赤瞳
劉備の船に襲撃をしかけてから既に半刻程が経った。未だ江上では船が盛んに燃えている。最初の火計により燃えた船団は既に殆どが沈没するか燃え尽きていたが、曹公を陸へと運んだ船団が岸辺から切り離され、漂流していたところへ延焼したのだ。だが、その炎も肝心の東南の風が止みつつある今となっては、これ以上燃え広がることもないだろう。
「父上、ここは俺にやらせてください!」
師に裏切られたという衝撃的な事態に茫然自失としていたはずの達が、既に臨戦体勢に入っている私の前に飛び出した。
愛する息子の突然の奇行に戸惑うも、少し考えれば無理もないことだと察した。
おそらく、達はすべてが終わってしまう前に、師と語り合いたかったのだ。
たとえ、相手が会話を望んでいなくとも、一度拳を交えれば、その真意や迷いを知ることができる。男同士が拳を交える闘いは暴力ではない。言葉で語らずとも成り立つ歴とした対話なのだ。
だから、私には今の達の気持ちがわかる。かく云う私もそれを望み、劉備を前にしてさえもこうして目の前の男と対峙しているからだ。
父としては、愛する息子に、師だった男との決着をつけさせてやりたい。だが、今は私も一人の男。拳士としてこの場に立ち、宿敵と相対している。
たかが数カ月間師事した程度の因縁に譲れる訳がない。
「下がれ達、お前の敵う相手ではない!」
「父上っ!」
力不足を指摘され、達の顔に悔しさが滲み出る。強く訴えかけるような目でこちらを見つめてくる達に、私は固い表情のまま、その身の程知らずを厳しく叱る。
「一時の情に惑わされて我を忘れたか?私はお前に勝てぬ戦をせよと教えた覚えはないぞ!」
私からの叱責を受けて達は表情を強ばらせ俯いた。しかし、そのまま諦めて下がるのかと思えば、何故か急に顔を上げると、表情を緩めて人懐っこい笑みを浮かべた。
「それでは、父上と共に戦わせて下さい。どうしても、師と闘いたいのです」
これには参った。なんと達は自分ひとりで戦うことが認められないと判断するや、それまでの態度を変え共闘を願い出てきたのだ。
なんという柔軟な思考、応変の才か。内心で感心しつつも、それでも私は視線を敵に向けたままゆっくりと首を横に振る事でそれ以上の要求を拒否する。
「達よ。この男とは、お前には想像もつかぬほど深い因縁があるのだ。ここは私一人に譲ってはくれまいか?」
顔には出さないが、初めて子に対して懇願すると、達もそれ以上の我侭を諦めてくれたようで、私の前から引いてくれた。
「…分かりました。それでは雑魚はお任せ下さい!」
頼もしい言葉とともに双剣を抜き放つ音が背後から響く。
「すまない。私が合図するまでに、できるだけ奴の手駒を減らしてくれ、危なくなったらお前だけでも逃げるのだぞ!」
周囲に内容を悟られぬ様、口唇の動きで話しかける。
「父上を残して逃げることなどできません!必ず退路を開いてご覧に入れます」
対して達も声を発せず返してきた。
「うむ!任せたぞ!」
任せたという私の言葉に応ずるかのように、達は一足飛びで左隣の船に移り、劉備の精鋭に向かって駆け出した。
達の向かう先にいる劉備を見やると、薄ら笑いを浮かべながら此方を見下している。その船縁には弓矢を構えた装甲兵がびっしりと揃えられており、結果の如何に依らず私と張闓との戦いが終わり次第、私に向かって射掛けられるのだろう。
忌まわしい記憶は蘇り、奴への憎悪は既に限界まで達した。しかし不思議なもので、人間、許容できる器以上の災事に見舞われるとそれ以上の感情はわかなくなるもので。ただただ深い喪失感の下、後は全てを運に任せ、目の前の強敵に集中し、しかる後に劉備を仕留めるだけと腹をくくった。
そんな私が思考している間にも張闓は構えを解かず、じりじりと足の指だけを使って此方に接近していた。
私は不動のまま重心を深く落としているよう見せかけ、その実、重心は浮かして構えている。
もし、張闓が一撃必殺をもって突撃して来ようものなら、先程、趙子龍の腹を屠った技で仕留めるつもりである。だが、張闓は私と十歩の距離まで接近した所で、それ以上近づくのをやめた。どうやら、私を警戒しているらしい。
それから十を数えるほど場は静寂に包まれた。少し離れたところで達が奮戦する音だけが響いている。
いや、実際はもっと音は拾えるのだが、それだけ私は集中しているのだ。
それにしても、このまま時が経過するのを待つのは、それだけ重圧に晒され続けることになる。
それを嫌った私は、足の指を駆使して一歩分進んでみた。
すると、それを見た張闓は、足の指のみを使用して一歩分だけ離れてしまう。
張闓の表情からは緊張しているのか僅かに頬肉が引きつっているように見えた。
おそらく、張闓は劉備の面前で醜態を晒すわけにはいかぬのだろう。結局、趙子竜に抱いていた嫉妬も実力的な劣等感から生じていたと、そこから私は結論づけた。だから、趙子竜との戦いに姿を現さなかったし、主人への依存も捨てる事ができないために裏切れず、こうして有利な状況でしか私と対峙できないでいるのだ。
こんな匹夫に達の指導を任せていたとは…
あの子がこの事実を知れば、さぞ嘆き悲しむだろう。そして、結局この男はやはり劉備にとって都合のいい駒でしかないのだろう。
張闓と対峙し、拳を交わすまでもなくそのすべてを見切った私は、忌まわしき因縁となったこの男との因縁に終止符を打つべく、利き足を一歩引きながら後ろに退こうとする反動を利用して、大股で一歩前に踏み出した。
!!?
