暗夜の集会
赤壁の戦いから一月あまり、未だ戦火の残る荊州では、劉備が着々とその勢力を広げていた。
曹操の残存軍と孫権軍が江陵を巡って争っている最中、劉備は劉表の庶長子・劉琦を擁立して荊州統一の大義を作ると、南部荊州へ侵攻を開始する。
弓弩を凌駕する新兵器「元戎」を有する劉備軍の侵攻は速く、迎撃に出た長沙太守・韓玄を一戦で撃退すると、尚も城に籠城して抵抗する韓玄を、内応者を通じて殺害して長沙を支配下に置き、そこからは軍を三つに分け、残る桂陽・武陵・零陵へ同時に攻撃を加えた。
韓玄の最期を知る三郡の太守は皆迷わず籠城し、救援を待つが当然来るはずはなく、陥落は時間の問題になっていた。
遠征の失敗で一時荊州を離れた曹操と、荊州の仇敵である孫権、そして、劉表の血を利用しつつ新兵器を使って着実に勢力を伸ばす劉備。
荊州の人民に選択の時が迫っていた。
その日、宜城にある馬氏の邸宅からは人の気配が消え失せて静まり返っていた。
普段から静かな邸宅ではあったが、ここひと月ほどは二人の若い客を迎えて活気があったのだ。
それが突然、元の静けさを取り戻してしまった。
邸宅で働いていた使用人たちは暇を出されており、門を叩く人がいても中からの反応は無く、事情を知らない人は首をかしげながら帰っていった。
やがて日が暮れ、月のない暗黒の夜が訪れた。
日没から数えて二刻余りが経った頃、邸宅の前に一人、旅装姿の男が現れた。
男は周囲を見渡して誰もいないことを確認すると、門を叩いて中からの応答を待つ。
当然、中から反応は無く人の気配が感じられない為、男は困り果てた様子で腕を組みしばらくそのまま固まっていたが、試すように門を押してみたところ閂が外されていたようで、戸惑いながらも中へ入っていった。
邸宅内は外より一層暗く、門が閉じたことで暗闇に落とされた男は、家の奥から光が漏れているのを確認し、足元を探りながらゆっくりと前に進もうとした。
「義陽の郝子太様でございますね」
しかし、突如背後から声をかけられたことで、男は体を硬直させ、ぎこちなく後ろを振り返る。
そこには暗闇の中に女性らしき人影があり、男は姿を確認しようと目を凝らす。
目が闇に慣れるのに大した時間はかからず、闇の中に浮かび上がる女の姿に男は思わず息を飲んだ。
そこには存在を疑うほどの美少女が立っていた。
艶やかな長い髪に、細身ながらメリハリのある肢体、幼さが残るも吸い込まれてしまいそうな瞳、そして、なにより近くに光源が無いにもかかわらず輝いているかのように際立つその肌の美しさが男にはまるで月のように見え、新月の晩の運命的な出会いに胸が高鳴った。
だが、そんな闇夜の夢もその娘の背後にいる筋骨たくましい青年の放つただならぬ気配によって瞬く間に覚めることになる。
「遠路はるばるようこそお越しくださいました。中で同志がお待ちです。どうぞこちらへ」
「お、おおう……」
戸惑いながら返事した男に、娘はやさしく微笑みかけ邸宅の奥へと消えていく。
その後ろ姿をしばらくぼんやりと眺めていた男だったが、すぐに我に返ると娘を見失わないように急ぎ足で後に続いて行った。
集会の場へと向かう二人の姿を一人その場で見送った青年は、再び見張りの任に就く為塀の上へと飛翔すると気配を消して邸宅の周辺に意識を向けた。
暗闇を見据える青年の眼光は鋭く一つの異変も見逃さない決意が籠っていたが、その瞳には明らかな焦燥の色が見えていた。
「ええい! 諸葛孔明はまだ現れぬのか!」
広間へと案内された郝子太は、会の主催者である藩承明の傍に座ると開口一番そう叫んだ。
予め広間に入ったところで会の参加者の顔を確認し、この場に今荊州で最も有能と評される男が居ない事を知っての行動である。
元々、郝子太は荊州の知識人の中でそれほど高い評価を得てはいなかった。
この集いに誘われれた際も自身の劣等感から避けたいとすら思っていたが、参加者の名を聞いて考えが変わり、さらにこの場に至って運命的な出会いを得たことから奮い立ち、会の主導権を握って自分の存在感を示そうとしたのである。
「遅い! 遅すぎるぞ! 我らは危険を冒してまでここに集まったというのに。季常よ、孔明との伝手はとれていなかったのか?」
広間にいる者の中では自分が一番最後に来た事を棚に上げ、この家の当主であり、前々から気に食わなかった年下の秀才を糾弾する。
だが、その視線は、年齢の割に老けこんだ顔の青年にではなく、広間の隅に控えるあの美しい娘に向いていた。
「さて……皆そろったようだな……」
そんな郝子太を無視して、この会の主催者である藩承明が重々しく口を開いた。
