水郷
父と子の再会という感動の場面で、私は自分の未熟さ故に渇望という本能に負けてしまい、剰え、子供たちの水を飲み干してしまうという醜態を晒してしまった。
気まずい空気が漂ってくる中、一気飲みで乱れていた息を整えたところで、私はこの重たい空気をさっさと振り払おうと、唐突だが二人に対して質問を投げかけることにした。
「と、ところで、お前たちがここに来たのは私を探していたからか?」
私が問いかけると、それまで呆気に取られたような顔をしていた彊と達であったが、すぐに反応を示してくれた。
「はい。父上が戦場で行方不明なったと達から聞いて居ても立ってもいられず、早朝から探していました。父上が無事で…とにかく、命が無事で本当によかった…」
私と無事再会できたことを喜ぶ彊だったが、その表情は暗く、その視線はちらちらと私の足や脇腹などを見ている。
どうやら、深手を負ってしまった私を見て気落ちしていたらしい。
「流石に今回ばかりは死にかけた…よく足一本で済んだと思わなければならない。ふふっ…うっ!」
「父上!?」
これ以上は心配をかけない様に笑って見せようとしたところ、急に体中が痛み出し、特に脇腹に走った激痛には呻くような悲鳴を上げてしまった。
おそらく水分を取ったことで瀕死だった体に生命力が戻り、衰弱によって薄れていた感覚が戻ってきたからだろう。
苦痛に顔を歪める私をみて、介抱しようとする二人を手で制し、その制した手の小指が欠けているのを見て、さらに悲痛な表情を浮かべる彊と無言のまま佇む達であったが、私は何でもない様に軽く首を振って動揺する彊を落ち着かせ、先ほどから気になっていることを二人に尋ねた。
「私は大丈夫だ。…それよりお前たち、あの馬はどこで調達したのだ?」
そういって、道端に放置されたままの馬を指さすと、それまで複雑な表情で私を見ていた二人は、重要なことを聞かれていると理解したようで、表情を引き締めると、二人で顔を見合わせて頷き合い、彊が一歩前に進み出てその唇を開いた。
「実は父上にお伝えしなければならないことがあります」
再会した時からずっと彊の表情は緊張を帯びており、その様子から悪い知らせであると悟った私は、心を静めて彊の言葉を待った。
「父上が行方不明になった後、私と達は南岸で落ち合ったのですが、父上は北岸にいるかもしれないと達が言うので、長江を渡る術を探していました。そこに父上のお知り合いだと名乗る御仁が現れ、私たちを北岸に届けていただいた上で、旅に必要な物質だけでなく馬まで譲ってくださったのです」
「ふむ・・・私の知人と名乗る者が現れて助けてくれたと…」
「はい。年は三十前後、痩身で背丈は父上よりやや低く、威圧感のある鋭い眼光が特徴の方でした」
はて、彊の言う特徴をもつ人物がすぐに思い浮かばない。
徐元直の裏切りで劉備が隆中に訪れることになった際、私は奴から逃げる為に自宅を離れ、荊州各地に住まう学友を訪ねて回っていた。
その際、必ず劉備の批判をしていたのだが、あの時、真剣に話を聞いてくれる者は少なかった。
それでも積極的に協力を申し出てくれたのが宜城の馬季常と零陵の蔣公琬だが、彼らに戦火の広がる荊州を奔り回るだけの力と度胸があるかと言えば、残念ながら無いし、そもそも彊の言う特徴と一致していない。
馬季常は白眉ですぐ分かるし、蔣公琬はどちらかと言えば恰幅が良いからだ。
では、いったい何者か?
