北風
暗黒の眼窩にぼんやりと浮かぶ赤い瞳から、強い光が放たれる。炎で赤々と照り出されている船内は、赤光が重なり視界は赤一色に支配されていく。
「ああ…あぅああ………な、なぜだぁ~、何故、奴と同じ眼をしているぅ~!!?」
赤光の目映さに目が眩むのを左手で庇いながら、二つの光源に向かって叫ぶが、応えてくれる者は誰もいなかった。
もし、あれが劉備と同じ瞳ならば、奴は配下の兵士を次々とあれに変えていくだろう。
不死身且つ、怪力の軍団が奴の指揮下に入れば、もうこの世は終わりだ。
だが、幸い今のそれは張闓のみ。彼を倒し、更に劉備とその下僕…即ち月英を滅ぼすことが出来たなら、ここで全てに決着をつける事が出来る。
決意を秘めた私は、蘇った張闓への恐怖から取り乱す振りをして、後方、隣の船の指揮台に立っている劉備との距離を縮めていった。
「ん゛〜ん゛〜素晴らしい。完璧に再現されていますねぇ」
「お褒めに預かり光栄ですわ。さあ張闓、貴方の力を劉備様に見せるのです」
劉備と月英は私には目もくれず、どうやら自分たちの研究の成果であるらしい張闓の覚醒に夢中になっているようであった。
「うははぁ、承知したぁ〜」
赤光の中に汚い歯が浮かび上がる。それは笑っているように見え、月英からの要請を快諾すると私に向かってゆっくり前進を始めた。
「嗚呼〜もはや張兄は人にあらず〜。劉備によって心に魔物を植えつけられた哀れな男は、ついにその身体までも魔物に作り変えられてしまったのかぁ〜!」
目前に迫る男の変貌ぶりを大袈裟に嘆きながら、さらに後退する。周りにいる者達から見れば今の私の姿は、さぞみっともなく映っていることだろう。
遠くから達が私に向かって早く逃げてと叫ぶ声も聞こえてきた。
正直、こんな猿芝居などする必要はないのかもしれない。
既に必勝の計略は施してあり、このまま退散しても十分に勝算はあるのだ。
だが、私は確実に劉備の息の根を止めることに執着する。
なぜなら、既に一度、奴は死から蘇っているからだ。
張闓の出現により思い出された過去の記憶…そこには、徐州時代の幼い私に接触してきた劉備を、この手で殺害する記憶もあった。まるで実感が無いのは、その直後に私は記憶を消され、気づけば弟の均と二人で荊州を彷徨っていたからだろう。
だがあの時、確かに私は劉備の心臓をこの手で貫いたのだ。間違いない。
それでもなお、こうして私の目に前に存在するのだから、やはり奴の息の根は確実に止めければならない。
船を挟んで劉備との距離はさらに縮まった。
歩幅にしておよそ十歩。
ここからであれば確実に奴を仕留めることができるだろう。
そこで私は後退を止め、眩しさも厭わず目の前の邪魔者を迎え撃つ構えを取る。
「ふぅん、潔く戦う腹を決めたか…」
狼狽しながら後退していた私がぴたりと停止し、迎撃の構えを取ったことで、張闓は面白くなさそうに顔を顰めつつ前進を止めた。
このまま、再び膠着状態に入るのも鬱陶しい。
さりとて、こちらから前進しては、折角、猿芝居をしてまで劉備に近づいた意味がない。
ならば、相手に近づいて貰えば良い。
よってここは挑発に限る。
「ふふふ、ふははあはあはあは…張兄、私は端から貴方と戦う気などありませんよ」
相手を馬鹿にするように、肩を揺らして大いに嗤い、張闓の勘違いを指摘する。
「ほおぅ、それはどういう意味かな?」
私の言葉に興味を持ったのか、薄汚い笑みを作りながら張闓は首をかしげた。
すると、傾けた半開きの口からは一条の涎が垂れ落ちた。
黒くてドロドロとしたそれは、床に落ちると熱した金属に水滴を落としたかのようなジュッという音を立てて床の表面を溶解させている様に見えた。
「我が仇敵は劉備唯一人、そして貴方は奴への途上に突如現れた蟻のごとき虫けらに過ぎません。そんなものはさっさと踏み潰すのみです」
危険な涎に臆すことなく、私は劉備への途上にある邪魔な存在全てを振り払うかのように、右手を真一文字に一閃させた。
