道草
「はぁっ、はぁぅあっ、あ、あ゛~てぃっ!!」
溜めに溜めた大きなくしゃみが出て、鼻水が勢い盛んに飛び出し顎まで垂れた。
子供たちと別れてから三昼夜が経ち、初日は順調であった旅は二日目から早くも天候が悪化して容赦無く低下していく気温に体が凍える。
出たものを指で切り払い、残りはズズッと元に収めて頭上を見上げれば、天は厚い雲に覆われており吹き下ろしてくる冷たい北風が顔面を襲い、反射的に目を細めると狭まった視界の先に見える暗雲からはチラチラと雪が舞い始めていた。
これは本格的に冷え込むだろう。
どこかで暖を取れないものかと思考するが、そんな希望は虚しいだけで視線を戻せば眼下に広がるのは不毛の大地だった。
山脈の稜線、川の流れ、文明の跡……
遊学で何度も通ったはずの景色から生物が絶え果てただけで全く知らない世界に見えてしまう……
荊州における長江沿岸は、劉備の非道な計略の為に地平の彼方までありとあらゆる植物が刈り尽くされ、その余波で生息していた殆どの生物が死に絶えてしまい、その骸だけが地表に散在する、死の世界へと変貌を遂げていた。
風雪を凌ぐ草木も暖を取る薪さえも無いために野宿も出来ず、彊より譲り受けた雌馬は私を乗せたまま食事も摂らずにひたすら歩き徹して劉備の勢力圏を駆け抜けた。
しかし、曹公の勢力圏に入ったとはいっても、今度は私が荊州では有名人であることで目立った行動がとれず、もし曹公の兵に見つかれば連行されるのは間違いないので、都市を避けて進まなければならなかった。
こうして子たちと別れてから九日目の朝を迎えようとした頃、漸く荊州の州都・襄陽が見えてきた。
丁度、見晴らしの良い丘に差し掛かっており、感慨も湧いてきて、一旦止まるように雌馬の頭を撫でると、従順に歩みを止めた雌馬は、何故か私を見つめ、まるで微笑んでいるかのような表情をしたので、こちらも微笑み返してゆっくりとその背から降りた。
すると雌馬は急に力が抜けたようにその場に倒れ込み、目を開けたまま動かなくなってしまった。
まさか、死んだかと思い慌てて蘇生を試みようと近づくと、グゴオーとたいそうな寝息が聞こえきた。
無理もない、殆ど休みが取れなかったので相当疲れていたのだろう。
改めて雌馬の奮闘に感謝し、眠りの邪魔にならない様にそっと離れてから杖を支えに立ち上がった。
久々に歩くことになるが、足を失った私の為に達が作ってくれた義足は、急ごしらえにしては思いのほか手が込んでおり、接合部に仕込まれた緩衝材のお蔭で立っても歩いても痛みが出ない優れものだった。
名馬を譲ってくれた彊と義足を用意してくれた達、二人の孝行に感謝の念が堪えない。
いまごろは宜城で馬季常とうまくやっているだろうか……
心配をしなくても役目を果たせるくらいには二人とも成長しているのだが、それでも親としてはその安否を憂いてしまう……
なぜ私が子供たちと離れてまで、一人この襄陽を訪れたのか?