<そうだ、もしかすると行方不明になっていた龐士元が帰って来たのかもしれない>
そこで思い当たったのは数年前より失踪している鳳雛こと龐士元だった。
途端、嬉しさがこみあげてくる。
龐士元は、私より二つ年上で、水鏡先生の下で学問を修めていた頃に、兄弟子として慕っていた男だ。
口数が少なく、外見から誤解を招くこともあったが、一度、軍事を語れば私では及びもつかない才能を見せる鬼謀の士であり、本当に頼りになる。
もしも、鳳雛と臥龍が組むことになれば、私の懸念はすべて消え失せ、劉備の残り粕など容易く掃除できるだろう。
<ふふ…これで奴らに報復することがきる…欲望のままに略奪の限りを尽くし、無辜の民を苦しめ、犯し、殺めたその罪は重い…楽に死ねると思うなよ、剥皮、烹煮、炮烙…竜の逆鱗に触れた者には死こそ幸せと思う程の凄惨な罰を味わわせてやる!>
私は努めて冷静に彊の話を聞いていたつもりだったが、黙考している内にその主題は子供たちを助けたという謎の人物の特定から、劉備の残党共の討滅に替わっていたようだ。
そして、詰となる残党共を残酷に始末する方法の思案に夢中となり、いつしか彊の話は全く耳に入らなくなっていた…
「父上…父上?」
一人ほくそ笑みながら妄想の世界に入り浸る私の姿に、彊も気づいたようで呼び戻そうと懸命に呼びかけてくるが、もうその声は届かない。
遂にその可憐な瞳から涙が溢れ、地面に座り込んでしまう彊であったが、しかし、それは諦めからの行動ではなく、実際は息を大きく吸い込んで準備をしていた様であり、その顔を向けてきた彊は、思考に埋没する私に届けと、天地も震えんばかりの大音声をあげた。
「…父上~っ!!気をしっかり持って聞いてくださぃっ!!!! 我らが宿敵・劉玄徳はぁ~!!!!!!まだ生きていますっ!!!!!!!!」
「ぇ・・・!?」
その突然の大声と、不意に出た劉備生存の報で、私の思考はとぎれてしまった。
その瞬間、脳内で蘇ったのは、昨夜、燃え盛る船上で奴に元戎を何発も打ち込む光景…
偶然奪った元戎を作動させ、額に、心臓に穴をあけられて倒れていく劉備の姿が…
その驚愕に染まった顔が・・・一瞬だけ笑ったようにみえた!?
「ぬぁにっ!!!?」
我に返って漸く彊の言葉を理解出来た私に対して、彊は捲し立てる様に、死んだはずの劉備の動向を伝えてくる。
「劉備はもともと赤壁に現れてはいなかったのです。彼奴は孫権と曹操が戦っている間に軍備を整え、荊州南部に攻め入りました!」
「ば…馬鹿な!? 私は…昨夜、確かに赤壁で劉備と戦い、死闘の果てにこれを仕留めたのだぞ…なあ、達っ!!?」
動揺を隠せない私は、怒りの感情も露に、また、懇願するように、あの夜ともに劉備と戦った達に同意を求めようとした。
「確かに父上は、赤壁で劉備を仕留めました…しかし、実際に南部四郡へと軍を率いて向かう劉備を目撃した人も少なからずいる…俺たちを助けてくれたあの人が嘘を言っているようには思えません…」
しかし、返ってきた達の言葉に力はなく、そのまま俯いてしまう。
それでも、その口元は血が滲むほどに強く結ばれ、目に見えて悔しさを我慢していることがうかがえた。
思えば、達は未だ純粋な心を忘れていない子だった…その上、武術の師と仰いだ陳到を昨晩の戦いで失っている。
受けた衝撃は私よりはるかに大きいはず…
すまなかった…達。
心の中で達に謝り、その横で私の失われた右足を見つめている彊を見つめる。
今し方とんでもない大声を発したとは思えぬほど美しく小さなその唇は、僅かに噛みしめられ、白く透き通った細腕の先にある手は、赤くなるほど強く握られていた。
おそらく、彊も半信半疑だったのだろう。それでも、事態の打開策を見つけるため、感情を殺し正確な情報を私に伝えようとしているのだ。
まったくなんという様か…年端もいかぬ子供たちが、こうして現実に耐えて状況を打開しようと健気に振る舞っているのに対し、大の大人が、しかも臥龍とまで呼ばれたこの私が、現実から目を背け、妄想への逃避に走ってしまうとは…。
「ふふ、ふははははははぁ~!」
