第二十五話 起誓①
大陸南東にある華国は、海から届く風のおかげか雪はさほど降らない。代わりに冬風の冷気が刃のように肌を刺す。
仕事場に向かおうとする小文が井戸端に人影を見つけたのは、そんな朝方のことであった。よく見ると伊都が一人、しゃがみ込んで桶の縁を叩いている。近づいてみると、井戸の水面が薄氷に閉ざされていた。
「あ、文さん。墨磨り用の水を汲もうとしたら、井戸が凍ってしまっていて……」
彼女は倭国語でそう声をかけてくる。こちらを仰ぐ顔には途方に暮れている色が浮かんでおり、どうすればいいか分からないようであった。
ここは墨磨りの先輩として、一つご教示して進ぜよう。小文はコホンと咳払いをすると、伊都に説明してあげた。
「北の大河近くの水路まで行って水を汲んでくれば大丈夫。前日が雨だったら布で濾したりしなきゃなんだけど、今日ならそのまま使えると思う」
「北の……ちょっと遠いですね」
「うん、だから急がないと」
冷たいようだが、今日の自分は港の方の勤めがある。彼女を手伝っている時間はない。申し訳なくもそう断ろうとしたとき、不意に後ろから足音が聞こえてきた。通倭司の司官たちであった。
「伊都殿、どうなされた?」
先頭の者が心配そうに眉を寄せる。彼女が事情を説明するより先に、彼は井戸を覗き込むと、事情を察すると同時に軽く微笑んだ。小文が見たこともない、随分と爽やかな笑顔であった。
「水であれば在下(小生)が運んで参りましょう」
「それならば自分も。二人で運べばすぐでしょうから」
二人目、三人目とかけつけた宦官たちが我先にと手伝いを申し出てきた。伊都は申し訳なさそうに笑みを浮かべながら、頭を下げる。彼女が華国語をどれだけ上達したか、より正確に言えば「上達していないか」は、小文もよく知っている。彼らが北の水路へ向かうと、小文は何とも言えない視線を彼らの背に向けた。
「在下って……随分とへりくだった言葉遣いをするじゃない。下がついてない奴らにも、あんなに下心があったとはね」
「あはは……でも、皆さんいい人たちですよ?」
「伊都がいいなら、それでいいけど」
自分はあんな手伝いをされたことがないなと小文は内心愚痴るが、しかしそれを言葉にしてしまったら負けだ。腑に落ちない思いを胸に小文は古巣を離れ、今日の勤め先である港へ向かうのであった。
小文は通倭司の所属でありながら、朝廷の管轄であった港管理の一助を担うことになった。倭国からの貿易品のやり取りには多くの通訳が必要であり、小文に白羽の矢が立ったのである。
もっとも、朝廷の人手が足りなくなったのは査問官を小文が勤めたことが理由の一つである。彼女の活躍によって宰相は処罰を受け、この港は後宮の管轄へと統合されたという経緯を考えれば、この異動は敵地を占領した後の進駐にも等しいものであった。
「まったく、人質として他国に送られたかと思えば、今度は人身御供か……」
小文の仕事に対する姿勢は墨磨りの頃と変わらず、腑抜けている。とはいえ飯を食わせてもらっている以上は最低限の仕事はこなさねばなるまい。彼女はそれだけを胸に港へ向かうと、そこの役人の指示に従い、この日勤める建物へ案内された。
「……」
小文の役職としては、通訳である。嘘は吐かれていないはずだ。しかしどうにも腑に落ちない事態が待ち受けていた。腑抜け(はらわたが抜け落ちている意)には腑に落ちぬ(はらわたに食べ物がたまらない)ことしか待ち受けていない、ということなのだろうか。
一つは、その建物で待っていたのが先日知り合った劉翔であるということ。確かに彼は朝廷側の人間であり、港の管理に携わっていてもおかしくはないのだが、彼は次期宰相としての地位にあったのではなかっただろうか?