「き〜さ〜まぁ〜、愚弄するのかぁっ!!」
私が挑発している事に漸く気づいた張闓は、憤怒極まった様子で天に向かって吼えた。
「張闓、そんな安い挑発に乗ってはいけませんよ。貴方は私が生み出した最高の試作品なのです。さあ、さっさとそんな男は殺してしまいなさい」
そこに、私の意図を見抜いたのか、激昂する張闓を宥めようと月英が声をかけてくる。
「うっ、うははぁ〜承知したぁ〜」
相手が月英とみるや張闓はすぐに怒りを解き恭順してしまった。挑発が成功すると思っていたところを邪魔されて内心焦りを覚えたが、それなら、張闓と戦いながら劉備に接近すればよいと思い直し、こちらから仕掛けることにした。
無言のまま、斜め上方向に跳躍しつつ左右に広げた両手を小刻みに上下させ利き足の腿を臍の高さまで上げる。
接近と同時に強く相手を蹴りつけ、その反動を利用して自分は後方に退く、攻避一体の妙技・八蜂脚を使うためだ。
その標的である張闓は、月英に対して片膝をつき頭を垂れた状態から、私の動きを察知するや立ち上がり、両手を合掌させつつ振り上げて私を叩き落とす構えを見せた。
このままでは、おそらく私の蹴りが届く前に、張闓によって叩き落とされてしまう。
だがもう止められなかった。
滞空状態から落下へと移り、張闓へと肉迫する。
寸前、私は両手を羽のごとくばたつかせ、刹那の停滞を創りだした。
直後、勢いよく振り下ろされた張闓の両手が空をきった。
羽ばたく事で張闓との機会を一拍子外し、迎撃を躱すことに成功した私は、一心不乱に張闓の懐がけて蹴りを放った。
確かな感触が爪先に感じられ、さらにそこへ捻りを加えてより効果的に破壊していく。
ドゥブブドゥブドゥブ!!
張闓の口内から大量の黒い血液が吹き出す。
渾身を込めた私の蹴りは、張闓の胸深く通り、皮を破り、筋を断ち、肉を抉り、そして、胸骨を砕いたところで止まった。
「ぶふっ、地獄に行くのは貴様独りだ、諸葛孔明!!」
「しまっ!?」
見通しが甘かった。
一撃を加えて離脱しようとしたが、張闓の体深くに突き刺さった私の足は、肉に挟まれて素早く抜けず掴まれてしまった。
直後、甲板に叩きつけられる衝撃とともに視界は暗転して電光が走り、血液の匂いが漂う。
一瞬、意識が飛び、気がつけば甲板に這いつくばっていた。
叩きつけられた時に折れてしまったのであろう鼻からは、ボトボトと大量の血液が出ており、急いで止血を行う。
幸い、鼻以外は打撲で済んだ様で、重石の様にのしかかってくる痛みに耐えながらも、私は気張って立ち上がった。
直後、右足に焼け付くような痛みが走り、慌てて靴を脱ぎ捨てた。
見れば私の右足は張闓の血液で黒く爛れていた。
それを薄ら笑いで見ていた張闓は、追撃とばかりにこちらの反応を上回る速さで接近してくると、手に持った剣を振るう事無くそのまま体当たりをかましてきた。
「うはぁっ、どうしたぁ~、蟻の如く踏みつぶすのではなかったかぁ~、えぇ?諸葛孔明ぇ~」
斬撃を想定していた私はいきなりの肉弾戦に出鼻をくじかれ、まともにくらってしまう。
それは人外の怪力であり、私は大きく吹き飛ばされ、危うく落水するところをなんとか船縁に手をかけてこらえ、距離を置くように張闓から少し離れて着地した。
「うふふ、いま張闓は覚醒状態にあります。枷が外れていますから体が壊れるのも厭わず力を振るうことができるのです」
張闓の猛攻の前に私が動揺していると察したのか、月英が興奮気味に説明してきた。
その傍らには化け物じみた張闓の戦いぶりに満足してか劉備が満面の笑みで佇んでいる。
そして、張闓は張闓で自分の怪力に自分で驚き酔いしれているようだった。
まるで新兵器の実験をしているだけのように映る相手に、身命を賭して挑んでいることに自嘲しつつも、私は出血の無い方の鼻穴に指を突っ込み、鼻息と共に鼻内の血液を外に放出して呼吸を整え、目の前の強敵を分析する。