それは、他でもない私自身の心にある迷いを取り払うためだ。
次の新月の晩が来れば、一人で劉備と戦ってきた今までとは違い、同志と組んでの多対多の戦いが始まる。
味方が増えれば手数が増えて成果も上がるものだが、それは同時に一人が失敗を犯せば味方全員にまで危険が及ぶという事だ。
劉備が強大になりすぎて他者と組む事でしか対抗手段がない以上、それは覚悟の上ではあるのだが、その失敗の原因が私になってしまう危険性は、一人で行動している今の内に解消しておかなければならないと思った。
劉備の前では、心の迷いは格好の付け入る隙になる。
奴に弱みを握られ、その意のままに踊らされて大切なものを失うのはもうたくさんだ。
だから、同志と合流する前に、私にとって弱みとなる物は全て清算し、劉備との戦いに専念できる状況にしておかなければならない。
では、私の心の迷いとは何かといえば、それは二つある。
一つは玉蘭の行方だ――
私が隆中に居を構えて以来、家事手伝いとして住み込みで働いていた彼女は、月英が私のもとへ嫁いで来る日の朝から、忽然とその行方が分からなくなっている。
当時は、私が月英を娶ったことで自らの役目が終わったと判断して去ったのだと一人さびしく納得していたが、あれからもたびたび夢の中に出てきては私を慰め、或いは励ましてくれた。
私の思い込みだとどうして笑えよう。
赤壁の戦いの後、瀕死の重傷を負って絶命しようとしていた私を引き留めてくれたのも彼女の幻だったのだから。
命の恩人であり、それ以上に、何物にも代えがたい愛しき女性である玉蘭の行方が分からぬまま、奴と戦い続けることは出来ない。
もし、仮に彼女が生きていて劉備に人質として利用されたなら……
私は…………喜んで奴に跪き、同志を売ってでも彼女を取り戻そうとするだろう――
そして、もう一つの迷い。
今では私にとって唯一血の繋がった家族(兄の勤は家族ではない)であり、あの日、劉備に籠絡されて私を辱めた弟・均の所在だ。
あの日以来、月英と共に劉備に追従しているものと思っていたが、劉備の陣営でついにその姿を見ることは無かった。
もともと矮躯で、性格も才能も控えめな人間だったが、私への交渉材料にすら使われていないのは不自然だ。
不肖の弟でも、そこは幼いころから色々と面倒を見てきたかわいい弟である。
もし、生きているなら更生させてやりたかった――
二人に関する手がかりは全くないが、だからこそここは原点に帰ろうと思い、最後に二人の姿を見た隆中を目指すことにした。
そう、つまり私の目的地は我が第二の故郷[隆中]である。
思えば故郷から拉致されたあの日からすでに半年が経つ。
それ以前に遊学の旅で半年より長く不在であった事もあるというのに、あれから随分と経ってしまった様な錯覚を覚える。
劉備との対決が始まったあの地へ、友人や家族を失ったあの郷へ、愛しい人と過ごしたあの美味しい水のある我が家へ、これより私は帰るのだ。
グゥ~グルゥー……
…………。
しかし、その前に腹の虫が鳴ってしまったからには、食事を摂らねばなるまい。
実は、彊たちに分けてもらった食料はとうに尽き果て、もう三日は何も食べていないのだ。
雌馬がいる手前、ずっと耐えてきたが我慢ももう限界だ。
そういうことで、隆中に向かう前に目の前の襄陽で腹ごしらえをすることにした。
襄陽に近づくころには鶏が朝を告げ、ちょうど城門が開かれようとするところだった。
城門の前には、都市の内部で催される朝市に出荷するためか、農産物の入った籠を背負う農民たちの列が続いており、城門が開くと中から役人らしき男が三人出てきて入城者の検問を始めており、同時に検問を始める男たちの脇からは、城外へ出ようとする人の列もできて、静かだった城門は俄かに騒がしくなっていく。
場が混んできたにもかかわらず検問する役人達は生真面目なのか一人一人、籠の中身まで確認しており、一人にかける時間が長いので当分中に入れそうもない。
しかし、私が正体を隠して入ることのできる入口は此処しか無いのもまた事実であり、これ以上空腹を耐えることは出来ず、頭に布を被り、土で手と顔を汚して農夫を装うと、百人余りが並ぶ列の最後尾につけた。
入場を待つ人々は、その殆どが同伴者や前後の人と雑談などして時間をつぶしており、聞き耳を立ててみたがその内容は、軍事の話どころか政治の話すらなく、ただ何処其処の不貞妻の噂や、女性の顔の品評など下世話な話ばかりであった。
手持無沙汰となり暫く検問をしている役人の姿を眺めていたが、ふと自分の後ろに人の気配を感じたので振り返ってみると、籠を背負った農夫が一人こちらに向かって歩いてきていた。