『「改めて、自己紹介をさせてもらうよ。朝廷所属宗室少卿――いや、次期宰相、劉翔だ」』
ふむ。思い返せば、彼は「次期宰相」で「朝廷所属」、位は「宗室少卿」であることしか言っていない……。
「よく来てくれた。朝廷所属宗室少卿、そして今は港の監理を司る港監の劉翔だ。分からないことは何でも聞いてくれ」
現在の役職については聞いていなかったが、まさか彼が港での直属の上司になってしまうとは。嘘は吐かれていないが、何とも騙された気分だ。
「……それでは、劉翔様。一つお尋ねいたします。私は通訳としてここに呼ばれているという認識であっていますか?」
「もちろんそうさ。あの査問会で、君が語学に通じていることをしっかりと見せてもらった。頼りにしているよ」
「なるほど。ではもう一つだけお尋ねします。ここは、何の場ですか?」
小文は室内を見渡しながら、極めて簡単な質問を口にした。
腑に落ちないもう一つがこの室内であった。ここが何を行う場なのかは、見れば分かる。それでも問わずにはいられない。
部屋の中央には椅子に括りつけられた一人の青年の姿があった。長い黒髪を後ろで括り、目も耳も覆い隠されている。項垂れた頭部に、手にかけられた木枷。身体のあちこちにある傷跡からは生々しい血が、わずかとはいえ今も流れている。
「尋問の場だね」
しれっと言う劉翔に、小文は白い眼を向けるばかりで何も言えなかった。
「港監の仕事は多種多様でね。人員の手配、船舶の確認、帳簿の精査、そして日々発生する問題への対処。中には悪さをする者も当然いるし、そうした者を取り調べしなきゃいけないこともままあるんだ」
「なるほど、今日はその取り調べというわけですか」
「それ以外に何に見える? まさか僕が拷問しているように見えたかい?」
椅子に縛られた男は目隠しだけでなく耳栓までされているのか、こちらの軽妙、いや、軽薄なやり取りに一切の反応を見せない。
……鼓膜を破られているのでなければいいが。
「こいつには――朝廷の機密を盗み聞きし、匈国との交渉が決裂したことを一早く聞きつけ、期貨取引で利益を上げた疑いがかかっているんだ」
「期貨?」
「武器の需要が低い時に先に物を信用取引で買い付け、交渉決裂の報が流れた後、需要の高まった武器を売る……そうして空手で莫大な利益を上げたというわけさ」
匈国の使者が朝廷を訪問して皇帝と謁見し、結果として和議の交渉が決裂したという話は小文も聞き及んでいる。その際一早くこの青年が察知して倭国商に伝えたことで、信用取引で莫大な利益を上げたという――問題は、どのようにしてこの男が一早く察知したかということだ。
謁見の場に忍び込んだのであれば当然重罪であるし、どのように忍び込んだかを知る必要がある。朝廷内部の役人から情報を得たということであれば、その役人もまた吊るし上げなければ朝廷の沽券に関わる。ひいては皇帝の信頼に影響を及ぼしかねない。
「なるほど。それで、どうして通訳である私が呼ばれたのでしょう?」
「――この者が倭国商に通じている倭人であると疑われているからね」
劉翔はその倭国人の傍によると、顔を覆っている布を引き剝がした。
「何者か分かるよう、改めて教えろ」
声を低くし、脅すような声色で彼は尋ねる。その温度差に小文はぞっとし、背筋に冷汗が流れた。
「……華国朔洲の堂珍と申します。し、信じてくだせぇ……あれは本当にたまたまで、張った博打に当たっただけにごぜえますって」
「下手な華国語だ。どこで学んだ?」
「東北出身だもんで、なまってるだけにごぜえます」
東北というのは華国北東部の地域を指す。今でこそ華国の支配下であるが、劉翔のような華国人から見れば、田舎にも程があるだろう。蛮族扱いさえする者も華国には少なくない。
