夢水
ううぅ~ううっ、うぅ~
あぁ……あれはいつだったか…
うぅ~、うぅ~
まだ隆中で隠棲していた頃、私は一度、大熱を患ったことがある……
季節は冬で、外は雪が舞う程に凍えていたが、私の体は火がついたように熱くなっていた。
連日熱に魘され酷く喉が渇いていたのを覚えている。
そう……ちょうど今のように…
うううっ、み、みずぅ~、水を~
あの時も私は水を欲していた…
弟の均は、私の為に薬を求めて襄陽に旅立ったばかりで、隆中の居には家事手伝いの少女・玉蘭だけが残って、私の看病をしてくれていた。
玉蘭は献身的に看病してくれていたが、私の熱は一向に下がらなかった。
そして、発病から3日が経とうとしていた…
「うぅ~、み、みずを、水をくれぇ…」
眠りから覚めた私は、高熱からの酷い渇きに襲われた。
体力の消耗が著しく、体を動かす事も出来ない私は、ただ水を求めて呻くしか出来なかった。
「は、はい……少しお待ち下さいませ…」
普段なら、私が用事を言い付けると、軽口の一つでも返ってくるところだが、あの時、隣の部屋からはひどく慌てたような玉蘭の声がした。
暫くすると水を汲んできてくれたが、ひょっとすると、私の看病で疲れ果てて、眠っていたのかもしれない。
「先生、水をお持ちしましたよ。さあ、ゆっくり飲んでくださいね」
「あぁ……玉蘭、すまない…ありがとう…んぐ、んぐ、ぐぶっ、げほっげほっ」
「ほら、先生ゆっくり飲んでっていったのに……もう、こんなに零して……」
「ううっ……か、からだが冷たい水を受付ないようだ…」
「そうなのですか……それなら…」
熱の所為で臓器が弱り、冷たい水さえ満足に飲めない私を見て、何故かその瞳に妖しさをたたえた玉蘭は、私の為に汲んできた水を自らの口に含むと、なんと口移しで飲ませてくれた。
玉蘭の体内で暖められた冷水は適度に温まり、その味は、まるで甘露を飲んでいるような至福の時を私に与え、熱で乾ききった体を優しく潤してくれた。
ゆっくりと全てを飲み込んでから、僅かに目を開けると、そこには目を潤ませ心配そうに私の顔を覗き込む玉蘭の顔があった。
高熱の為に朦朧とした中では胸が高鳴るはずも無く、何も出来なかったが、その美麗な貌は今も脳裏から離れない…
うぅ、うううっ、うぅ~
今、思えば彼女の思いに応える機会はいくらでもあった……
あぁ……許してくれ玉蘭……
私はお前を幸せにすることが出来なかった……
うっ、うううっ、うっ
叶うならば、もう一度お前に会いたい……
ううぅ、うっ……はあはあ…
そして、あの時のように、水を飲ませてくれたら……私は…今度こそ……
はぁ…はぁ……はぁ………はぁ~…
一度体内から出た水分はこんなにも冷たいものか…それとも私の体温が異常に高いのか、頬を冷たい雫が滑っていった。
ゆっくりと視界が暗くなっていく。
首から下の感覚も既に無かった。
あぁ……もう何も見えぬ…何も聞こえぬ…
意識が朦朧として我が儘に目を閉じた。
「───」
「!?」
不意にどこからともなく声が聞こえてきた。
だが、何を言っているのかは聞き取れない。
目を開く事も億劫で、そのままにしておこうかと思った…
………
「せ…せ…」
「誰だ……?」
まただ、誰かに呼ばれている気がする。
せめて声のする方に意識を傾けた。
「せんせい……」
今度は鮮明に聞こえた。それは、確かに聞き覚えがある……
快活で澄んだ声……
「ま、まさか!?」
「先生……」
「その声は……玉蘭!」
「孔明先生!」
もうその姿を見ることは叶わないが、間違いない。この声を忘れる訳がない。
ふふっ……そうか、お前が私を迎えに来てくれたのか……
最期の最期で思い人との再開を私は喜んだ。
「孔明先生……駄目です…まだ…」
しかし、玉蘭の声は哀しみに溢れていた。
「…どうした?」
「災禍の凶星は未だ南天に赤く輝いております。どうか、先生のお力で滅ぼして下さいませ……」
