帰路
これは、いったいどうしたことだ……
襄陽から馬を歩かせること十五里、隆中へと続く山道に入る手前において、私は呆然と立ち尽くした。
そこに隆中へと続く道が無かったからだ。
本来、此処は三叉路になっていて、襄陽側から見て右に進めば隆中に至る小道、左に進めば荊州北部へ向かう街道が続いていたのだが、今、目の前には荊州北部への街道があるだけで、隆中へと続く道は忽然と消えていたのだ。
長年、隆中で暮らしてきた私が僅か半年ばかり当地を離れたくらいで村へと続く道を忘れるはずがない。
地形や木々の配置は今も鮮明な記憶としてあり、それを頼りとして周辺を見渡せば、どうやら私の知る山道は大量の土砂によって道が埋没させられていることが分かった。
しかも、ご丁寧に入り口だけでなく意図的に土砂崩れを起こして道全体を埋没させ、その上さらに周囲の景色と同化させるため植樹までするという念の入れようであり、元の住民である私ですら一時自信を失うほど完璧な隠蔽工作だった。
「お若いの……こんなところでどうされた?」
道を失った衝撃に我を忘れていたところ、突然、背後から声をかけられた。
慌てて振り返ると、そこには見るからに草臥れた旅装姿の男が立っており、不思議なものを見るような目で私を見つめていた。
確かに何もない道端で一人放心していたら、怪しまれて声をかけられるのも当然だろうと自分の迂闊さを嘆きつつ、相手が何者かもわからないので、ここは無難に考え事をしていたと嘘をついて誤魔化そうかと思ったが、よくよく相手を観察してみれば頭巾から出ている頭髪は白くて腰が曲がり齢は六十に迫るかという老体であり、他に介護の人も近くにはいなかったので、闇雲に警戒するよりは道に迷ったと偽って隆中の情報を集めることにした。
「いや~、確かこの辺りに隆中という集落へ向かう道があるはずなのですが、情けないことに道を忘れてしまった様です……」
「ふ……む。隆中とな……」
私が隆中と言葉にした途端、老人は表情を険しくさせて訝しげな眼でこちらを睨んできた。
露骨に警戒されてしまったので、さてはこの老人は曹公か孫権の手の者かと疑うが、結局、この場にあっては、誰の息がかかっていようとも私にとっては意味の無いことだと思い、手で後頭部を掻きながら愛想笑いを浮かべると、弱者である老人はこちらの意を察してくれたのか、それまでの厳しい表情から一転してにこやかな表情を浮かべた。
「ほほほ、隆中ならこの辺にはありませんぞ。ここから襄陽まで出て、そこから南西に二十里のところにあります」
いい年をして道に迷うなどと嘲笑されてもおかしくないが、老人は少しも私を嘲る様子は無く、隙間だらけの歯を覗かせながら朗らかに笑い、親切にも隆中の場所まで教えてくれた。
しかし、老人から教えられたその場所は、当然、私が知る隆中とは別の場所だった。
それでも心のどこかで覚悟というか諦観があったのだろう。
故郷が忘れ去られるというもっとも残酷な仕打ちを受けていると知っても取り乱すことなく老人の言葉を受け入れることが出来た。
――おそらく隆中は、私が劉備に拉致された後、奴の宣告どおり滅ぼされたのだ。そして、奴はその事実を隠すと言っていたから、隆中という同名の村を新たに作らせてその存在を偽装させているに違いない――
この老人がその真実を知っているかどうかは知らないが、これ以上の詮索は互いのためによくないと思いやめることにした。
「ははは……どうやら道を勘違いしていたようです。 助かりました」
「なんのなんの……世が乱れておる今、人と人が助け合っていかねばなりませぬからな、お気になさるな」
「ありがとうございます。それでは先を急ぎますので……」
人の好い老人に礼を言い、そそくさと襄陽方面に馬首を返した。
背後には老人の視線を感じるが、既に頭の中は隆中の事でいっぱいであり無視することにした。
老人と出会った場所から離れ、襄陽に向かって元来た道を雌馬に駆けさせる。
やがて川が見えてきたので街道から逸れて斜面を下り、川辺に到達した所で今度はその上流に向かって馬首を変えた。
