第三話 幼年期の終わり、または濾過脳に女神が湧く
濾過フィルターは、定期交換するべきである。
これは、前世からの常識である。
研究所の水道に付けた浄水器もそうであった。
培養槽へ流す水もそうであった。
怪人用栄養液の循環装置もそうであった。
毒液噴霧怪人の口腔洗浄管もそうであった。
交換時期を過ぎたフィルターは、性能が落ちる。
性能が落ちたフィルターは、汚れを通す。
汚れを通した水は、まずい。
汚れを通した脳は、もっとまずい。
したがって、濾過フィルターは交換する。
これは、科学である。
そして、生活である。
そして、悪の秘密結社においては、爆破処理対象である。
*
前回、我輩は迷惑毒電波スパム隔離サーバー脳第二号機を作成した。
構造は良好であった。
受信部。
濾過部。
蓄積部。
逆流防止弁。
交換通知肉芽。
小規模爆破用の赤い肉芽ボタン。
まだ透明な蓋はない。
警告灯もない。
警告音もない。
だが、赤い。
押せる。
爆ぜる。
ならば、方向性は正しい。
我輩は、古い濾過脳を巣の外れに置いた。
完全廃棄ではない。
観察である。
研究者は、危険物をすぐ捨ててはならない。
危険物には、危険である理由がある。
その理由を記録することで、次の危険物をより美しく作れる。
もっとも、前世の倫理委員会なら、この時点で我輩の研究室を閉鎖したであろう。
だから倫理委員会は駄目なのである。
*
古い濾過脳は、初日は黒ずんでいるだけであった。
表面に泡。
内部から声。
食え。
増えろ。
壊せ。
人類を滅ぼせ。
うるさい。
だが、想定内である。
我輩は骨片に記録した。
――旧濾過脳、一日目。
――黒変あり。
――気泡あり。
――毒電波残響あり。
――人類滅亡指令、相変わらず雑。
――爆破処理未実施。
二日目。
濾過脳は膨らんだ。
黒い表面の下に、赤い筋が走った。
時折、脈打つ。
肉としては生きている。
脳としては死にかけている。
フィルターとしては汚染済みである。
装飾品としては不快である。
声は少し変わった。
食え。
増えろ。
壊せ。
人類を滅ぼせ。
戻れ。
探せ。
見つけろ。
混じっている。
我輩は骨片を止めた。
戻れ。
探せ。
見つけろ。
この三つは、通常の毒電波とは性質が違う。
食え、増えろ、壊せ、滅ぼせ。
これは種の命令である。
粗雑で、単純で、計画性がない。
だが、方向は明確である。
戻れ、探せ、見つけろ。
これは違う。
個体に向かっている。
あるいは、特定の対象に向かっている。
目的関数が狭い。
執着である。
我輩は記録を追加した。
――旧濾過脳、二日目。
――通常毒電波に混じり、探索命令らしき残響あり。
――戻れ、探せ、見つけろ。
――対象不明。
――放置継続。
――安全装置確認済み。
ここで安全装置確認済みと書いたことは重要である。
研究者は、危険を愛してよい。
だが、安全装置を嫌ってはならない。
安全装置は臆病ではない。
責任である。
そして、赤ければなおよい。
*
三日目。
濾過脳は、女の声で喋った。
「ルーは何処」
我輩は作業を止めた。
周囲の同型生命体も止まった。
いや、止まったように見えただけである。
実際には、口を開けたまま泥を落としただけであった。
知性はない。
驚愕でもない。
ただし、女の声には反応した。
これはよろしくない。
同型生命体は、通常の毒電波には無思考で従う。
食えと言われれば食う。
増えろと言われれば増える。
壊せと言われれば壊す。
その同型生命体たちが、女の声に鼻を動かした。
耳を立てた。
目を向けた。
つまり、女の声には、毒電波以上の誘導性がある。
危険である。
「ルーは何処」
濾過脳が、また言った。
表面が裂けた。
黒い膜が左右へ開く。
中から、小さな手が出た。
細い。
白い。
この巣に存在してよい色ではない。
次に、顔が出た。
小型の女であった。
正確には、小型の女の形を取った汚染済み祝福残滓である。
これを女と呼ぶべきかは議論がある。
しかし、見た目は女であった。
光っていた。
泣いていた。
笑っていた。
怒っていた。
同時に、すべてであった。
感情の並列処理が破綻している。
人格として未整理である。
危険物としてはよくできている。
女は濾過脳の上に立った。
立ったと言っても、足元はまだ濾過脳と繋がっている。
まるで、古いフィルターの中に溜まった汚れが、人型の泡になって浮いたようであった。