「はあ? 水郷殿、まだ揃ってはおらぬではないか!?」
年下の後輩であるのに普段から頭が上がらず、今も自分の主張を無視して会を始めようとする藩承明の態度に郝子太は猛然と抗議しようとする。
そして、そんな郝子太を嘲るように藩承明の隣に座っている面長の男が皮肉な笑みを浮かべて言った。
「ふふっ、郝先輩……孔明殿ならば、そこに居るではありませんか」
「なにっ!?」
面長の男の言葉に郝子太は一瞬呆け、目をぱちくりさせながらもう一度、広間にいる参加者の顔を確認していった。
まず、広間の北側に一人座すこの会の主催者である藩承明。
広間の東側に四人が座し、左から藩承明の傍に座す面長の男・廖公淵、物腰爽やかに会の始まりを待つ習文祥、酒気を帯びているのが見た目にも明らかな蒋公琰、若年ながら先ほどから眉一つ動かさず平静としている宗徳豔。
対して広間の西側は五人が座し、右から藩承明の傍に座す郝子太、この集まりで一番の年長者であり半眼のまま笑みを浮かべている向巨達、腕を組み黙想状態にあるも威圧感が凄まじい鄧孔山、俯いたまま体を震わしている殷孔休、粗暴な性格と噂を聞いていたがこの場では人一倍緊張した面持ちで畏まっている劉敏。
そして、広間の南側、この邸宅の主だが敢えて末席に座す老け顔の馬季常とその従者の美しい娘。
名簿に乗っていない娘は除外して、此処に集う者は郝子太本人を含めて十二人のはずであったが、此処には十一人しかいなかった。
「ど、どこにもおらぬではないか!?」
さては自分がからかわれていると勘違いした郝子太はいよいよ興奮し、対面に座す廖公淵に食ってかかろうと身を乗り出した。
「う、げぇ……」
ところが不意に背後から伸びた手に左肩を掴まれ未然に阻止されてしまう。
「な、何をするかっ――!!」
邪魔をされたことで郝子太は遂に怒りで我を忘れ、口角泡を飛ばし、勢いよく振り返りながら相手の顔も見ずに殴りかかる。
パシッ――
「ひ、ひぃっ」
会に集まった一同が静寂する中、一人悲鳴を上げたのは他でもない郝子太だった。
怒りに我を忘れ渾身の力で繰り出した拳は、片膝立てた状態である郝子太と同じくらいの身長しかない矮小な男の小さな掌に止められていた。
戦乱の中を遊学してきただけあって腕っぷしには自信があり、時には自分より一回り大きい大男を正拳で吹き飛ばしたこともある。
その自慢の拳がこんな小男に止められていたのだ。
だが、郝子太にとってそんなことはどうでもいい驚きであった。
そんなことよりも目の前で自分の拳を受け止めた小男の容姿が尋常ではなかったからである。
不気味なほど精巧に人間の顔を模した仮面を被り、その眼穴からはぎょろっとした赤い瞳を覗かせるその男は、まるで白粉を被ったかのように白く冷たい死人のような手で、郝子太の拳をがっちりとつかんで離さない。
「は、離せぇ~」
気味が悪くなり自分から殴りかかったのも忘れて、半べそをかきながら手を振りほどこうとする郝子太に、もはや此処に来た時の勇ましさは消え失せていた。
「止めよ!」
重々しい声が室内に響く。
その声に慌てて反応するかのように小男の手がさっと離れ、解放されたことで安堵の息を吐いた郝子太は、そこで小男の背後に男が立っているに気が付く。
すると、先程まで気配を感じなかったのに、その存在に気がついた途端、重圧に押しつぶされそうになる。
座ったままでは相手の胸元までしか見えず、絶え間なく浴びせられる圧力に耐えながら最後の勇気を振り絞って見上げると、その男がこの集会で一番重要な存在だと理解した。
「孔明……」
それは想像していた痩身長躯の学者然とした姿からはるかにかけ離れていた。
まるで山篭りでもしていたのかと疑うほど薄汚れてあちこち綻びのある衣を纏い、異様に筋肉の発達した手足には至るところに大小の切り傷がある。
眼光は鋭く、その巨体から見下ろすような視線はとても直視できるものではない。
その姿は最早、歴戦の猛者と紹介されても不思議ではない偉丈夫だった。
「弟が失礼しました。しかし、貴殿が座られている座は先ほどまで私が座っていたところ。用を足しに離れていただけなのです。どうかお譲りいただけませんか。」
「こ、これは失礼した……」
外見に似合わず慎み深い男の言葉に感嘆し、また自分の迂闊さを知った郝子太は赤面しながらその場を立ち、対面の右端、宗徳豔の隣、すなわち客の中では末席に座ったのだった。
暗夜に開かれた集会に荊州を代表する若き秀才が揃い、いよいよ荊州ひいては天下の行く末を決める計画が始まろうとしていた。