「南天に凶星?……ふふっ、馬鹿な……奴はこの私が確かに仕留めたのだぞ?入念に何発も止めを…」
「お願いします。どうか、皆の無念を晴らして下さいませ……」
「ま、待て、どういう事だ?奴は、死んでないというのか?」
「お願いします……」
「待て玉蘭、待つのだ!」
「───」
「待て…玉蘭…私は…お前を……」
…………………
………
かはっ……はっ、はっぁっ、ははぁ~、はぁ~、はぁ~
久々に吸った空気の味に、意識が鮮明となってゆく。
体中に感覚が戻り、同時に戦いで負った傷が痛み出す。
どうやら、私はたった今まで生と死の境目にいたらしい。
あのまま眠って骸になるところを、こうして息を吹き返した。
あの夢は何だったのか……玉蘭、お前は私を置いて何処へ行ってしまったのだ……
会いたい……また、お前と話したい…お前の笑顔を見て、そして、思いっきり抱きしめたい……
だが、その前に
「みずぅっ!」
感傷に浸るよりも、まず、猛烈な喉の渇きにこれ以上耐えられそうに無かった。
「うがああっ!」
地面の土をしっかりと掴みながら両手をついて一気に立ち上がろうと気張る。
片足が無い……
体勢を崩して顔から泥土に突っ伏した。
………
……………
そうだ……思い出した…
燃え盛る船から長江に落水し、我を失った私は、地力で北岸にたどり着くも、足に受けていた張闓の毒が全身回る事を防ぐ為に、片足の足首から先を斬り落としたのだった。
血道を塞いで止血を施したところで力尽き、絶命寸前までいったが、玉蘭の幻影に起こされて何とか一命を取り止めたようだ。
ゆっくりと泥土から頭をあげ、辺りを見回す。
暗闇で輪郭がぼんやりとしか見えないが、それは水際に転がっていた。
地を這って近づき、震える左手を伸ばして掴み取ってみれば、斬り落としたそれは冷えて硬くなっていた。
断ち切る際に覚悟はしていたが、こうして、木片のようになっているのを見ると、込み上げてくるものがある。
毒に穢されて持ち帰る事はもう出来ないが、このまま放置するにはあまりにも不憫なので、せめて獣の餌や増水で流されてしまわぬように埋葬することにしよう。
だが、その前に、喉の渇きを少しでも誤魔化すため、右手で川の水を掬い一気に口内に流し込んだ。
生臭さと土の臭い、そして、焦げ臭さと僅かに鉄の錆びたような臭いが鼻から抜けていく。
暗くて川の水がどんな状態かは分からないが、おそらく、濁っているのだろう。
腹を下してはいけないので、飲み込みたい衝動を必死に我慢しながら、モゴモゴと口内で転がしてから吐き出し、これを三度繰り返した。
すると多少渇きが落ち着いたので、切断した足を持ったまま岸辺から陸へと地面を這って進んだ。
しばらく進むと、これはと思った趣のある樹があったのでその根本に埋葬することにした。
冬の乾いた空気で冷え固まった土を素手で深く掘るのは堪え、それでも無心になって掘り進めて深さ一尺程の穴を掘った。
そのまま埋めようかと思ったが、直接埋めるのも忍びないと感じ、袖を切り裂いて用意した布切れで包んでから穴の中に置き、その上に土をかぶせ、墓標代わりに平たい岩を置いた。
埋葬を終えた途端、疲れと体の不調が限界に達したので、すぐ側に生い茂る草むらに入り込み、仰向けになって寝転んだ。
ふと、先程夢に出てきた玉蘭を思い出す。
「ふっ…凶星など何処にも無いではないか…」
満天の星空を見渡しても、そのような星はなかった。
あの時、確実に劉備は死んだのだ…いったい何と戦えと言うのだ。玉蘭…
ゆっくりと目を瞑り深い呼吸を繰り返して息を整える。
昨夜の戦いで全身に負った傷と火傷、さらに過労による体調の悪化も手伝って、不安はすぐに忘れることができた。
明日の心配よりも、今を生き抜かねばならぬ。
とにかく早く眠って少しでも体力回復をはかり、夜が明けたら水を探そう…
もう渇きも限界だ…
ああ…隆中の水が飲みたい…
そのまま夜明けまで私は眠りについた。