これほど情けないことはない…あまりの情けなさに自嘲するべく全身に激痛が走るのも構わず大いに笑うと、子供たちは突然の笑い声にビクッと反応する。
「「父…上?」」
恐る恐る、私を見上げてくる二人の頭にそっと手を添えて優しくなでた。
「劉備…奴の犯した罪は重い。たった一度殺したくらいで満足できるものか、寧ろ好都合よ!この諸葛孔明が、死を望むまで何度でも葬ってくれる!」
「「父上!」」
二人の顔に僅かながら笑顔が戻った。
彊、達…心配させてすまなかった。
どうやら、私は、一度本懐を遂げた事で安心し、その代償として生死の境をさまよう内に、いつの間にか正気を失っていたらしい。
本当は玉蘭の夢を見た時から悟っていたのだ。
奴が生きていることを。
心静かに彊の口から出るその言葉を待つつもりが、私の心が脆弱である為に奴の存在を消した妄想の世界へと逃避していたのだ。
愛する我が子のお蔭で正気を取り戻し、目の前の現実と戦う勇気を再び持つことができた私は、劉備を止める策を練るべく彊に南部四郡に侵攻したという劉備率いる軍勢について詳しく聞くことにした。
「劉備軍が南部四郡に攻め入ったというが、奴らのどこにそんな余力があった?長坂坡では民を盾にして主力を温存したとはいえ、所詮、寄せ集め…烏合の衆のはず。対して南部四郡は戦火から遠ざかってはいたが、長沙には智将として名高い長沙の韓太守を始め、黄漢升や魏文長ら良将が揃っている…とても勝算など立ちそうにないが…」
「はい。その御仁の話では、劉備軍の兵士は刀槍を持たず、太い杖のような物の先端に金属の筒がついた兵器を携帯して進軍していたらしいのですが、その兵器は相手が近づくずっと前から、轟音と共に目にも止まらぬ速さで金属の弾丸を撃ち出し、その威力は金属の鎧兜にまで穴をあけてしまうのだとか…」
俄かには信じがたいといった表情で劉備軍が持っていた兵器の報告をする彊。それと入れ替わるように今度は達が進み出た。
「父上、彊が言う兵器とは昨夜の戦いで劉備が使っていた物ではないでしょうか…」
達に言われて劉備が使っていた元戎なる兵器を思い出し、それを受けた自分の脇腹を見る。
上衣の上からでもわかる頑強な筋肉に覆われたそこには多量の出血痕と、小さな穴が開いていた。
たしかに彊の言うとおり恐ろしい威力だった…形状を長くしたのは精度を上げる為か…。もしや、それを…
「既に量産していたのか!?そ、それで韓太守はどうなった?」
絶大な殺傷能力を有する武器を大量にそろえた劉備軍を相手に、何の備えもしていない南部四郡の兵装では、絶望的な結果であるのは分かりきったことだが、聞かずにはいられなかった。
彊は私の問いかけに頷くと、再び強張った表情で淡々と答える。
「韓太守は民を戦に巻き込まぬように討って出たものの、劉備軍の元戎の前に前線を破られてしまいました。しかし、戦局を見誤ることはなく、自ら殿の指揮を執って速やかに兵を撤退させ、劉備軍の兵器を封じようと城に籠られたのです」
「籠城策か・・・、なるほど!障害物があれば元戎でも効果は薄い。あれは真っ直ぐにしか弾を飛ばせぬという弱点がある。奴らが不用意に城壁に近づけば、弓の曲射で一方的に攻撃できるだろう」
「はい。当初はそれでうまく迎撃して劉備軍を沈黙させ、一方で残り三郡の太守に救援を要請されていたのですが…」
ここで彊の表情に曇りが出た。
それまで張りつめていた純粋な心に重く暗い霧がかかったようで…これは、人間の醜い本性を知ってしまったに違いない。
「ま、まさか裏切りか?」
「はい。黄漢升が劉備と内通しており、援軍が到着する直前で韓太守は首を刎ねられたそうです」
それまで気丈に劉備の動向を伝えてくれていた彊も、韓太守の最後に至っては涙声になっていた。
「なんということだ…嗚呼、荊州はまたしても優れた指導者を失ってしまったのか…」
韓太守を失った影響はこの上なく大きい。
南部四郡で一番頼りとしていた韓太守が討たれてしまっては、劉備たちを封殺する手立てがなくなるからだ。
荊州南部の支柱であった韓太守が亡くなり、南部随一の長沙郡が落ちてしまった以上、残り三郡が降伏するのも時間の問題であろう…