私の意表をついた前進に、慌てた様子の張闓は急いで後ろに三歩退き、私がそれ以上の前進をしないのを確認してから、漸く一歩半前に前進した。
だが、私は、張闓の前進が終わるその前に大股で一歩前に前進する。
ドダンッ…
船上に虚しい音が響いた。
張闓は派手に尻餅をつき、無様にも剣を手放して慌てるように両手足を使いながら後退した。
私はそれを好機と付け入らず、手で立ち上がるのを促した。
当然、汚い人間に汚い勝ち方をしたくないからだ。
そして、十歩の距離を置いて張闓立ち上がるのを待って、今度は私が一歩後退すると、張闓はまたじりじりと足の指をつかって一歩分前進する。
此の動作を更に二度繰り返し、視線のみを劉備に向けてみれば、明らかに苛立った様子の劉備が指揮台の手すりに両手をかけ、人差し指でコツコツと叩いていた。
兵士達が無表情で弓矢を構える中に一人だけ不快感を表している劉備の姿は目立ち、それを見ただけでも、先程大いに焦らされたという留飲を下げる事が出来た。
「余所見とは随分と余裕だな…不覚をとっても知らんぞ?」
正面を向くと張闓がこちらを睨んでいた。
「ならば、そうやって有りもせぬ隙を伺わず、さっさと仕掛けてみては?私はいつでも構いませんよ」
「…よかろう!」
挑発すると、張闓は怒りの込もった低い声とともに、隠し持っていた小刀を放ってきた。
回転することなく、真っ直ぐに私の胸めがけて飛来する小刀を見定め、今まさに胸に刺さろうとする刹那、両手で挟むように刃を止めた。
パンっという乾いた音が船上に響く。
暗器による奇襲を防ぎ、正面を見ると張闓は不敵に笑っていたが、その額から一雫の汗が流れ落ちるのを私は見逃さなかった。
まさかこの程度の不意打ちで、この私を仕留められると思ってはいないだろう。
つまり、これは意を決して戦う覚悟の証か。
そんなことを、思考の隅で考えつつ、おそらく毒が塗っているであろう刃で己が身を傷つけぬように慎重に扱い、利き手に携えたら、もう一度、張闓を見てこちらもニヤリと笑ってみせる。そして、相手が反応を返す前に小刀を投げ返した。
勢いよく回転して迫る小刀に、張闓は焦ったように見えるが、それも一瞬だけで、まるで少し期待を抱いた私をあざ笑うかのように、人差し指と中指でいとも簡単に掴んでみせた。
さも自慢げに、指で挟んだ小刀を裏表返しながら見せてくる張闓は、次の瞬間、なんと、私の目の前でその小刀を二つに増やしてしまった。
突然の奇術に驚く私をみて満足そうに顔を歪めると、またしても不意を突くかのように急に真剣な顔つきになり、奇声をあげつつ両手から二つの小刀を同時に投げつけてきた。
しかも、一方は縦回転で放物線を描きながら飛んで来るのに対し、もう一方は横回転に加え、曲癖をつけているのだからたまったものではない。
私は飛来する二つの小刀を見極めるべく、視力に全神経を集中させる。
あらゆる雑念を捨てるため一度目を閉じ、ゆっくりと開いてみれば、まるで掴んでくださいとばかりにゆっくりと回転する二つの小刀が見えた。さらに、その向こうにはまっすぐこちらに向かってくる小刀があり、そのまた向こうには、したり顔で笑う張闓の姿があった。
どうやら、最初の回転する2本は釣りであり、仮に両手で取ることができたとしても、すぐあとから迫る本命の小刀が、両手が塞がりがら空きとなった我が胸を突く。という算段であるらしい。
私は、まず縦回転の小刀柄を右手で掴むと、次に横回転の小刀の柄を左手で掴んだ。そして、さらにまっすぐ向かってくる小刀の柄を両方の小刀を交差させて取った。
「ぷぅっ…」
無事に相手の作戦を封じたことで安堵のため息がこぼれた。
と、同時に、そのあまりにも稚拙な戦法に私は吹き出しそうになるが、良くも悪くも張闓らしいと思い直し、単純な性格は以前のままだと僅かに懐かしさを覚えた。