確かに張闓は強い。
強すぎる…
長い歳月を経て文武双方を鍛えてきた私を嘲笑うかの様に、その怪力で技量の差を補いきってしまっている。
その膂力たるや伝説に残る悪来や任鄙に比肩しうるのではないだろうか。
だが、その体を見れば先ほどの速攻を生み出した左足には歪みと出血があり、それ以上に修復しようとする血液の泡に塗れていた。
「ふっ、ふふふ、情けない…自分の体も満足に使いこなせぬとは…」
先程から私に対して、一方的に押しているのにも関わらず、張闓自身の方がより傷を負っている。
しかも、その事に本人は気付いていない。いや、それすらも快く感じているのだろう。
その痛々しい有様を目にして、私は力に溺れた張闓の愚かさを嘆いた。
「なに?」
自分自身に夢中になって、私の言葉が聞き取れなかったのだろう訊いてくる張闓を無視して、私は目を瞑り呼吸を整える。
「すぅ~はあ~」
鼻から息を吸い、口から吐き出す。
血液の臭いと熱をもった全身の痛みを感じながらも、心穏やかにして大気を体に取り込み、腹の底に力を溜める。
「貴様、何を企んでいる?」
自己への陶酔から醒めたらしい張闓は、殺気を放ちつつ、ゆっくりと警戒しながら接近してくる。
そこで、私は大きく息を吸い込むと、声高らかに兵法の一節を諳んじた。
「彼を知り~、己を知れば~、百戦危うからず~」
「孫子か…今更なんのつもりだぁ!」
軍事に携わる者としては当然に知る兵法を、敢えてこの場で諳んじるのがよほど耳障りに聞こえるのか、張闓は私を力で黙らそうと左腕を上げ、固く作った握り拳で殴りかかってくる。
どうやら先に自らが試し斬った傷はもう修復してしまったらしい。
ぶちぶちと筋組織が断たれる音を上げながら、周りの空気をも巻き込んで突風の如く放たれる張闓の豪拳。
それが当たる寸前に私は右手で受け流し、後に残った風だけが顔面を涼しくする。
勿論、そんな涼風で私を止めることは出来ない。
「彼を知らず~、己を知れば~、一勝一敗す~」
おそらく渾身の一撃だったのを防がれて、張闓はさらに攻めを苛烈にする。
拳による一撃必殺が叶わぬならばと、次は右脚による暴雨の如き連続蹴りできた。
「うおらぁ!」
欄干を一撃で木っ端へと変えてしまう凶器が、連続で襲いかかってくる。
「うらぁ、うららららららぁっ!」
連続蹴りの残像が生み出したそれは、触れるもの全てを粉々に砕く恐怖の壁だ。
一発もらえば、断ち何処に数十発の蹴りを食らわされ、再起不能に陥るだろう。
だが、それでもその数は変わらない。
「なぁぜだぁ~、な~ぜ当たらないぃ!?」
そう。
雨の様に見えても、所詮は一本の足だ。
蹴るためには伸ばした足は一度戻さなければならない。
手ほど俊敏でなく、器用でもない、よってその軌道も容易く読めてしまい紙一重だが全てを躱すことが出来た。
「彼を知らず、己を知らざれば~戦う毎に必ず敗れる…………貴方のことだ…張闓!」
「ほ、ほざけっ、さっきから反撃一つ出来ておらぬではないか!」
徒手戦の末、兵法の暗誦を終えた私は両腕を交差させて胸部を防御する。
そこへ張闓は激烈な蹴りを放ってきた。
全神経を防御に集中させることで、人は驚く程固く守ることができるが、それでも、張闓の蹴りは凄まじく私の予測を超えていて、急所への衝撃は防げても、その勢いを全て殺す事ができず、軽く吹き飛ばされた私は、着地の際に体勢を崩して片膝をついてしまう。
「これでぇ、おしまいかなぁっ!」
これを好機ととらえた張闓は、遂に手に持った剣を振り下ろしてきた。
ギィンーーーッ
鈍い音とともに金属が震える音が響いた。
「ばっ、馬鹿なぁぁっ!鉄剣だぞ、何故断てぬ!?」
暫く沈黙が続いたあと、悲鳴に近い張闓の絶叫が戦場に虚しくこだまする。
頭を狙ってきた張闓の剣を、私は手刀で止めていた。
この場にいる皆が、離れて戦っている達でさえも、今、起きた事が信じられないと呆然としていた。