これで、荊州四郡が連合して劉備と対峙し、曹公の南進を待つという構想は破綻してしまった。
「畜生ぉぉぉぉっ!」
込み上げてくる怒りと悔しさを声に出し、固めた拳で地面を激しく打つ。
渾身の力を込めて放った一撃は、地面にめり込んで拳大の穴を穿ち、空圧が周囲の土埃を巻き上げた。
結局、今回も全て劉備にしてやられたのだ。
奴は、私が背信することも、昨夜の戦いの結果も、すべて予測したうえで影武者を立てて皆を欺き、曹公と孫権が睨み合っている間に自らは悠々と荊州南部四郡へ侵攻する準備を進めていたのだろう。
そうして秘密裏に元戎を量産と、南部四郡に在る有力者の調略をしていったことで、今回の電撃的侵攻を成功させたのだ。
極悪非道を通り越し、悪魔とさえ呼べる戦略眼と、圧倒的戦力を有していていながらも油断なく、偽装や調略、暗殺といった搦め手を多用してくる老獪な戦術。
あらためて、私は恐るべき男と戦っているのだと戦慄する。
「だ、だが…」
それでも、劉備の再打倒を誓った以上、私が諦めることはない。
ガタガタと震える歯を食いしばり、絶望的な状況を分析していく。
水軍を失った曹公は北へ帰り、劉備と手を組む孫権は論外、頼りにしていた韓太守は討たれ、結局、劉備に対抗できる勢力が荊州にはもういない。
蜀に逃れて再起を図るか、曹公を追って北に向かうか…
「駄目だ、それでは荊州の民を見捨ててしまうことになる!」
どうすればいい…どうすれば…
考える前から分かっていた。
それでも、考えてみたが答えは変わらなかった。
荊州は、劉備の支配を受けざるを得ないのだと…
絶望とは、一縷の望みすらも絶え果てたことをいうのだと…
だが、悟ったことで新たに気づいたこともある。
絶望という答えが出て、それ以上思考することを止めた結果、今、自分を取り囲む雰囲気に違和感を覚えたのだ。
「彊…達…どうした?」
その原因ともいえる子供たちに問いかけるも、何故か訴えかけるような目を向けてくるだけで二人は答えてくれなかった。
不安を募らせた私は、子供たちと再会してから今までの事を振り返ってみることにした。
すると、思考に没頭するあまり、子供たちを助けてくれた男の事を聞き逃していることに気が付いた。
「そうか!お前たちを助けたという御仁の話を最期まで聞いてなかった」
二人に目で問えば、今度は二人とも頷き、彊がその男の言葉を伝えてくれた。
「実は、その御仁から父上に、お伝えするように御伝言をお預かりしております」
「申してみよ…」
「はい。劉備をこのまま放置してはおけぬ。本日より一カ月後の新月の晩、宜城の馬氏邸で待つ…と」
「・・・!?」
「そうか… 」
男からの伝言を聞き、私は嘆息した。
熱くなる目頭を押さえて自分の未熟さを恥じ、それ以上に、協力者の出現に感動した。
私と共に、劉備と戦おうとする同志がいたのだ!
思えば劉備と対峙して以来、全て自分一人で背負い、解決しようとして迷走していた。
劉備から逃れ、荊州各地の学友を訪ねた時も、私が一方的に主張するだけで相手の意見を積極的に聴こうとはしなかった。
一度は裏切りを誓ってくれた陳到にも、その正義感と趙子竜へ嫉妬・劣等を利用しようとして、深いところで劉備とつながる張闓という心理を見破ることが出来なかった。
彊と達、赤壁で散った少年兵たちや魯子敬・周都督等のことも駒としか見ていなかった。
幼少期から知恵がすぐれていることを自他ともに認めてしまったため、他者の考えを聞かず、ただの道具としか見ないようになっていたのだ。
これでは力を貸してもらうことなど出来ようはずがない。
ようやくそのことに気付くことが出来た。
「その御仁は他に自分を特定する言葉を残さなかったか?」
「最後に、『すいきょう』という言葉だけ残されました」
男が最後に残したという言葉を聞いて私は、その正体を悟った。
間違いない、あの男だ…
いままで語り合ったこともなく、荊州を回っていた時もほとんど論を交わしたことはなかったが、危機に瀕すれば危険を顧みず我が子等を助け、延いては私をも助けてくれるとは…こんなにも熱い男だったとは思いもしなかった。
目を瞑り、その果敢な行動に感謝の念を送る。