さて、私の番。最早、相手の胸を狙って投げるという暗黙の了解が相互間でかわされている以上、張闓ほど精度の高い投擲術をもたない私は、緩急をつけての直投勝負に出ることにした。
まず最初に調子の取り難い大袈裟な動作から全力を込めた小刀を投擲し、次に素早い動作から力を抜いて遅い小刀を投げつける。そして最後は、二投目と同じ動作から、曲げた人差し指と中指の間に柄を挟んだ小刀を、手首を固定したまま動かさないというちょっとした変化をつけながら全力で放った。
高速に回転しながら飛来する一投目の小刀を、余裕綽々と右手の人差し指と中指の間で挟んで止めた張闓は、ゆっくりと回転する二投目も危なげなく右手中指と薬指の間で掴むことに成功する。
「ぐふふ、これで、お終いかなぁっ!」
張闓が叫んだ。予め、最後の一投に何かしらの仕掛けがあることに気づいていたのだろう。笑すらうかべて空の左手を開いて待ち構えていた。
一投目とほぼ同じ速度で飛来した小刀を、張闓は慎重に左手でつかもうとする。
ただし、一投目と違い回転数が明らかに少ないことにこの男は気づいていただろうか…。
「うっ、ぎょっ、わぁあああああああああ〜」
それは、張闓が左手で慎重につかもうとする直前で急激に落下し、その足に刺さった。
まるで、信じられないものを見たかのように、私の顔と自分の足に突き立った小刀を二度見した張闓は、暫くの沈黙のあと、漸く事態を理解できたようで腹の底から叫ぶような声を上げる。
「はおわああああ、あすぃがぁー、はぁひがぁぁーッ」
そのあまりの痛みに絶叫する張闓の足先を凝視すれば、小刀は張闓の履いている靴を突き破り丁度親指の爪の辺りに刺さっていた。
「ひがっ、ひがが、ががが、がああああああぁっ…くばぁっ」
どうやら小刀に塗られていたのは即効性の劇薬だった様で、みるみる顔色を悪くした張闓は、全身を激しく痙攣させながら転倒してその周囲を転げ回り、襲いかかる激痛は耐え難いのか、助けを求めて虚空に震える手を伸ばして悶え苦しむこと二十を数えるに足らず、遂に毒が臓腑に達したのか、口から大量の黒い血液を吐き出し、地面に出来た血溜まりのなかに突っ伏したまま動かなくなった。
「張兄…」
呆気ない決着に、それ以上かける言葉も思いつかない。
せめて近づこうにも劉備軍の射手に狙われているため、迂闊に動くことも出来なかった。
いつ矢が飛んでくるかも知れない中で、私は張闓との因縁に終止符を打つと、すぐに標的を劉備に切り替えた。
さあ、いつでも来い、最初に飛んできた一矢をそのまま貴様に返し、たとえこの身を無数の矢に貫かれようとも、文字通り一矢報いてその首を吹き飛ばしてやる。
最早、自分の命など、どうでもよくなった。劉備をこの地で葬れば、奴の残党くらいならどうにでもなる。私には自慢の子供たちが残っても、奴は何も残せない。覚悟は決まった。
「さあ来い!来おい!劉備ぃぃぃ!」
…。
私はこれでもかと声を張り上げて挑発するも、劉備は顔を歪めてこちらを見下すだけで、一向に斉射の号令を出さなかった。
…。
繰り返される沈黙。そして、張闓の絶命からおよそ六十を数えようとしていた。。
血の味がするほどの絶叫挑発で声がかれる寸前となった私は、もうそれ以上喉に負担をかけるようなことはせず、未だに行動を起こさない劉備を睨みつけた。少し冷静さを取り戻したことで、そういえばと、今も一人で劉備の精鋭と戦っているはずの達がいる方を見れば、大分離れたところで奮戦する達の姿があった。手負いはないが数に押されており、我々がいるところからさらに少しずつ離されていった。それでも、順調に敵を減らし続けていることで私は安堵の表情を浮かべる。
「もう間もなくです…」
突然、聴いたことのある女の声が聞こえ、再び劉備の居る方向を見た。
「げっ、月英…」
いったいいつの間に現れたのか、劉備の隣には元妻の姿があった。
どうやら、隆中が滅ぼされた後も劉備に始末されずにいたらしい。
