第五話 流言②
「いつからこのことに気づいていた?」と小文が聞かれていれば、おそらく相応に気取りながら「初めから」と答えたに違いない。
だが実のところ、初めはあくまで些細な違和感――喉に小さな棘が引っかかっているような感覚にすぎなかった。
『倭は礼知らずの××なり』
小文の視線は最初、文字の上を滑り、先に伏字の部分へと目がいってしまった。ありきたりな暴言ではあるが、その強い言葉に思わず視線が集中する。しかし肝心なのは、それよりさらに前にある最初の文字であった。
(……倭?)
倭人でも、倭国でもなく、「倭」としか書かれていない。これが倭国そのものを指しているのなら、つまりは倭を国として認めないというかなり侮辱的な言い回しである。
一方でもう一つの可能性――この「倭」が倭国でも倭人でもない、全く別のものを指しているのではないかという考えが小文の中でかすかに浮かんでいた。
さて、倭人でも倭国でもない、倭という名がつくものと言えば……。
『通倭司』。
読んで字のごとく、倭国との通訳を司る部署である。小文が思いつくのは真っ先に、この自分が所属する部署であった。
(まさかね……)
その考えを小文は一度強く打ち消した。根拠のない妄想で身内を疑うなど、司官として最もしてはならないことだ。しかしその小さな棘が、次第に存在感を増していく。
証拠を取り揃えようとするように、小文は思考を巡らせ、懐から暴言の書かれた紙を取り出した。
彼女が最初に注目したのは筆跡である。だがこれはすぐに行き詰まった。意図的に崩された文字は癖を誤魔化しており、ましてやこの短文では特定が難しい。見当をつけるくらいならまだしも、特定に至ることは不可能である。
特徴の一つや二つがあろうとも、誰かのなすり付けという線も考えると、証拠と呼べるほどにはならない。ならばと小文は紙の端に指先を滑らせ、その感触を確認する。
乾ききった黒の質感。その濃さ、にじみ方、線の端のかすかな毛羽立ち。
(所詮墨なんてどれも似ているだけ……そうよね?)
最初はそう思った。後宮には墨を扱う者が大勢いる。似たような仕上がりになることもあるだろう。
他の者の墨を磨る姿が、いくつか脳裏をよぎる。ある者は水を多く入れ、ある者は急ぐが故に粒が残る。だがこの丁寧でも雑でもない、ただ人に命じられるままに同じ調子で磨り続けたことの分かる、何とも言えぬ性格の悪さがにじみ出たこの墨の荒さ。
小文は無意識に自分の指先を見下ろしていた。
「これ……私の墨よね」
司長に小言を言われるのをただ避けたいだけの、及第点すれすれの墨汁。さすがに当の本人では見間違えるはずがない。
墨の質もそうだが、「墨の荒さ」が正に自分の磨り方のそれだったのだ。
無論、自分が犯人でないことは彼女自身が一番よく知っている。とすれば、彼女が墨を磨って届けている通倭司の誰か。
そう確信したとき、犯人の輪郭が一気に狭まった。通倭司の者で、さらに通倭司に強い憎しみの感情を抱く動機のある人物。
……無論、司長ではない。彼のところに持っていく墨だけは文句を言われないよう最近は丁寧に磨ることにしている。つまりは司長ではない、通倭司の誰か。
その名が浮かぶと同時に、小文は小さく息を吐いた。
「……呉成様」
真面目であるが故に司長から様々な役目を割り振られる彼は、つい先月も倭国への使者として海を渡らされたばかりであった。おまけに初冬の南回り航路は、海も荒れ命の危機もある。そのような仕事を与えられた彼が、通倭司そのものに憎しみを持つのも当然と言えた。
『実は最近、このようないたずら書きがされていてな』
最近という言葉から鑑みても呉成が倭国から戻ってきた時期と一致する。もはや小文の中では確信に至っていた。
事の経緯を司長に告げてから一週間後、呉成の異動が決まった。
後宮の交易司への異動は、端からはただの部署異動に見える。だが役職は格下げされており、よく聞けば彼が左遷されたと分かる。
とはいえ呉成が落書きの件を表立って叱責されることも、罰を与えられたという話も聞かない。むしろ、通倭司への恨みを募らせた彼に対して配慮が成された処遇と言えた。
送終の件で晩秋から初冬にかけ、公書を急ぎ運ぶ役割を受けた功労者。
裏を返せば、司長の指示により命がけの渡航を余儀なくされた不幸者。
その彼を落書きの一つや二つで処罰していいものか、司長自身が迷った末の結果だろう。
先週、調べ上げたことを司長に告げる際に、小文はこのように付け足していた。
「信書一つのため自分の命が削られる苦しみを考えれば、通倭司が礼知らずの××だと考えてしまうのも無理からぬ事かと」
「落書きの件を不問にせよというのか」
その声には秩序が乱れた事実そのものに対する嫌悪が含まれている。しかし小文はそれよりも感情が優先した。
「華国と倭国の誤解を解き、我々さえも救った恩人を処罰すれば、他の司官たちの士気にも関わりましょう」
司長はしばし黙り込むが、それは小文の意見を受け入れることを意味しない。
小文がここまで呉成を庇うのには理由があった。
もし彼が真面目な性格でなければ、司長の命に背き、公書を運ぶ経路をより安全な北回りにすることも考えられた。船頭が言うことを聞かなかった、風向きが悪く南回り航路では渡れなかったなど言い訳はいくらでも言える。
しかし彼は己の命の危険を冒してまで、南回り航路で急ぎ公書を届けてくれたのである。そしてその真面目さ故に、内心の不満が落書きとなって現れたのだ。
そう考えれば、命を救われた側の小文がそれを暴くこと自体、礼知らずの××に思えた。情状酌量の余地はある。そのように小文は司長に強く訴えかけた。
「それに確実な証拠はありません。墨の磨り方から通倭司の者であること、そして通倭司に深い恨みを抱いている者であること。これだけでは特定までには至らないでしょう」
「そうだな。他にも通倭司に恨みがありそうな者には心当たりがある。……他でもない、小文、お前自身だ」
司長は本来の考えを明らかにした。彼は当初小文を疑っていたのだ。まずもって××という下品な言葉でいたずら書きをするなど、小文くらいしかいないであろうという思い込み。そして墨の荒さから、墨を磨った人物が小文であること。
この二点より小文を疑い、ボロを出すかと期待して、わざわざ彼女に犯人捜しの役を与えたのであった。
けれどボロを出すどころか、それなりの回答を提出してきた。予想に反した展開に一番戸惑っているのが彼自身だろう。
「証拠がない以上、罪を問うことは確かに無理だな。本人から自白があれば話は別だが……一度、呉成にも話を聞こう」
そして、現在に至る。
おそらく呉成は正直に己の罪を認めたのではないかと思う。ただしそれは小文のあずかり知らぬこと。証拠がなく罪に問えず、しかし通倭司に不満のあった呉成は異動を訴え、司長もそれを認めた。この辺りが落としどころだったのだろう。
冬の訪れが本格化し、倭国とのやり取りの減る中、通倭司の建物内には冷たくも穏やかな風が流れている。
後宮は近々訪れる正旦に向け、より彩りを増している。その中で淡々と墨を磨る小文は、仕事が減ったことに珍しく一抹の寂しさを感じていた。