これは丁度良い話し相手が出来たと内心喜び、農夫が近くまで来たところで声をかけた
「朝早くから大変ですな。この寒い時期に出荷とは大根ですかな?」
声をかけながら農夫が背負っている籠の中を覗き込むと、そこには見たことのない根菜のようなものが入っていた。
「はあ~どうも~」
突然、話しかけられたことで農夫は少し驚いた様子であったが、嫌な顔もせず、籠の中身を一つ取り出して見せてくれた。
「これは蕪という野菜じゃ~」
それは少し土がついて汚れてはいたものの、白くて魅惑的な形をした野菜だった。
蕪という名の野菜については、以前、農学書でその名を見たことがあるが、確か華北でしか栽培されていなかったはずで、私も実際に見るのはこれが初めてだった。
「おお! これが蕪ですか~、名は聞いたことがありますが目にするのはこれが初めてです。いやぁ~これは珍しい」
「ふふ、この辺りではまだ栽培法が広まっとらんからじゃろ~」
顔を間近に近づけ興味津々に蕪を観察する私を見て、農夫は気分を良くしたのか嬉しそうに蕪について語りだした。
「これはなぁ~葉の先っぽから根っこまで皆食べることが出来て、しかも不作も殆ど無いんで北では重宝されとるんじゃよ~」
「それはすごい! 蕪がそんな素晴らしい野菜だったとは今まで知りませなんだ」
農夫の話は書物で得た知識と変わりはなかったものの、ここで農夫の自慢話に水を差して話し相手の機嫌を損ねるのは良くないと思い、あえて知らぬふりをして農夫が披露する蕪の知識に感心してみせた。
「わはは、そうじゃろそうじゃろ~」
すると上機嫌となった農夫はその手に持っている蕪を籠に戻そうとしたので僅かばかり期待していた私は内心がっかりするが、せっかく食べ物を手にするまたとない機会であるので、なんとか粘ってみようと今まで機嫌を取っていた農夫に挑発を仕掛けることにした。
「しかし、そうすると味はまたどうですかなぁ~?」
すると農夫は、鼻で笑い自信満々で答えた。
「ん? ふふ、それが煮ても、焼いても、生でも食っても美味いんじゃよ」
「ほほぉ~」
生で食べても美味いという意外な答えを聞いて腹の虫が反応しようとするが、我慢して虚勢を張り続け、さらに訝しげに蕪を見つめるようにした。
「お前さん、さては信じとらんな……ほれ、試しに食うてみよ」
すると農夫は自慢の蕪の味を私が疑っていると受け取ってくれたようで、蕪を籠の中に戻すのを止めて、私に渡してくれた。
「おお! これはありがたい」
大勝利に満面の笑みを作り、農夫から今さっきとれたばかりなのだろう瑞々しい蕪を受け取ると、改めて葉っぱの先から根元までじっくりと眺め、丸く太った胚軸の表面についた土を袖で丁寧にふき取って白色の表面に艶が出たのを確認すると、大口を開けて一気にかぶりついた。
カブッ…
小気味良い音とともに僅かな辛味が舌に伝わり、生の根菜にしては柔軟な食感を楽しんでいけば、ほんのりとした甘さが口いっぱいに広がっていった。
「う、うまい! うまいぞぉ~!!」
見た目、食感、味、すべての喜びと感動を声に出して叫んだ。
何事かと、行列をつくっている連中が私の方へ振り向くが、そんなことはどうでもよかった。
「これは面白い! 爺さん、この蕪についてもっと詳しく教えてくれぬか!?」
蕪を食べた私の反応に、苦笑いを浮かべていた農夫だったが、情熱的に頼んだところ栽培された経緯から、作り方、調理方法まで事細かく教えてくれた。
「いやあ、恐れ入った。流石は劉表様の治世で研究されてきただけのことはありますな…」
「ああ~前の君主様はええ御方じゃった~。この辺りは今まで戦乱も無く豊かじゃったが、いずれ戦に巻き込まれたとしても、わしらが飢えてしまわない様にと、この蕪を授けて下さったんじゃ」
「そうですか。亡くなられたのは本当に無念ですなあ~これから先、我々は何を頼って生きていけばいいのか……」
「いんやぁ~劉表様が亡くなられて一時はどうなるかと思うたが、今の君主様もええ御方じゃ。わしらから何も奪うことなく必要な食料は自分たちで作っておる。」
「それは、曹公のことですかな?」
「そうそう。それに今の君主様は、これまでと同じように暮らせば良いとお達し下さった。だから、わしはこれからも蕪を作ることが出来る……幸せじゃ。」
しみじみと劉表様の治世を語る農夫に同感し、二人で故人を偲ぼうと思ったが、農夫にそんなつもりはなかったようだ。
