の不利に焦ったわけでもなく、彼は至って冷静であり、態々好戦者を説得する労を負わなくても、このまま多数決をとれば常識的に降伏案に決まるだろうと判断し、主宰者である藩濬に採決を促したのだ。
しかし、主催者である藩濬は首を縦に振る事はしなかった。
「未だ議論は煮詰まっていない。結論を急ぐ必要はない」
習禎と目を合わさずそう答えた藩濬の視線は、諸葛亮へ向けられていた。
荊州学派の中でもずば抜けた有力者であるにもかかわらず、会議が始まって以来まだ一言も言葉を発していないその男は、藩濬の視線にも何の反応を示さず、ただ腕を組んだまま視線は遥か遠くを眺めているかのようで、まさに心此処に在らずの様子であった。
気まずい空気が流れ、藩濬は一度休憩を挟むべきかと迷ってしまった。
「ふふっ」
静まりかえった室内に僅かに漏れた笑い声があった。
それを自らの不覚を笑われたものと感じた藩濬は、険しい表情でその声の主であり、この場で唯一の招かれざる客に尋ねた。
「向先輩。なにかおかしなことでもありましたかな?」
藩濬に声をかけられた向朗は、己の顔に刻んだ笑みをさらに陰湿なものにして頷いた。
「左様。荊州中の若き逸材が集うと聞いて駆けつけてみたものの、誰も彼も私心にとらわれ、時勢に昏くなり、全く見当違いの議論ばかりしている……これを嗤わずにいられようか!」
この発言に一同騒然となり、向朗を罵倒する者や、『裏切り者』と非難する者があらわれた。
実は、向朗はこの会議に参加している荊州学派の青年たちとは異なり、どちらかといえば一世代上の蔡瑁や韓嵩、傅巽といった前政権で中核担った年代の者であった。
当然、向朗自身も劉表に仕えていたが重用されず、この会議の主催者で十歳以上も年の離れている藩濬に及ばなかった。
そして、この男は劉表が死ぬとさっさと劉備のもとへ走った。
よって、この男の荊州での評判は最低で、この会議にも招待されていなかったのだが、どこで聞きつけたか会場に姿を見せ、何食わぬ顔で列席しているのだった。
「向先輩、我々は早々に裏切った貴方と違って真剣に荊州の行く末を議論しているのです。それを馬鹿にされるとは一体どういうおつもりか?」
これまでの議論に水を差す向朗の発言に、藩濬は声を荒げながらも、その真意を問うた。
「今後、荊州を治めることになるのは我が主、劉玄徳である。」
散々議場を荒らしておいて、向朗から返って来た言葉は空虚な宣言だった。
一同、呆れ返りため息をつき、藩濬はこの後どう進めるべきか思案にくれた。
そんな時、いままで酩酊状態にいた蒋琬が急に声を上げた。
「諸葛先輩は〜いかがお考えですかぁ〜?」
一転、皆一斉に緊張した様子で沈黙を続ける男を見た。
腕を組み、しばらく遠くを眺めていたその男は、徐に正面を向くと言い放った。
「劉備に降伏すべし!」
荊州に吃驚が谺した。




