第二十四話 勾指
この日の夜風は思っていたよりも冷えていた。昼の間はさほど気にならなかったのに、陽が落ちるとこうも変わるものかと小文は驚く。思わず足を止め、吐いた息が白く広がるのをぼんやりと眺める。見上げると、月が出ていた。満月である。
華国に来てから、もうどれくらい経つだろう。いつしか日を数えることは止めていた。それは望郷の念を忘れたいがためだったかもしれないし、あるいは単に面倒になったからかもしれない。いずれにせよ、故郷の記憶はだいぶ薄れ、霞のように曖昧になっていたが――
「ゆーびきーりげーんまーん……」
けれど、不意に歌が口から零れる。幼い頃、もう一人の「自分」と約束したあのときのことだけは、まだ心にしっかりと残っていた――
小文は物心ついたときから、もう一人の女子と共に育てられていた。公家という貴族の娘であり、一人娘では心もとないと考えた家族は、身代わりとしてもう一人の子を他家から呼び寄せたのである。
どちらが本当の公家の娘であるかは当人さえ知らされていなかった。どちらかが攫われたときに子供ならすぐに白状してしまうからと、分からぬように育てられたのである。あるいは親の愛情が薄い故に、娘とその身代わりどちらも扱いが変わりなかったのかもしれない。
一人は「文」、もう一人は「史」という名で呼ばれていた。
この頃から文の性格は華国にいる頃と変わらなかった。一方で史は幼いながらもしっかりとした娘で、硯の墨をぼんやり眺めている文の手を取っては、筆を取って文字を教えるといった様相であった。
「文って名前なのに、文字が書けないのはおかしいよ?」
そう言って朗らかに笑う史の声を、小文は覚えている。その顔はすでにぼやけて霞がかってしまっているが。
二人は姉妹のように育った。どちらが表でどちらが裏かは互いに知らず、知る気もなかった。隣にいることが当たり前に思っており、その境遇が他ではあまりないものだと何となく想像がついていたが、当人たちは至って気にしていなかった。
転機が訪れたのは文が九つになった冬のことである。家が突如苦境に陥り、二人はそれぞれ別の場所へ人質として出されることになった。両親の二枚舌により彼女たちはどちらも「表」として扱われたのである。
「文」は華国の元へ、「史」は武家の元へ。どちらへ行くかは、当然ながら両親によって決められた。
「華国はね、言葉が違うの。でも、漢字は同じなんだって」
別れの時が迫る残り少ない時間を、史は文の華国語の勉学に費やしてくれた。今の小文が華国語を覚えることができたのは、この時間のおかげだと思っている。
「あと、月の形も同じなんだって。えっと、なんて言ったっけ、千里共……月?」
史から教わる華国の知識は少しだけ間違っていたが、それでも文にとっては唯一の信じられる言葉であった。
「指切りげんまんも、華国から入ってきたんだって。でも倭国のそれとはちょっと違ってね……」
互いの小指を絡め、それから手を近づけて親指をくっつけあう。
二人は月明かりの下、一つ約束を交わした。いつか必ず再会しようねと。一度は離れ離れになってしまっても、いつかまた出会えるからと。
「指切りげんまん、百年経っても変わらない!」
聞き馴染みのない言葉だった。それでも、この時の「文」にとって――何よりも代え難い「言葉」として、心の中に刻まれた。
「まったく……あの子は今頃どうしているかなぁ……」
小文は月を見上げながら思う。
もう一人の自分の姿が朧になっていこうと、華国の言葉が母国語のように口からついて出るようになっていようと。この約束だけは決して忘れないようにしよう。
千里離れたこの地で、同じ月を共に眺めながら。