そのまま手刀で張闓の剣を弾き返し、すくと立ち上がる。
「ふん、熱した砂に何度も何度も突き込んで鍛えた。貴方程度の剣の技量では、断つどころか、ほら、この通り傷つける事すら出来ない!!」
私は、無傷の拳を天に突き上げて見せながら、内心ではヒヤリとしていた。
もし、少しでも傷がつこうものなら、あの劇毒にやられてしまうところだった。
それだけ、先程からの連撃に私は追い詰められていたのだが、哀れ張闓は並の鉄剣しか与えられていなかった事が、この勝負の行方を決めた。
私に決め手を防がれ、油断というよりも我を失っていた張闓の腹部に素早く両掌を当てる。
〈私は張闓と対峙しながら考えていた。
彼は一見して不死身の肉体を持っている。
急所を貫いても死なず、裂いても、破いても、砕いても、あの黒い血液の泡が全てを再生してしまうのだ。
勿論、黒い血液の泡が付着した所に、無防備で触れようものなら、即、私は死を迎えるだろう。
現に、先程は八蜂脚の際に、張闓の血液が靴を溶かし、危うく死ぬところであった。
つまり、決め手を持たず、ただ闇雲に攻撃を加えるのは愚の骨頂。
ひたすら受けに回り、張闓の一挙手一投足に注意を払った。
そして、打開策は相手を洞察する事ですぐに見つかった。
張闓を不死身にしている最たる理由は、その超常的な再生力に他ならない。
それによって、致命的な傷を受けてもすぐに回復し、また、自損しても平気で立っているのだ。
だが、傷を負わせていることは間違いない。
ならば、それを上回る力をぶつければ、破壊し尽くせるはず…だと〉
ここまで溜めてきた体内の気を、両掌を通して張闓の体内に送り込んだ。
『秘功・瀑殺過勁』
たとえ堅牢な堤も、想定を上回る流れの前には破れるのが道理。彼の許容量をはるかに超える瀑布の如き『気』を一気にその体内へと送り込み決壊させる…これはそんな技だ。
それを受けた張闓は立ったまま微動だにせず。私も自らの分析と技への絶対的信頼から結果を確信して追い討ちをかけず後方へ跳躍する。
執念か、将又、最期の意地か、張闓はついに倒れなかった。
蹌踉めき倒れそうになるのを、力が入らぬはずの両足で懸命に堪え、遠ざかる私を睨みつけている。
しかし、その鋭い眼はゆっくりと閉じられ、涙が両頬を伝って流れ落ちた。
彼は震える手を胸に当てつつ最期に口を開いた。
「ぐ、ぐぐぐ、こ、孔明、大きくなったなぁ…」
「っ!?」
再び開かれたそれは紛れもなく、あの頃の眼差しであった。
「ぶぷっ、ぶるぅうばあっ」
次の瞬間、張兄は断末魔を残して決壊した。
後方へ跳躍しつつその最後を見届けた私は、目を瞑り哀悼の念を捧げると、一背転して劉備の乗る船に着地し、目の前に立つ元妻・月英に手をかける。
『熊爪咲散花』
妻だった女の最期の表情は、張闓という自分の自信作を壊した憎い男に向けられたものではなく、添い遂げる事が出来なかった愛する男へと向けられる愛慕の表情に見えた。
スバァッ
それが血で染まった。
その容姿に相応しく、華麗でどこか妖しい艶美な血の花を咲かせて散る元妻の亡骸を抱きとめることもせず、私はその隣で薄ら笑う劉備に更なる食指を伸ばす。
「劉ぅぅぅ備ぃぃぃぃぃ〜」
積もり積もった怨み辛み、無惨に殺されていった民の願いを込めて、今、私は宿敵へと肉迫する。
ダァンッ…
「がはっ!?」
それまで漲っていた力が急に抜け、脇腹には熱とともに激痛が走る。
目の前の劉備を見れば、懐からどこか見覚えのある筒状の武器を私に向けて構えており、先端からは白い煙が立ち上っていた。
「ば、馬鹿な…私の視力で捉えきれぬなど…」
愕然として這い蹲る私を見て、劉備は嗤う。
「ん゛〜ん゛〜ん゛〜まったく…どいつもこいつも役に立たない…結局この私が全て片付けなければならない…」
張闓の残骸と、月英の亡骸、そして主の危機に反応せず弓を構えて立ったままの精鋭たち…それらを睥睨するかのように見回し、劉備はため息をついた。