たいへん不衛生である。
「ルーは何処」
女は言った。
我輩は答えなかった。
ルーが誰であるかを知らないからである。
知らない相手の所在を問われても困る。
前世にもいた。
研究室に突然来て、書類も出さず、担当者も言わず、「例の件どうなっていますか」と聞く幹部である。
例の件とは何か。
貴様の頭の中だけで成立している例を、我輩に投げるな。
この女も同じである。
ルーは何処。
知らぬ。
仕様書を出せ。
*
我輩は、観察を続けた。
言語。
不安定。
文脈。
破綻。
目的関数。
固定。
執着対象。
ルー。
周辺誘導性。
高い。
自己認識。
不明。
他者認識。
低い。
危険度。
高い。
小型の女は、周囲を見回した。
同型生命体たちが、じりじりと近づいている。
通常なら、我輩が骨片で殴れば済む。
だが今回は違う。
彼らは食欲だけで近づいていない。
女の声へ寄っている。
女の光へ寄っている。
女の意味へ寄っている。
意味。
これが問題である。
知性のない同型生命体が、意味へ寄っている。
つまり、この女の声は、毒電波より深いところに届く。
種の衝動。
祝福。
上位存在の残滓。
何と呼んでもよい。
研究上の名称としては、汚染済み高次執着性祝福残滓、とでもしておく。
長い。
よい。
正確である。
ただし、通称は小型女でよい。
分かりやすいからである。
*
小型女は、また言った。
「ルーは何処」
声が少し変わる。
「妹はどこ」
我輩は骨片を止めた。
妹。
よくない語である。
我輩には妹がいた。
ジバーシャ。
イワン・ジバクビッチの妹。
細い手。
弱い肺。
壊れやすい身体。
それでも、よく笑う口。
あれが我輩の研究の始まりであった。
脳を残す。
身体を替える。
外部身体へ繋ぐ。
暴走すれば止める。
止まらねば、研究者が責任を取って押す。
透明な蓋の下の赤いボタン。
あれは最初、妹を殺すためのものではなかった。
妹を生かすための研究が、失敗した時に世界を壊さないための装置であった。
それを悪の秘密結社は見て、こう言った。
怪人開発に使える。
実に悪の秘密結社である。
だが、素材と設備と予算は出た。
だから我輩は入った。
正義では、ジバーシャを生かせなかったからである。
「妹はどこ」
小型女はまた言った。
我輩は、少しだけ不快になった。
この女の妹は、ジバーシャではない。
この女の妹は、おそらく、この女の物語の中でだけ都合よく使われる妹である。
妹の恋人に執着し、妹を見ず、恋人だけを探し、なお自分の物語を美化している。
この声には、その臭いがあった。
実に迷惑である。
*
小型女は、話し続けた。
「今度こそ見つける」
「今度こそ私を見る」
「輪は巡る」
「戻ってくる」
「ルーは何処」
我輩は理解した。
これは神ではない。
祝福でもない。
奇跡でもない。
妹の恋人に執着した高次存在の恋愛事故である。
妹の恋人に惚れた。
妹の恋人を追った。
妹の恋人を奪えなかった。
集団を扇動した。
妹の恋人を殺した。
輪廻転生を信じた。
転生後の相手を探し続けている。
なるほど。
非常に迷惑である。
神格化する必要はない。
これは、濾過フィルターに蓄積した汚染済み祝福残滓である。
言語は支離滅裂。
目的関数は破綻。
執着対象は固定。
自己正当化は過剰。
輪廻転生への期待値は異常。
要するに、妹の恋人に執着した高次存在のお花畑女である。
危険である。
*
小型女が一歩踏み出した。
濾過脳から、細い糸のような光が伸びる。
その光に触れた同型生命体が、口を開けた。
「ギ」
鳴き方が変わった。
いつもの食欲の鳴き声ではない。
呼応である。
まずい。
このままでは、巣全体が小型女の声へ同期する。
毒電波だけなら隔離できる。
だが、祝福残滓が人格化し、周囲の同型生命体へ命令を流し始めると、濾過構造が足りない。
我輩一体の脳を守っても、巣全体が暴走すれば意味がない。
研究施設に火が回った時、個人用防火布だけで満足する博士はいない。
施設ごと止める必要がある。
つまり、安全装置の出番である。
我輩は、濾過脳の側面を見た。
赤い肉芽ボタン。
第二冊の末尾で設置した、小規模爆破用安全装置である。
透明な蓋はない。
警告灯もない。
警告音もない。
だが、赤い。
押せる。
爆ぜる。
最低限の条件は満たしている。
こんな事もあろうかと、である。