なるほど曹公の治世は民に歓迎されているようだ――結局、民にとって重要なのは自分たちの生活が乱されない事であり、それさえ保障されるのなら君主は誰でもいいという事か――劉表様、世は無情ですなぁ……
【劉表…字は景升。漢末の荊州刺史(長官)。江夏太守の黄祖に外敵の侵攻を防がせる一方で、中原で起こった動乱から逃げてきた名士・人材を登用し荊州を発展させた。血縁からなる盤石な支配体制を構築し後継者争いは起きないはずであった……】
その後も、親しく話しながら検問を終えて城市内に入った私達は、「ところでどこまで付いてくるんだ? 」という農夫の言葉で別れることになった。
その際、さらに蕪を一つだけ所望すると、農夫は顔をひきつらせながらも一つだけ投げ渡してくれたので、今度は食べないで懐に忍ばせた。
蕪一つでは空腹は到底癒えず、何か温かい物を食べたいと思い辺りを見渡せば、不意に生姜の香りが鼻孔をくすぐった。
そこで嗅覚を最大限に活用し、その香りがしてきた方角を特定すると、その先には小さな飯店があった。
目の前に飯があるのに、他の店を探すなどありえない。
何を扱っているのかは外からはわからなかったが食事はそこでとることに決めた。
飯店までは歩いて行くつもりであったが、久々の食事とあって飯店に近づけば近づくほど期待は膨らみ、歩きは早足に替わり、杖をつくのも忘れてしまっていた。
半ば駆け込むように店内に入ると、先客たちが一斉にこちらを向いてきたが、私の姿を確認すると興味を失い各々の食事に戻った。
朝飯時である為か席はそこそこ埋まっており、幸い調理場に近い一人用の席が空いていたのでそこに座ることにした。
さて何を頼もうかと御品書きを見れば、大小さまざまある中に一際大きい木板に大書してある「餃子湯―――餃子入りの羹」が目に留まり、さてはこの店の名物かもしれないと思い、他の御品書きには目もくれず店主に声をかけた。
「店主~、餃子湯を一つくれ~」
「へい、おまち!」
威勢の良い返事がすると同時に、調理場から何か物体が飛んできた。
不意をつかれた私は体を硬直させてしまうが、それが餃子の羹が入った木製の器であることを認識した私は反射的に両手を胸の前で合わせてしまう。
すると飛来してきた椀は、くるくると横に回転しながらも決して中身を溢すことはなく、私の座っている席の台に無事着地した。
「ず、ずいぶんと早いな」
「へえ、これしかないもので……」
あまりの手際の良さに感心して店主を誉めると、意表を突く答えが返ってきたので、もう一度御品書きを見なおすと、確かに大小さまざまあるそれは全て餃子湯になっており、これは一本取られたと笑いながらも、店主の大胆な商才と、もはや達人の域と云える配膳の業に感服した。
さて、気を取り直して目の前にある餃子の羹だ。
まずは外から楽しもうと木製の器の中を覗き込むと、最初に目に飛び込んできたのはやはり餃子だ。
他の具材にほとんど隠れてはいてもその存在感までは隠しようがない。
白い皮がはち切れんばかりに大きく肥えたそれは、いったいどれだけ大量の具材を詰め込んだというのか、そして、どうやって包み込んでいるのだろう……不思議だ。
次に目を向けたのは羹の中を窮屈そうに漂う野菜たち――筍、玉ねぎ、だいこ……ん? ち、違う、これは蕪か!!?
しっかりと煮込まれているのだろうその蕪は、箸でつつくと簡単に穴が開き、軽く押し付けるだけで容易に切り分けることが出来た。
なるほど……煮るとこんなにも柔らかくなるのか……
蕪の新たな一面を見て私はうれしくなった。
グゥ~グルゥ~
一通り観察が終わるころには、唾液の分泌もいよいよ活発になり、腹の虫も早く食べろと騒ぎを始めた。
ふふ、わかったわかった。
そう急かすなと胃袋の辺りをさすり、羹を味わうため一度箸を置いて器を両手で捧げ持つ。
鼻を近づけてすぅ~と息を吸い込めば、温かな生姜の香りが鼻いっぱいに広がり、はぁ~と吐き出す息は感嘆のため息へと変わる。
火傷をしない様にふぅふぅと表面を冷ませば、万事受け入れの用意は整った。
いざ……
ゆっくりと器を傾けてから一口と決めて飲み込んだ。
…………………うまい。
塩だけで味付けされたあっさりとした羹ながら、具材から滲みでた旨味は深みがあり淡白さをまったく感じさせない。
そして香りの主役となっていた生姜はここでもその存在感を示し、寒空で冷えきった私の体を内から急速に温め、頬へと伝う冷たい雫の存在を私に気づかせてくれた。
……………………。
捧げ持った器を台に置き、再び箸を手に取る。
視点を羹に合わせ、中の野菜に箸を伸ばす。
大根、玉ねぎ等、その他の野菜は確かに約束された満足を私に与えてくれることだろう。