「ああ、貴殿を撃ったこの兵器が気になりますか?」
一人でがっかりした様子だったのが、急に思い出したように私の問いに答えてくる。
「ん゛〜ん゛〜、これは拳銃と言いましてね…火薬によって鉄の玉を飛ばす道具なんですよ。ん゛〜ん゛〜ん?いや、この時代なら、拳銃と呼ばず『元戎』と呼んだほうが面白いかもしれませんねぇ〜ん゛〜ん゛〜」
笑いながら、兵器の作動部らしき所に当たる輪っかに指をかけてくるくるとその兵器を回す劉備は、ひとしきり笑ったあと、その元戎と呼んだ短い筒状兵器の先を私の頭に向けてきた。
「さて、どうやら記憶も戻ってしまったようですねぇ…ご覧のとおり、私には今の時代よりはるかに進んだ時代の記憶と知識があり、力があります。無いのはその知識と力を有効に使ってくれる同士だけ…軍師殿…この時代において天才と称される貴殿なら、私の同志に相応しいと思っていたのですが…」
「ふん、この諸葛孔明、悪魔に売り渡す魂など持たぬ!」
「ん゛ん゛、ですよねぇ~幼き日の貴殿にも断られ、挙げ句、命まで奪われてしまいそうになりましたん゛~ん゛~」
劉備は元戎の筒先を私に向けたまま遠くを見つめ、過去の思い出を懐かしむように目を閉じた。
それは絶好の機会だった。このまま被弾覚悟で奴へと突進すれば奴の首は容易に飛ばせるはずだった。しかし、無念にも私の脇腹を貫いた元戎なる兵器のためにそれは不可能であった。
血道を塞ぎ出血こそ最低限に抑えているものの、熱を纏った激痛は着実に私の体力を奪っており、力が入らぬ手刀では奴に致命傷は与えられない。
ん゛~ん゛~
回想を終えたらしい劉備が再び目を開く。それは、明らかに今までと違って関心を失ったように見えた。
なぜか今まで私は殺されなかったが、どうやら奴自身、決別の決断がついたらしい。
これまでか…
結局、私は奴によって全てを失った者達の無念を晴らす事は出来ないのか…
荊州十万の民、周瑜の贄となった幼い生人形達、今尚戦場の駒となって命を散らしている若き兵たち…達、そして、彊。
劉備打倒の為に策を巡らし、多くの犠牲を払いながら、私はここまで来た。
地位も名誉も、人としての情さえも捨てて、一心不乱に奴を殺す事だけを願って、ここまで来た。
そして、後一歩のところまで追い詰めた。
なのに、あんなちんけな兵器に私が負けるというのか…
たった一発の弾だけで、全てが水の泡と消えてしまうというのか…
………
……
…
。
「いや…無い」
「ふふっ、うははあ~はははははっ」
遠く陸に生い茂る草木がざわつき、遠い方から一斉にこちらに向かってその先端が倒れてくる。
木の葉が舞い上がり、立ち上る煙もその流れに乗った。
私の勝ちだ。
ビュォオオオ!!
風が鳴く音の後、凄まじい突風が私の顔面に吹き付けた。
真冬に相応しい凍えるような北風は、長い間、熱気に晒されていた私には心地良く思える。
「こ、これは!?」
突然の風変に劉備が硬直する。
「ふはは、風よぉ吹けぇ〜もっと吹けぇ〜」
私の煽りに呼応するかのように風はますます強まり、鎮まりかけていた火にも勢いをもたらしていく。
始め東南の風にのって北側を焼いた火は、今度は北風にのって南側へと向かい、未だ江上に多数残る筏に延焼していった。
まさに侵略すること火の如し、風を得た火は、凄まじい速さで劉備の船団に飛び火していき、旗艦であるこの船に延焼するのにも、そう時間は要しないだろう。
燃る船団から視線を目の前の劉備に戻せば、周囲の状況など完全に無視した様子で、私を睨みつけていた。
余裕のない真なる怒りの眼に、全身に寒気が走るも北風の所為にし、私は最後の力を振り絞って声高らかに宣言する。
「我策成れり。劉玄徳、炎獄の中でその野望ごと燃え尽きるがいい」
ダンッ‼
私を黙らそうと元戎を作動させた劉備だが、動揺から弾は私の耳を掠めるだけだった。