水郷とはすなわち、武陵の藩承明を指す。
それは、昔、藩承明が湘郷の県令(県の長官)に就いたばかりの頃、酒の席で気を大きくし、いずれ大臣にまで出世するのだと大言したところ、ある人からお前は良くて水郷の長だとからかわれたことに由来する。
当時、「狷介」と評されていた藩承明は、当然、その人に食って掛かると皆思ったが、ところが、藩承明は相手を罵倒するどころか謙虚にその人の言葉を聞き入れ、後から友人がなぜ反論しなかったのかと問えば、未だ自分には長としての徳が備わっていないのだと反省していたという。
以来、仲間内では水郷を自称して傲慢な振る舞いを一切しなくなったという。
そんなことから、荊州の知識人の内では水郷といえば藩承明をさすようになった。
思わぬ協力者の出現だが、現状、劉備打倒の同志である馬季常とも繋がりがある様であり、藩承明の誘いに乗ることに腹を決めた。
それでも、次の新月まで、劉備が何をしてくるかわからない。
馬季常は優秀な男だが性格が温厚過ぎて緊急の場合に不安が残る、そこで私は、機転の利く彊と武術に優れる達を馬季常の下へ派遣することにした。
「彊、達!」
「「はい!」」
藩承明の言葉を伝え終え、黙って次の指示を待つ子供たちの名を呼べば、快活な返事が返ってくる。
「お前たちはこれより宜城の馬季常を訪ね、そこで彼を支えて次の新月を待て」
「はい。かしこまりました!」
私の指示に、達は一切の迷いなく承諾してくれた。
「父上は一緒に行かないのですか?」
一方、彊は私が同行しない事に気づき、その理由を尋ねてきた。
「うむ。私は、少々寄るところがある。心配するな、次の新月の晩までには必ずお前たちの前に戻ってくる」
私には、同志たちと共闘する前に片づけておかなければならない私事がある。
身内の恥を自ら始末し、心残りの無いように未練を断ち切っておかなければならなかった。
「そのお身体では無理です。せめて治療を受けてからでは駄目なのですか?」
私の決意が固いと知っていながら、彊は尚も食い下がろうとする。私の身を案じてくれていることが痛いほど分かるが、孝行娘の願いを聞き入れてやることは出来ない。
「私にはどうしても行かなければならないところがある。だが、このまま馬季常を一人にしていては劉備やその息のかかった輩に害されてしまうに違いない…彊よ頼む!お前と達とで馬季常を支えてやってくれ!」
荊州を手中に収めようとする劉備が、在野の知識人たちを放っておくはずもなく、そのなかでも若手の代表格ともいえる馬季常は、今後の我々の反抗を期す上で絶対に劉備に渡してはならない。
そのことを彊は分かっている筈だが、念を押すように、その与えられた使命の重要さを言い聞かせた。
「分かりました。馬季常様のお家でお待ちしております」
説得の末、彊も私の命を受けてくれた。
「それでは、宜城でお待ちしております!」
「うむ。新月の晩まで一月もないが、馬季常は荊州でも指折りの秀才だ。お前たちもしっかり学ばせてもらいなさい」
「はい!」
達は元気そのもので、彊はまだ表情に憂いを帯びながら一つの馬に乗って北へと向かっていった。
二人ともその表情が少し誇らしげになったのは、大役を任せられるほど信頼されるようになったという嬉しさだろうか。
「さて、私も行くか…」
近くには雌馬が一頭いる。
別れ際、彊は私の怪我を手当てしてくれただけでなく、達は新たな義足を用意してくれ、彊はそれだけでは足らぬと、自らの物資と馬を私に譲ってくれたのだ。
馬には乗れぬと断固断ったものの最後は泣き落とされ、こうして旅に必要な物が揃った。
本当に私には過ぎた子供たちである。
その彊が残した雌馬と目があった。
「ふふ、走らせることは出来ぬが、覆いかぶさる事なら出来る」
その手綱に手をかけ、ゆっくりと馬の背に乗って、落ちないように覆いかぶさると、優しく馬の尻を撫でる。
すると、雌馬はゆっくりと前に進み始めてくれた。
行く手には不吉な暗雲が立ち込めているものの、不思議と気が重たくはならなかった。
「あゆみてぇ~、せぇいじょ~のぉ~、門をいずぅ~」
気分も上々、しばらく梁父吟も止むことはなかった。