だが今は、出会って間もないというのに偶然にも調理したものが味わえるという感動に浸っている今この時は、これを食べる以外の選択肢はあるまい……
そう、私は最初に頂く具材に蕪を選んだ。
ところが、ここで思わぬ事故が起こる。
どうしてもつかめない……
蕪が柔らかすぎて箸で掴めないのだ。
箸で挟もうとすれば二つに割れ、刺そうとすれば崩れて落ちて私を翻弄する。
早く食べてみたいという思いが焦りとなってさらに状況を悪化させ、一つ、また一つと蕪の形を崩してしまう。
結局、器に直接口をつけてから箸で掬い入れることで解決したが、実に4つもの蕪が羹の藻屑と成り果ててしまった。
ちなみにその味は口に入れるとすぐに溶けて無くなったのでよく分からなかった。
そうして、その他の噛みごたえある具材も味わい、いよいよ私の関心は主役へと移る。
当然、この料理の主役にしてこの飯店の看板商品でもある餃子のことだ。
今も羹の中で沈んでいるそれは、他の具材を先に食べたことでその巨体の全容を露にし、早く食べろと私を煽ってきている。
臨むところだと箸を伸ばし、その皮に箸が食い込ませただけで弾けんばかりに輝く金色の肉汁が飛び出し――と、その時……
ガタンと何かが倒れる音が店内に響いた。
途端、それまで賑わっていた店内が急に静かになり、いくら目の前の餃子に夢中になっているとはいえ、流石に私も場の変化に気が付いた。
音のした方を振り向くと年若い男が床に倒れており、驚いた表情で飯店の入口の方を見つめている。
男の反応から嫌な予感に襲われつつ飯店の入り口を見ると、そこには鎧兜に身を固め帯剣した武官が立っていた。
その装いからして曹公軍の武官であることが一目で分かり、しかも装飾が一般兵に比べて派手なことから将官であるとみた。
その将官らしき男の後ろには、武装した男達が続き、ぞろぞろと中に入ってきたので、小さな店内はむさ苦しくなり、なかには咽る客も出て来た。
「何か御用でございますか?」
我等と同じく状況を飲み込めない店主が調理場から姿を現し武官の一人に話しかけた。
しかし、尋ねられた武官は沈黙したままで、そのうち、別の武官が将官らしき男に何やら耳打ちしてから私の方を指出した。
すると将官らしき男は、ゆっくりと頷き私の傍に近寄ってきた。
「義陽の鄧士則だな!」
将官らしき男が話しかけたのは、私の後ろで先ほど椅子から転げ落ちた男だった。
「ななな、なんか おっ俺に よゅ、用が、あ、あるのかぁ!」
名を呼ばれた男は動揺を隠さず、腰を抜かしたまま出口もない店奥へと後ずさりしている。
「丞相の命により連行する。連れて行け!」
将官らしき男が号令すると、若い男は体格の良い武官二人に両脇を抱えられて飯店から連れ出された。
その最期の形相は絶望に染まっており、断末魔にも似た絶叫は吃音なのか何を言っているのか分からなかったが、あれはたぶん餃子を食べさせろと言っていたに違いない……何の悪さを働いたのかは知らないが、少し哀れに感じた。
何はともあれ、それで用件は済んだ様で、男を連れ出した残りの武官たちも続くようにして出ていき、後には将官らしき男だけが残った。
「食事を邪魔して悪かった。私は曹丞相にお仕えする李文達だ。邪魔した詫びに食事の支払いは私が受け持とう。ここの餃子湯は美味いぞ!存分に味わってくれ」
李文達と名乗った男はそう言って豪快に笑うと、店主に大金を渡して去っていた。
突然、捕り物を見せられ、餃子を食べる機会を大きく邪魔されてしまったが、結果食べ放題になった事で満足し、少し冷えてしまった餃子湯を一気に頬張った後、さらに熱々を三杯お替わりしてから飯店を出た。
餃子については筆舌に尽くしがたく、ただ、あの大きな皮の中には意外な食材が入っていて、食べるものは必ず驚くことだろう。
もし、この感動を共有したいならば、素直に其処に行って食べてくれしか言えないが、それでも表現せよと云うならば、敢えて簡潔に述べよう、あれは奇跡であると。
そのまま襄陽を出ると、城門には既にあの雌馬が待ってくれていた。
どうやら眠りから覚めた後、私を追ってきていたらしい。
賢く健気な雌馬の首を撫でると、私が乗りやすい様にとしゃがんでくれたので再びその背に覆いかぶさるように騎乗した。
隆中を前に道草を食う事にはなったが、蕪や餃子湯に出会い、雌馬の真心に触れ、長旅で朽ちかけた心と体に活力を取り戻すことができた。
もはや、恐れるものは何も無い。
どんな現実が待っていようとも、すべてを受け止め清算してみせる。
いざ因縁の地へ、歩み出した蹄の音は軽かった。