劉翔は見下したその態度をぱっと変え、小文にわざと明るい声色で説明する。
「……という感じで、こいつは東北人を自称している。だが、僕の見立てでは倭人ではないかと踏んでいるんだ。君にはそれを見分けてほしい。倭人特有の仕草とかがあったら教えてよ。あ、もちろんこいつが白状して倭国語を話したら、そのときは通訳をよろしく頼むね」
「なるほど、話は分かりました。では、拝見させていただきます」
小文は恭しい態度で頭を下げた。丁寧な言葉遣いであるが、要は「見てるだけ」であると遠回しに告げたのである。それが劉翔に伝わったか否かは、彼の顔色だけでは分からなかったが。
それにしても、期貨取引とは……。小文は間者と疑いをかけられている者に目を向ける。詐欺や泥棒の類と違い、そのような大掛かりな事件にまで絡んでいるのであれば、それなりの手練れに違いない。
朝廷もしくは後宮内部に忍び込み内部情報を得て、最終的には捕まったとはいえ取引自体は成功させているのである。相当に落とし難い敵であることは、小文にも想像がついた。
だからこそ、彼が倭国人であることの証左を劉翔は欲しているのであろう。
彼が倭国人であることの言質を得られれば自白に一歩近づく。嘘を一つ見抜けばそこから芋づる式に嘘を暴いていける……というのは建前。実際は、倭人であれば拷問にかけてもさほど面倒事にならないという魂胆が透けて見えた。
(何が「僕が拷問しているように見えたかい?」だ……)
小文が劉翔の意図を察して白い目を向けるが、彼は一向に気にしない。再び尋問を始め、彼が倭国人である証拠を探ろうとした。
とはいえ、その青年は問われた内容についてよどみなく答えていく。劉翔は言葉の節々に罠を仕掛けているが、それを卒なく躱していく。まるで狐狸の争いを見ているようだと小文は思った。
(狐狸、ねぇ……)
小文の脳内で目の前の言い争いから動物のじゃれあいに変化しそうになったとき、不意に劉翔がため息交じりに彼女に目を向けた。
「いやぁ、なかなか上手くいかないね。まるで蛇みたいな二枚舌だ。ちょっと休憩をとらせてもらっていいかな? 小文、その間に君が尋問しておいてよ」
そう言うと劉翔は肩をすくめてその場を離れ、炉にかけてある鍋に手をかけた。
……こいつ、お茶でも飲む気か?
近くにあった茶器を見ながら、小文もまた肩をすくめる。本当に食えない男だ……腑抜けが相手をするには相性が悪すぎる。
「はぁ、まぁ分かりました。では、ええと、堂珍と言いましたっけ……」
小文がそう呟いた時だった。視界の横を何かが掠める。それと同時に、堂珍と言う名の青年が叫び声をあげた。
「烫烫烫! 烫死了!?」
同じ言葉を三回繰り返すのは、実に華国語らしい言葉遣いである。返答する際の肯定を示す「対」も「対対対」のように三回繰り返す。倭国人である小文は返答をするときによく「対」と一回だけ返してしまうのだが、そうすると相手は大抵怪訝な顔をする。倭国語で「はいはいはい」なんて言おうものなら、相手を馬鹿にしている感じになるのを考えると、実に真逆である。
だが今はそんな言い回しよりも――小文は目の前の青年を見た。
彼は劉翔の投げつけた茶碗をもろに受け、縛られた椅子ごと横倒しになっていた――その瞬間、小文も気づく。これは間者の尋問に使われる定番の方法であると。熱湯や焼きごてで火傷を負わせて、その際にとっさに出た悲鳴で母国語を当てるというものである。
そして、この男があげた悲鳴は華国語だった。であれば……しかし、劉翔は冷酷な声でその男に告げた。
「やはり馬脚を露したな、倭人。嘘を吐くのも大概にしろ」