悪の博士は、常にこんな事もあろうかと備えておくべきである。
*
小型女が、こちらを見た。
「あなたは」
我輩は答えた。
「我輩は、ドクトル・ゼンゼンマンである」
名乗りは重要である。
相手が神性残滓であろうと、汚染フィルターから湧いた小型女であろうと、悪の博士は名乗るべきである。
「ルーを知らない?」
「知らぬ」
「隠した?」
「知らぬと言っておる」
「妹が」
「仕様書を出せ」
「輪は巡る」
「会える」
「今度こそ」
「私を見る」
会話不能。
決定。
我輩は赤い肉芽ボタンへ手を伸ばした。
小型女の表情が変わった。
怒り。
悲しみ。
愛しさ。
憎しみ。
全部である。
処理能力が低い。
いや、処理しようとしていない。
感情をそのまま周囲へ投げている。
だから高次存在は困る。
感情を世界規模で放射するな。
迷惑である。
「ルーは――」
我輩は押した。
*
爆発した。
小規模である。
だが、よい爆発であった。
赤い肉芽ボタンが潰れ、腐敗ガス袋へ刺激が走り、濾過脳の内部に溜まっていた毒電波粘液が一瞬で膨張した。
黒い膜が破裂する。
光の糸が千切れる。
小型女の身体が歪む。
声が途切れる。
「ル――」
木っ端微塵である。
実に静かになった。
周囲の同型生命体は、爆発音に驚いた。
数体が転んだ。
一体は泥を食った。
一体は爆発片を食おうとした。
殴った。
転んだ。
また泥を食った。
平常運転である。
小型女の残滓は、黒い灰と白い光の粒になって空中へ散った。
光の粒は、少しの間、何かを探すように漂った。
そして消えた。
我輩は深く頷いた。
やはり、自爆スイッチは偉大である。
*
ここで、研究上の区別を明確にしておく。
自爆ボタン。
自爆スイッチ。
この二つは違う。
自爆スイッチは安全設計である。
暴走時。
汚染時。
変質時。
高次存在の恋愛事故人格が濾過脳から湧いた時。
そうした非常時に、装置を止めるための機構である。
必要である。
合理的である。
一方、自爆ボタンはロマンである。
透明な蓋。
赤い色。
警告音。
点滅する灯り。
指で押す感触。
研究者が自分の責任で、成果と失敗と迷惑毒電波をまとめて吹き飛ばす、その瞬間。
それが自爆ボタンである。
したがって、自爆スイッチは安全。
自爆ボタンは美学。
両者は重なるが、同一ではない。
我輩の博士論文『ギャラクシーにおける自爆ボタンと自爆スイッチ』においても、この点は第二章で詳述した。
審査員の一人は、こう言った。
「君は安全工学を何だと思っているのかね」
我輩は答えた。
「爆発後にも語り継がれる設計思想です」
不合格になりかけた。
だが、最終的には通った。
なぜなら、実証実験で審査室の壁が一枚吹き飛び、緊急停止機構だけは正常に働いたからである。
科学は結果である。
*
爆破後の濾過脳跡地を調べる。
黒い焦げ。
白い粉。
粘液の残り。
細い光の糸の焼け跡。
小型女の形状痕跡はなし。
再発生の兆候なし。
周囲の同型生命体への同期残響は軽微。
毒電波濃度、一時的に上昇。
我輩の第二号機改は正常作動。
頭部内への逆流なし。
よい。
実に良い。
安全装置は機能した。
爆発規模も許容範囲内であった。
欲を言えば、もう少し派手でもよかった。
だが、現時点の材料では妥当である。
我輩は骨片に記録した。
――旧濾過脳、三日放置により人格様残滓発生。
――小型女形態。
――発語「ルーは何処」。
――周囲同型生命体への誘導性あり。
――高次執着性祝福残滓と仮分類。
――会話不能。
――安全装置により爆破処理。
――処理成功。
――濾過フィルターは定期交換すべきである。
最後の一行を深く刻んだ。
これは、生活の知恵である。
*
なお、今回の事案により、濾過脳管理規定を改める。
一、濾過脳は交換後、三日以上放置してはならない。
二、黒変、発泡、探索命令が確認された時点で廃棄準備に入る。
三、「ルーは何処」と発語した場合、即時危険物扱いとする。
四、女神性を帯びて見えても、神聖視してはならない。
五、濾過フィルターに溜まった汚れであることを忘れてはならない。
六、小型女が妹、輪廻、再会、運命などを語り始めた場合、会話を試みるより爆破を優先する。
七、爆破装置は赤くする。
八、可能であれば透明な蓋を付ける。
九、警告音も欲しい。
十、自爆スイッチは偉大である。
よい規定である。
*
