奈緒の兄
月曜日の昼休み、人気の少ないベンチで二人でご飯を食べている時、彼女が気まずそうに口を開いた。
「蓮くん、今日の放課後空いてますか?」
「空いてるけど」
「突然で申し訳ないですけど、私の兄がどうしても蓮くんに会ってお礼がしたいと言ってて……。今日の放課後、駅前のカフェに来て欲しいらしいです。無理にとは言わないですけど、もしよければ顔を出してもらえると嬉しいです。」
「お兄さん……」
白百合さんの兄、白百合創。
話には聞いたことがあったけれど、まさか呼び出されるとは思ってもみなかった。
正直めんどくさいけどお兄さんを通して彼女のことを知れるかもしれないから行くことにした。
「わかった、行くってお兄さんに伝えといて」
「ありがとうございます!なぜか私には来るなって言ってきて…。変なこと聞かれたらすぐ呼んでくださいね!」
放課後カフェに着いた。
平日の夕方前の店内は、まばらに客がいる程度で静かだった。奥のボックス席に視線をやると、白百合さんと同じ艶やかな黒髪を持った、端正な顔立ちの青年が座っていた。一目で彼女の兄だと分かる。
「あの……白百合創さん、でしょうか。佐藤蓮です」
緊張で声が少し上ずってしまった。
創さんは顔を上げると、ふっと柔らかく微笑んだ。
「ああ、君が佐藤くんだね。急に呼び出してしまって申し訳ない。まあ、座ってくれ。好きなものを頼むといい、僕の奢りだから」
対面に座り、アイスコーヒーを注文する。創さんの佇まいはどこか大人びていて、僕は完全に気圧されていた。
「緊張しなくていいよ。僕はただ、君と二人きりで会って、どうしても直接お礼が言いたかっただけなんだ。」
「お礼……ですか?」
「そう、お礼だ。……まずは、あの事件の時のこと。奈緒を助けてくれて、本当にありがとう」
創さんは真剣な眼差しで、深く頭を下げた。あの事件——僕が廃墟で、窮地に陥っていた白百合さんを助けた一件のことだ。
「いや、僕はただ、当たり前のことをしただけで……」
「君にとってはそうかもしれないが、僕たち家族にとっては違うんだ。それにね……」
創さんは顔を上げると、どこか遠くを見るような、優しい目をし、
「お礼はそれだけじゃないんだよ。最近の奈緒はね、子供の時のように笑ったり、楽しそうに料理を作ったり、あんなに感情を豊かに表現する奈緒を見るのは、本当に何年ぶりだろうか。それもすべて、君が彼女のそばにいてくれるおかげだよ。本当にありがとう、佐藤くん」
「白百合さんが……」
なんだか無性に気恥ずかしくなって、僕はアイスコーヒーのグラスをいじった。日曜日、僕の部屋で人生ゲームをして、コロコロと表情を変えていた彼女の姿が頭に浮かぶ。
けれど、そこで一つの疑問が湧いた。
「何年ぶり」、ということは、裏を返せば、最近までの彼女はそうではなかったということだ。
僕の表情から何かを察したのか、創さんは少しトーンを落とし、静かに語り始めた。
「……奈緒が、学校で周囲と距離を置いている理由は知っているかい?」
「いえ、詳しくは。ただ、高校では静かに過ごしたいから、部活も入ってないとは聞きました。中学の時は美術部だったみたいですけど……」
僕がそう答えると、創さんの表情が一瞬、痛ましげに歪んだ。
「そうか、美術部の話を……。実はね、奈緒が中学時代、美術部の放課後に1人で残って絵を描いていた時のことなんだ。……あるトラブルに巻き込まれてね。詳しくは言えないけれど、彼女はそこで男の人に襲われて、大切に描いていた絵を破られてしまったんだ」
「え……っ」
「何とか学校に行けるまでは回復したんだけど、奈緒が心に負った傷は深すぎた。それ以来、彼女は他人が怖くなり、自分を守るために、周囲に対して冷たい壁を作るようになってしまったんだ。」
創さんの言葉が、胸に重く突き刺さる。
あの日、僕の部屋で部活の話になった時、彼女が一瞬見せたあの暗い表情。気まずそうに視線を泳がせていた理由。
すべてが繋がった。彼女が他人と距離を置いていたのは、二度と傷つかないための、防衛本能だったのだ。
「そんな奈緒が、君にだけは自分から進んで心を開き、一緒にいる。正直、兄の僕から見ても驚きだし……同時に、救われる思いなんだよ」
創さんはそう言って、温かい微笑みを僕に向けた。
「……そう、だったんですね」
僕は手元のグラスを見つめながら、小さく呟いた。
学校一の美少女と騒がれ、完璧に見える白百合奈緒という女の子が抱える、深い傷。
「急に重い話をしてしまってすまなかったね。でも、君には知っておいてほしかったんだ。これからも、奈緒のことをよろしく頼むよ」
創さんが深々と頭を下げて言う。
「……はい。僕にできることなら。」
想像よりも重たい過去と彼女の僕に対する想いを聞き、この先どうすればいいのかわからなくなった。