本来、隆中へと続く道は三つあり、二つの山道と谷間を通る崖道がある。
先ほど断たれているのを確認した山道は中でも比較的一般人には利用されない道だったが、それさえも綺麗に隠蔽されてしまっていたことから、私は残りの二道も隠蔽か何かしらの工作がされていると予側した。
そこで、ここは元住民である私しか知らない隆中への道、即ち、隠し道を通って隆中に向かうことにする。
隠し道といっても、隆中の住民が有事の際に備えて作ったものではなく、元々は畑を荒らす害獣共が使っていただけの獣道だ。
当然、馬を連れて進むには、崖や草木の密集部を避けて通らなければならない悪路であり、隆中へと辿り着くには相当の時間と体力を必要とするだろうが、それでも劉備によって工作を受けた道を歩むよりは、精神的負担の少ない隠し道を通りたかった。
川沿いを遡っていくと、その川の支流の一つであり隆中へと続く隠れ道となっている沢が見えてきた。
ふふ、流石に此処は気づかれなかったようだな……。
以前と変わらぬ清らかな水が滔々と流れるその沢を見て少し安堵する。
沢の上流には何が待ち構えているかも分からないが、見知った道があるというだけで多少なりとも気鬱さが晴れた。
沢の手前に到着し、時刻を確認しようと天を見上げると日は正午を過ぎていた。
此処からなら順調に進めば夕刻までには余裕で到達できるだろうと見込めたので、沢登りを始める前に昼食をとることにした。
食料については今朝訪れた襄陽の市場で調達しており、さらに此処は水も大量にあるのでこれまでの旅のような心配はなく、久々に自慢の料理の腕を振るおうかと腕まくりをして意気込む。
しかし、幸か不幸か今朝方食べた大量の餃子湯がまだ相当腹に残っていることにすぐ気がついたので、無理をしてたくさん食べる必要はないと調理を諦めて懐に忍ばせてある蕪だけを食べることにした。
そうして懐から取り出した蕪は時間が経っていてもその新鮮さは衰えを知らない様で、未だ根も葉も瑞々しく活力が満ちており、表面を袖で擦って艶を出すと今にも齧りつきたくなるほど食欲を駆り立てられた。
ブヒンッブヒン!!
どうやらその素晴らしさは人外にも伝わったようで、先ほどから雌馬の鼻息が荒い。
「……お前も食べるか?」
人語が分かる筈もないが一応尋ねてみると、それまで興奮していた雌馬が急におとなしくなって頭を垂れたので、それがまるで頷いているように見えた。
「ははは、そうかそうかお前も食べたいか」
おかしさがこみあげてきて久々に心から笑い、旅の連れである雌馬にもこの貴重な蕪を分けてあげることに決めた。
シュパッ――――
蕪をゆっくりと空中へ放り投げ手刀で一閃すれば、根も葉も丁度真ん中のところで割れて落ちる。
それを左右の手でしっかりと受取り、一方を雌馬の前に差し出してやった。
雌馬は蕪を食べるのが初めてであったようで、最初は警戒して表面を舐めるだけであったが、私自身が蕪を一囓り分だけ堪能しているうちに一口で食べてしまった様で、気が付いたときには幸せそうな顔をして空になった私の掌を舐めていた。
さて、それで力を得たのか、いざ沢登りを始めると雌馬は自分にまかせろと言わんばかりに急な勾配や濁流を駆け上がったので、私は雌馬の背から振り落とされない様に無我夢中でしがみつくだけであった。
そうして村の入り口まで着いた時には、冬季で日照時間が短いにも関わらず日没までまだ大分時間を残していた。
「玉蘭、均、帰ってきたぞ……」
劉備によって此処を連れ出されてから半年余り、あれから生と死の狭間を彷徨いながらも何とか希望と出会い、故郷に残した愛する者たちの行方を探るべく帰ってきた。
一番最初に目についたのは、焼け落ちて積み重なった炭の塊。
おそらくそれは長らく村の入口を守ってきた門だ。
険しい帰路で奮闘し疲労困憊した雌馬を後に残して一人そこへと向かう。
郷愁、悲哀、憎悪、そして絶望と僅かな希望という感情を抱きながら門の残骸を踏み越えた。
目にした光景は……村が跡形もなく消えて無くなっていた。