この一件で、我輩は一つ理解した。
この世界の上位存在は、思ったより身近に汚染物として現れる。
前世であれば、神とは宗教家の仕事であった。
悪の秘密結社にも、時折、邪神を呼ぼうとする部門があった。
あれは厄介であった。
召喚陣が研究室の床を占有する。
生贄の血が排水溝を詰まらせる。
幹部が神託を優先して実験スケジュールを変える。
結果として出てくるものは、だいたい触手か煙か、よく分からない声である。
触手なら我輩の専門に近い。
しかし、神託は困る。
数値化しづらい。
今回の小型女も同じである。
ルーは何処。
妹はどこ。
輪は巡る。
今度こそ私を見る。
神話として語れば、さぞ悲劇的なのであろう。
だが、濾過フィルターから湧いた時点で、我輩にとっては汚染物である。
神話は神官へ任せる。
研究者は濾過し、交換し、爆破する。
役割分担である。
*
もっとも、妹という語だけは少し引っかかった。
ジバーシャ。
我輩の妹。
彼女を救おうとして、我輩は脳改造を始めた。
彼女を壊さぬために、外部身体を考えた。
彼女を暴走させぬために、安全停止を考えた。
そして、止まらなかった時に備えて、自爆スイッチを考えた。
その研究は、結局、怪人開発へ転用された。
我輩は悪の秘密結社の博士となった。
頭足類悪魔となった。
蝗虫男と戦った。
爆死した。
そして今、同型生命体の肉の中で、女神の残滓を爆破している。
人生とは奇妙である。
いや、死後である。
死後も奇妙である。
だが、ひとつだけ変わらない。
壊れる身体をどう扱うか。
残る脳をどう守るか。
暴走したものにどう責任を取るか。
その問いは、まだ続いている。
我輩は、赤い肉芽ボタンの焼け跡を見た。
ジバーシャが見たら、何と言うだろうか。
「兄さん。また爆破したのね」
おそらく、そう言う。
そしてため息をつく。
愚かな妹である。
だが、よい妹であった。
*
さて。
小型女の爆破により、巣の一部が焦げた。
焦げた部分には、同型生命体が近づかなくなった。
これは有益である。
焦げ跡には忌避効果がある。
毒電波残滓、祝福残滓、爆破臭、いずれかが作用している可能性がある。
さらに、焦げた地面は乾いている。
乾いた場所は、記録片を置くのに適している。
これは思わぬ副産物である。
爆発は環境整備にも使える。
素晴らしい。
我輩は焦げ跡の中央に骨片を並べた。
記録場である。
まだ粗い。
まだ臭い。
まだ同型生命体が時折近づく。
だが、以前よりましである。
研究環境は改善された。
爆破により。
やはり、自爆スイッチは偉大である。
*
第三冊時点での成果を整理する。
一、旧濾過脳放置実験を実施。
二、三日放置で小型女形態の祝福残滓発生を確認。
三、発語内容「ルーは何処」。
四、探索命令、執着命令、輪廻期待らしき文言を確認。
五、周囲同型生命体への誘導性あり。
六、会話不能。
七、安全装置により爆破処理成功。
八、濾過脳廃棄規定を策定。
九、焦げ跡を記録場へ転用。
十、自爆スイッチは偉大。
十一、自爆ボタンには透明な蓋が必要。
十と十一は別問題である。
混同してはならない。
*
最後に、重要な教訓を記す。
濾過フィルターは、定期交換するべきである。
交換を怠ると、汚れが溜まる。
毒電波が濃縮する。
祝福が腐る。
高次存在の恋愛事故が人格化する。
小型の女が湧く。
ルーは何処とうろつく。
周囲が誘導される。
危険である。
したがって、爆破する。
実に明快である。
我輩は骨片に大きく刻んだ。
――濾過フィルターは、定期交換するべきである。
少し考え、もう一行加えた。
――交換を怠ると、女神が湧く。
よい。
分かりやすい。
研究ノートとして、たいへん実用的である。
我輩は満足した。
周囲では、同型生命体がまだ鳴いている。
「ギ」
「ギギ」
「ギャ」
うるさい。
だが、女神の声よりはましである。
我輩は、焦げ跡の中央に座った。
背中の第二号機改が静かに脈打つ。
毒電波は濾過されている。
古いフィルターは爆破された。
記録場は乾いている。
自爆スイッチは機能した。
研究は進んでいる。
我輩は、ドクトル・ゼンゼンマンである。
肉腫である。
悪の博士である。
妹を救えなかった博士である。
そして、濾過フィルターから湧いた女神性残滓を、赤い肉芽ボタンで木っ端微塵にした者である。
以上。
研究ノート第三冊、終了。