着衣は身体に張り付くような薄絹の白衣のみという相も変わらぬ扇情的な格好をしており、闇夜に溶け込むような褐色の肌と減り張りの効いた肢体を、近くで燃え上がる炎が照らし出し、絶妙な艶めかしさを演出している。
しかし、私には、そんなことはどうでもよかった。
今、此処に、あの女が現れたということは、私にとって何か恐ろしいことが起こると容易に予感させられるからだ。
「玄徳様からいただいた情報をもとに、完全に再現させていただきましたわ。既に下準備は整えてあります。最後の条件も満たした今…あの者も究極の戦士へと変貌を遂げることでしょう」
月英は私に一瞥もくれることなく、その視線の先に絶命している張闓を見ていた。再現、下準備などと訳のわからぬ事を言っており、張闓になにか秘密があるのかと詮索するも、ふと、周囲の気配をみれば、皆張闓へと関心が移っていることに気がついた。距離が近ければ近いほど、劉備を仕留める確率は当然高くなる。私は気配を消して劉備への接近を試みた。
「ん゛~ん゛~、研究の成果、漸く観る事が出来ますねぇ。ん゛~ん゛~、凡百の雑兵を、死を超越した存在へと変える薬…ん゛〜、試すには…丁度良い相手です」
劉備は、近づこうとする私に反応を示すことなく、両手で口髭をさすりながら張闓の死体に目を向けていた。
「ええ、ほんとうに…」
劉備の言に同意した月英は、そこで、妖しさをたたえた瞳で自分たち下へ近づこうとする私を見下ろし。深い緑色の紅をさした艶かしい唇を少し歪めた。
ごくり…
月英には気づかれていたと悟るよりも、突然、存在しないはずの気配を察知した私は、恐怖と緊張から生唾を飲み込み、すぐ側で倒れているはずの張闓の死骸に目を移した。
「うぇっ!!?」
思わず悲鳴が出てしまう。
そこには平然と直立している張闓の後ろ姿が有った。
「ちょ、張兄…い、生きていたのか?」
張闓は無言のまま腕で口元の血液を拭い去ると、両手を開閉させて不思議そうに眺めている。しかし、すぐに何かを悟ったようで、急に肩を揺らしながら笑い出した。
「くふふふ、うはははははははぁっ、すばらしい、これが私の新たなる力か!」
一人で納得する張闓に月英が声をかける。
「そうです。張闓…あなたは一度死を経験することで、生まれ変わりました。あなたは今、一切苦痛のない喜びと快感だけを味わえる究極の肉体を手に入れたのです。さらに、私が処方した毒によって絶命したあなたの体内には今もその毒が流れています…」
「うはは、なぁるほどぉ〜、つまり我が血を浴びせれば、容易く奴も始末出来るのだな?」
「ええ…」
「くふふ、ならば…」
月英の説明を最後まで聞かず、張闓は落としていた自分の剣を抜いて拾いあげると、何を血迷ったか、自らの左腕を斬りつけた。
血飛沫が舞い、筋まで絶ったのかだらんと下がった左腕に走った深い創傷からは、どす黒い血液が泡とともに溢れ出した。
「くふぅ〜たまらないねぇ、なんて気持ちがいいんだ〜」
それは確信を得るためか、将又、身体変異による心労によるものか、まさかの自傷行為によって快楽を味わうという狂気を見せつけてきた。
さらに、驚くべきことに左腕の切傷は、みるみるうちに黒い血液が凝固して、それ以上の出血を阻止していた。
「ほう…心地よいだけでなく。傷もすぐに治るのか…うはは最高だな!」
そして、自分の新たな力と刹那の快楽に満足した様子の張闓は、おもむろに振り返り、私に向かって笑いかけてきた。
「うはは、という事だ孔明。いざ、続きをやろう」
「なっ、なんとぉー!!?」
蘇った張闓の顔を見て私は魂が消えそうなほど驚愕する。
唇は血色が悪く顔面は蒼白、それはまるで幽鬼のような貌。そして…
「そっ、その目はぁ!」
張闓の目は眼球が黒く染まり、瞳は赤く光っていた。間違いない。それは劉備のそれと全く同じものだった。




